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かけはし2011.1.31号

未だ遠い「占領の終結 国家の創設」

パレスチナ
民族運動の将来についての考察(中)


外からは武装解除、内からは
抵抗の権利を要請されるPA


ジュリアン・サリンゲ

2 「ファイヤド版」パレスチナ自治政府

「食料への沈黙」プラン

 パレスチナに対するイスラエルへの支配の強化は、マフムード・アッバス大統領とサラム・ファイヤド首相が率いるラマッラーのパレスチナ自治政府が演じている役割を考えることぬきには理解できない。二〇〇七年六月、ファタハのムハマド・ダフランによるガザでのクーデターの失敗後、アブ・マゼン大統領(アッバス)は非常事態宣言を発令し、ハマスが支配する政府に替えてサラム・ファイヤドを首班とする内閣を任命した。ファイヤドの選挙リストは二〇〇六年一月の議会選挙では一三四議席中二議席しか得られなかった。しかし世界銀行と国際通貨基金(IMF)の前上級役員だったファイヤドは、米国と欧州連合が望む首相だった。ハマスが議会選挙で勝利して以来中断されていた財政援助の脅しは、アブ・マゼンがこの「選択」を保留する余地を限られたものにしていた。
 したがってファイヤドは二〇〇七年六月中旬に政権につき、パレスチナの西岸地域で一連の改革を実行した。三年たった現在、ファイヤドに振りあてられた役割を理解するのは、きわめて容易である。抵抗の武装解除、そしてイスラエルとの関係を正常化しつつパレスチナの政治の重心を経済問題に移すことである。彼は、私が「食料への沈黙」プランと呼ぶものを押し付けるために行動してきた。その目的はごく一部の住民の生活を大きく改善し、それがいかにパレスチナ人の民族的主張に合致するものだったとしても反対派を弾圧して、西岸地域を安定化することである。

「経済的平和」?

 二〇〇七年は、パレスチナ問題の処理に転換が画された年のように見えた。イスラエルとパレスチナの間の「経済的平和」というレトリックが支配した。トニー・ブレア(「四人組」の特使)からであれ、サラム・ファイヤド(パレスチナ首相)からであれ、彼のイスラエルにおける同僚(エフド・オルメルト、後にベンジャミン・ネタニヤフ)からであれ。
 「経済的平和」という教義の全般的哲学は、以下のようなものだ。イスラエル・パレスチナ間紛争の交渉によるあらゆる解決の前提は、パレスチナでの経済的条件の大きな改善である。したがって優先されるべきはパレスチナ地域の経済的発展を認め、パレスチナ経済への支援供与国を強化するイスラエル側の措置である。
 「経済的平和」の教義は、パレスチナ問題の処理におけるパラダイム転換である。それはパレスチナ人を、集団的な民族的権利を主張する人民としてではなく、ニーズの充足を追求する個々人として見なしている。ファイヤドと彼を支持する外国人にとって、それはオスロ協定の時代のパレスチナ自治政府(PA)の経済政策と決別するというよりは、それを前進させ、イスラエル・パレスチナ間紛争のあらゆる解決の鍵をなすものとしてそれを促すものである。
 ファイヤド政権は、過去のやり方とある程度決別してPAの財政を明白な形で「透明」化し、ある種のえこひいき的なやり方を終わらせた。しかしオスロ合意以後作動している論理はそのまま継続した。ファイヤドの「新経済政策」は、一九九〇年代のPAのそれと共通点がある。地域の企業家を犠牲にした外国人投資家への有利な条件の提供(税の免除など)、最も利益の多い部門(ラマッラーの店舗・アパート・ホテル、新しい携帯電話ライン)の開発、そしてPAの予算を優先的に「治安部門」で増やすことである。その額は累増する「教育予算」、「保健サービスの質的改善」予算と同等になった(全体の数字を挙げれば、二〇〇八年一二月から二〇〇九年六月までの期間に治安関係で一三二五のポストが作り出され、保険・安全部門では九四のポストが抑制された)。[「パレスチナ改革・開発プラン」とパレスチナ中央統計局の資料より]
 手に入るデーダによれば、発表された二〇〇九年のパレスチナの経済成長はインチキである。外見的にはすばらしい数字(プラス六・八%)は、先に概括した論理に関連する多くの不均衡を隠している。大きく上昇した部門は建設(プラス二二%)、雇用サービス(プラス一一%)だが、工業生産の伸びは僅かなものであり、農業生産は後退している。経済成長プロジェクトにおける投資額(四億ドル)は、ファイヤド政権が計画した額(一二億ドル)よりはるかに低い。経済的飛び地間の不均衡、とりわけ西岸とガザの間と同様に、幾つかの発展する都市(ラマッラー、ベツレヘム)と西岸の他の地域との不均衡は重大である。イスラエルは依然としてパレスチナの輸出と輸入をコントロールしている。さらに予算の赤字(一五億九〇〇〇万ドル、GDPの二六%)は重大であり、それはPAを支援国への完全な経済的従属にとどめている。最後に、西岸では失業が減少しているが、現在パレスチナ人家族の二分の一から三分の二は貧困ライン以下で生活している(パレスチナ中央統計局とIMFの数字)。
 現在の外見的繁栄は、イスラエルや支援供与国との関係での真の経済的エンパワーメントに対応するものではない。パレスチナ経済は依然としてイスラエルの決定、支援者や投資家の要求に依存した従属経済である。かれら支援国や投資国は、ファイヤド政権の支援を受けて組織された二〇〇八年のパレスチナ投資会議のスローガン「あなたはパレスチナでビジネスができます」を文字通り掲げており、パレスチナ経済はカジノ経済の形態を発展させている。かれらは現実的で地域的・長期的な成長にほんの少ししか関心を持たず、すべてを失うリスクがきわめて高いことを知りながら、投じたよりはるかに多額のカネを取り戻すことを望んでいる。「経済的平和」の従者たちが遅かれ早かれ自らの犠牲を代償に学ぶだろうということ、西岸地域の住民は相対的・一時的で構造的に人工的な「経済上昇」、現実には住民のごく僅かにしか利益をもたらさないこの「経済上昇」に抗しており、自らの権利をカネに替えるつもりのないことを、あらゆることが指し示している。したがってファイヤドの政策の第二部が「弾圧」となるのである。

治安機構の再建

 アラファトの時代、治安部隊(一方で法の施行とイスラエルとの協力にたずさわり、他方二〇〇〇年九月以後はイスラエルに対する軍事作戦にも参加した)は、あいまいな役割を担っていた。それはオスロ・プロセスの基本的矛盾の一つだった。
 「オスロ協定とパレスチナ自治政府の登場以来……パレスチナの戦略の根本的ジレンマは民族解放、占領への抵抗というその主張と、国家建設という必須の課題との和解にあった……。パレスチナ自治政府は二つのぶつかりあう要請に直面している。PAは法を強制し、あらゆる武装デモを禁止することを期待されている。しかし同時にPAは……抵抗の権利をふくむパレスチナの民族的大義を支援するものと見なされている(フセイン・アガ、アフマド・S・カリディ A Framework for A Palestinian National Security Doctrine”, Chatam House, London, 2006, pp 84-86)」。
 アッバス―ファイヤドの二頭だてによって、こうしたあいまいさは取り除かれた。この点において、二〇〇七年六月以後にパレスチナ自治政府が作成した二つの綱領的文書は、きわめて強引なものである。
 その最初のものである「パレスチナの改革と開発プラン」(PRDP)は、二〇〇七年一二月の「パリ支援国会議」に提出された。それは明らかに西側諸国を喜ばせた。西側諸国は、PAが五六億ドル、三七・五%の支援増額「のみ」を主張してきた時に、ファイヤドに七七億ドルを約束したのである。めったにないことだ。PRDPの決定稿は一四六ページになる。その中で「抵抗」という言葉は一度も出てこない。「治安」という言葉は一五五回出てくるのだ。
 二〇〇九年八月の日付があり第二の綱領的文書は「占領の終結 国家の創設」との表題がついている。それは「ファイヤド・プラン」として良く知られている。「現場での諸事実」政策を通じてパレスチナ国家を建設する、という首相(ファイヤド)のビジョンを打ち出したものだ。それは、占領下にもかかわらず、二〇一一年に独立宣言を行うという展望の下にインフラを建設する、というところに行きついている。したがってファイヤドは、重大な逆転をしでかした。それは占領を終わらせる国家建設のプロセスだが、国家建設の手助けとなる占領を終わらせるものではない。PRDP文書のようなやり方でこの文書に出てくる同じ言葉の数を勘定すれば、結果は実質的に同じことになる。三七ページの文書の中で「治安」に言及する表現は三八回出てくるが、「抵抗」という言葉が登場するのはたった一回だ。それは、政府は分離壁の建設に反対する非暴力的抵抗を支持する、という文脈においてである。
 双方の文書の全体的基調は、こうした量的要素に沿ったものである。ファイヤドは「テクノクラート」の地位を自ら引き受け、主張している。彼はPLOの「後宮」出身者ではないからだ。「経済的発展」に沿った治安機能の改編が、彼の優先課題の一つである。「政府は治安機構の再編を完成させる……」。政府は、治安部門がその活動を改善できるように持続的訓練、装備、インフラを提供する。「最高度の職業的基準を達成するために、政権との分離を促進し、機構と監督機関を発展させることで、政府は責任ある治安機関を作り上げる」(「ファイヤド・プラン」文書p.16)。
 治安機構の再建は四つのガイドラインに従って行われる。
?米国に近いと思われる個人による幾人かの治安機関指導者たちの退職・配置換えなど、治安業務の改革(たとえば二〇〇八年に、カマル・シェイクに代わってハザム・アタラフが西岸地域の警察長官に任命された。カマル・シェイクはファタハのメンバーだが、ハマスとの関係で余りにも調停的だと判断された)。
?米国の監督の下でヨルダンのキャンプで行われる、数千人の新規採用者の訓練を通じた治安業務の強化。
?多数の警察官、兵士が参加した、目を見張るような二〇〇八年の「秩序再建」作戦。
?ハマスの構成員およびその支持者、ならびにそれより数は少ないが左翼組織や民衆委員会の活動家への逮捕の急増。
 アブ・マゼン(アッバス)とサラム・ファイヤドの治安政策に一貫性を与えているのは、上記四点の明確化である。治安業務の新しい指導者(全国的にも地域的にも)のほとんどは、インティファーダの指導者やファタハ武装グループとしての過去をもっていない。彼は、政治的経歴のほとんどないとりわけ熱心な「治安のプロ」である。同様に、ヨルダンで訓練された新規採用者は、ファタハの活動家層からではなく、おもにより貧しく、教育の低い、非政治的なパレスチナ住民から選ばれた。彼らは、ハマス、イスラム聖戦組織、ファタハのアル・アクサ旅団の構成員を武装解除するために行動する際には、命令に従う傾向がある。彼らは、対象となる人びととは共通の活動家としての過去を持っていないのである。
 パレスチナ自治政府は、二〇〇二年二月〜三月のイスラエルによるパレスチナ治安部隊の解体以来の西岸の一部の都市における治安の混乱した情勢を利用してきた。ナブルスとジェニンでは武装ギャングが増加し、商人の誘拐、自動車泥棒、報酬が必要な人にどんなあくどい仕事もやらせる、といった状況があった。PAは、「秩序回復」作戦の遂行は、こうした混乱状況を終わらせるためだけだ、と声明した。幾百人もの武装部隊の大規模な配備により、ギャング活動に効果的に終止符がうたれた。
 しかしイスラエルや米国の顧問と協調したこうした作戦の第二の目的である最後の抵抗集団の非武装化は、一連の事件を引き起こした。ナブルスとジェニンでは、治安部隊とアル・アクサ旅団やイスラム聖戦機構の活動家たちとの間で暴力的衝突が起きた。死者や負傷者が生まれ、その中にはヨルダンで不十分な訓練しか受けなかった新規採用の治安部隊の行為によって銃火の中に巻き込まれた局外者も含まれていた。
 こうした出来事は二〇〇〇年一〇月に始まった西岸での武装抵抗の時代を終わらせた。それは、PAが主導した武装解除政策を戦士自身が拒否する最後のサインとなり、幾百人ものアル・アクサ旅団のメンバー(二〇〇八年にはナブルス地域だけで二五〇人の部隊がいた)がイスラエルによる特赦と引き換えに武装闘争を放棄し、また幾百人ものハマスのメンバーも治安部隊の圧力により武器を置いた。情報源によって様々に異なるので数の正確な見積もりは難しいが、この二年間ではほぼ二〇〇〇人のハマスのメンバーあるいは支持者がPAの獄で刑期をつとめたとされる。

矛盾を抱えるハマス

 ここで留意すべき重要なことは、ハマス戦士の逮捕にあたっては、イスラム聖戦組織やアル・アクサ旅団の際にも起きたような武力衝突事件が比較的少なかったことだ。それはハマスが西岸でのPAとの衝突、さらには実質的にイスラエルが支配している「自治地域」での不必要な戦闘を回避する決定を行ったことを確証しているように思える。ハマスは実際にはガザ回廊の「管理」で満足している(ハマスはPAとオスロ協定を拒否して一九九〇年代と二〇〇〇年代に作られ発展した政治潮流として、相対的に矛盾した立場に置かれている)。ハマスは現在、ガザにおけるPAの機構を運営する位置にあり、そのやり方はファタハが治安業務、反対派の弾圧、身内びいきの拡大など独占的運営を行っていたかつての方法と似ているのである。エジド・サイグフ“Hamas Rule in Gaza: 3 years on” http://www.brandeis.edu/crown/publications/meb/meb41.html)。
 要するにファイヤド政権下の治安機構の再建は、パレスチナ自治政府の新しい「局面」の現れである。アラファトの下で存在していたあいまいさは決定的に取り払われた。パレスチナ治安部隊はイスラエルの占領を真に後援する軍として、植民地機構からの承認を獲得したのである。パレスチナ治安部隊再編の設計者である米国の将軍・キース・デイトンは、次のように述べた。
 「私はあなた方のどれだけが、この一年半の間にパレスチナ人が西岸全体の彼らが言う攻勢的治安に……関与してきたかを知っているのかを知らない。驚くべきことに法と秩序を回復する真剣かつ持続的なやり方でイスラエル軍とよく協調し、……そしてパレスチナ自治政府の権威を回復したのである。彼らは最初にナブルスで、それからジェニン、ヘブロン、ベツレヘムで、その献身、規律、動機、結果のためにイスラエル軍指導部の注目をひいた」(ワシントンの近東政策研究所でのデイトン将軍の演説:二〇〇九年五月七日。www.washingtoninstitute.org/html/pdf/DaytonKeynote.pdf)。
 こうしたすべての要素を考慮することで、民族運動の将来について推測することが可能になる。私は次の部分で、現在の時期を性格づける不安定性と不確実性を考慮しつつ、仮説を展開していくつもりである。(つづく)
(「インターナショナルビューポイント」二〇一〇年一二月号)


 


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