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日本陳独秀研究会が発足              かけはし2002.12.16号より

中国共産党の創始者・中国トロツキズ
ム運動指導者の全体像をつかむために


 十一月九日、東大教養部構内で、「日本陳独秀研究会創立記念講演会」が開催された。
 中国共産党の創設者であり、中国トロツキズム運動の指導者となった陳独秀(一八七九〜一九四二)は、毛沢東支配下の中国では長きにわたり「日本帝国主義の手先」「売国奴」「反革命ギャング」などとでっち上げられ、全面的否定の対象となってきた。ところが毛沢東の死と「文化大革命」の終焉後、再評価と復権の動きが始まり、公的研究機関の研究者による「陳独秀研究会」の発足、隔月刊の「陳独秀研究動態」の発行や著書の出版が進んでいる。
 日本陳独秀研究会は、昨年の五月と今年の五月の二回にわたって中国で開かれた陳独秀の思想と行動をめぐる研究会議に招待されたトロツキー研究所理事の佐々木力(東大教員)を中心に結成され、この日の創立記念講演会となった。
 講演会の最初に、会長に就任した佐々木力さんが、中国における陳独秀再評価の動きや、日本での研究会設立の経過について報告した。
 続いて、事務局長に就任した長堀祐造さん(慶大教員)が、「魯迅の陳独秀観と陳独秀の魯迅観」と題して、今年五月二十七日〜二十九日に中国・南京大学で開催された「第七回全国陳独秀学術研討会」での発表をもとに講演した。
 「魯迅は中国近代文学の父とされ、毛沢東によって神格化され、文革時代には魯迅以外に読むものがないという状態にまでなった。ところが今日では魯迅批判が噴出し、魯迅批判を借りて共産党批判をする傾向まで出ている。一方の陳独秀は、帝国主義支配に抗する中国近代化の出発点となった五四運動の『総指令』として『新青年』を創刊し、中国共産党の創立者となったが、革命後の新中国では『右翼日和見主義者』『日本からカネをもらう民族の裏切り者』というレッテルが張られてきた。ところがこの間、このレッテルが剥され始め、九一年に出された毛沢東選集の新版の注では、それらは『当時のコミンテルンの中の誤ったうわさ』であったとして訂正されている」。
 このように語った長堀さんは、陳独秀と中国トロツキストが日本帝国主義からカネをもらったとする魯迅の「トロツキー派に答える手紙」の作者が実は魯迅ではなく、馮雪峰であったことを明らかにした。魯迅は、中国近代化への闘いの文化的指導者としての「独秀先生」に対して、終始一貫、敬意を払っていた。また陳独秀も、「トロツキー派に答える手紙」を読んだ後の一時期、魯迅をののしったりしたが、すぐれた文学者としての魯迅という評価は終生変わらなかったのである。
 江口憲治さん(日大教員)は、「中国共産党総書記としての陳独秀」と題して、一九二〇年十月の中国共産党創立から二九年十一月に共産党が陳独秀を除名し、陳独秀が「全党同志に告げる書」を発表してトロツキーと国際左翼反対派の運動に合流するまでの情勢の推移と論争を解説した。
 その上で、今日なお中国共産党の陳独秀に対する公式見解として維持されている「民主主義革命が社会主義革命に転化する可能性を認めなかった右翼日和見主義『二回革命論』」、「家父長制的党運営」、「農民を軽視した都市中心論者」(中共中央党校出版社が二〇〇一年に出した『中国共産党歴史大辞典』)という三つの論点を中心に、これらの批判が全く事実に基づいていないことを詳しく立証した。
 南京大学の研究者・奚金芳さんが制作したスライド「一代偉人陳独秀」が上映された。極めて興味深く貴重な八十三枚の写真が次々に映し出され、中国革命と陳独秀の生涯が浮き彫りにされた。
 佐々木力さんは、「陳独秀と第四インターナショナル」と題して講演した。佐々木さんは、モスクワの中国人留学生から始まった中国トロツキズム運動の歴史的経過、スターリンとコミンテルンの破滅的指導による第二次中国革命の無残な敗北と陳独秀のトロツキズムへの合流、そして晩年の闘いと思想について詳しく紹介した。
 佐々木さんは、「陳独秀が最後にはトロツキー派から離脱した」という第四インターナショナル内部に広がっていた「陳独秀観」が、後にアメリカSWP(社会主義労働者党)に大きな思想的影響を与えた彭述之のセクト主義的論難に基づくものであろう、と推論した。その上で当時、抗日戦争をめぐって三つに分裂していた中国トロツキー派の中で、一番トロツキーに近かったのはむしろ陳独秀だったのではないか、と主張した。
 その上で佐々木さんは、「被抑圧階級依拠・反帝国主義・無産階級民主主義=根元的民主主義の永久革命者」としての陳独秀の思想が、中国を中心とする今日の東アジアにとって極めて重要になっていると強調した。       (I)

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