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中国 〇八憲章を評す (下)              かけはし2009.8.10号

弾圧を停止し政治犯の即時釈放を

自由主義派も強国派のいずれも一党独裁を擁護する提灯持ち
劉宇凡(香港・先駆社)

解説


 民主的改革を訴えた「〇八憲章」の起草者で呼びかけ人の劉暁波氏が、「デマや中傷によって政府と社会主義制度を転覆させる扇動をした」として北京市公安局に正式に逮捕された。昨年十二月八日、〇八憲章の発表直前に当局に拘束されてからこれまでのあいだ、当局の不当な拘束のもと監視下に置かれてきたのちの正式な逮捕である。
 中国は今年の十月一日で、新中国建国六〇周年を迎える。政府は盛大な式典を準備すると同時に、民主化運動や民族独立などに対する警戒を強めている。国家転覆罪については、国際人権団体などからも権力者の恣意的な逮捕・弾圧に利用されているとして撤廃が求めている。
 弾圧を受けているのはいわゆる「民主派」だけにとどまらない。熱烈な毛沢東支持者である鄭州の葛麗英は六月十九日に鄭州市公安局から出頭命令を受け、公共秩序をかく乱したことを理由に拘束されている。当局によると、祖先の霊を迎える清明節に毛沢東を記念する行事を実施したことや、毛沢東思想に傾倒する知識人らの影響力の強いウェブサイト「烏有之郷」(ユートピア)で鄭州の労働者による毛沢東の読書会についての報道をしたことが、「社会秩序をかく乱させた」ことにあたるという。

 これら一連の弾圧は社会主義国家・中華人民共和国の防衛を理由としている。中華人民共和国憲法の第一条は次のような一文からはじまる。
 「中華人民共和国は労働者階級が指導し、労働者と農民の同盟を基礎とする人民民主主義独裁の社会主義国家である」。
 社会主義に対する二重三重のデタラメがこの短い文章の中に織り込まれている。社会主義とは、階級が廃絶された社会であり、社会主義社会においては階級は廃絶されているのだから、支配的階級の抑圧装置である国家も廃絶されていなければならない。そのような社会に「独裁」の存在する余地はない。
 マルクス主義の「プロレタリア独裁」とは、ある国において資本主義体制が打ち倒された後も、長期にわたり人為的には廃絶することができない階級社会において、階級や国家抑圧の廃絶にむけて労働者階級が指導する政治体制である。社会主義社会はそのような段階を通り越した先に実現されるものである。しかし中華人民共和国の憲法には「社会主義」も「人民民主主義」も「独裁」もすべてが共存している。だが、現実の中国に存在するのは、労働者・農民の上に君臨する中国共産党の官僚支配体制による独裁である。
 一九八九年の民主化運動に対する弾圧によって、中国労働者階級の力は大きく制限された。「改革・開放」政策は、一層強化された官僚支配体制と世界を席巻した新自由主義グローバリゼーションのなかで、資本主義復活の巨大な梃子となった。

 六月十六日から三日間の日程で開催された中国全国政治協商会議第十一回常務委員会第六回会議において、中国における貧富の格差は「改革・開放」初期の一九八〇年代には、四・五:一であったが、現在では一二・六六:一にまで広がっていると指摘、また中国の富の七〇%が〇・四%の人間に集中していることが報告された。
 いったい誰が、社会主義へ向かう道筋や理念の転覆者なのか。政治的民主主義と経済的平等、そして国際主義に根ざした外交政策なくして社会主義を実現することはできない。中国共産党政権はその一切を裏切った。
 中国共産党政権による労働者や農民の抗議行動への弾圧、民族自決を求める人々への弾圧、異論派への弾圧のひとつひとつが社会主義へ向かう道筋を転覆させている。われわれは社会主義の名において、劉暁波氏をはじめとするすべての政治犯、思想犯の即時釈放と弾圧の停止を要求する。われわれは社会主義の名において、民主主義を追求する中国民衆、官僚と資本の過酷な搾取に抗う労働者・農民、民族自決の闘争に連帯する。    (早野)

〇八憲章を評す (上)

自由主義派も強国派のいずれも一党独裁を擁護する提灯持ち

劉宇凡(香港・先駆社)


 昨年十一月、数十人の著名な中国人知識人らによって公表された〇八憲章(訳注1)は、中国政府に対して基本的な公民の権利と民主的権利の尊重を呼びかけたものである。だがまもなく、発起人の中心的人物である劉暁波は逮捕され、七カ月間拘留されつづけた一昨日(6月25日)、「国家政権転覆を扇動した嫌疑」で正式に逮捕された。
 また、ここ数日の「烏有之郷」ウェブサイト(訳注2)に掲載された情報によると、鄭州の二人の労働者、葛麗英と宋英が、今年の清明節に鄭州の紫荊山広場にある毛沢東像の前で、毛沢東主席を記念する集まりを行ったとして、公共秩序を乱した容疑で鄭州公安局によって拘束されている。

2つの事件の性質は同じ

 われわれは、多くの人びとの呼びかけに応え、当局が劉暁波を釈放するよう要求する。なぜならそれは言論弾圧だからである。またわれわれは、個別の人間が、「烏有之郷」ウェブサイトに発表した文章での呼びかけに応え、葛麗英・宋英事件の釈放を要求する。
 誰であっても、言論あるいは記念事業を理由とした逮捕、起訴はあってはならない。われわれは当局によるこのような弾圧を厳しく非難する。劉暁波あるいは葛麗英・宋英の救援を呼びかけるということは、〇八憲章の支持、あるいは毛沢東に対する葛麗英と宋英の評価を支持するということではない。しかし、それはわれわれが中国当局に対して言論の自由に対するいかなる弾圧をも糾弾することを妨げるものではない。自由主義を信奉しようが、真の社会主義を信奉しようが、そのように考えなければならない。

互いに何を競い合うのか

 だが、悲しいことに、中国の二大思想潮流、すなわち自由主義派と強国派(訳注3)は、一般的に自らの潮流への弾圧に対しては、救援を呼びかけるのだが、敵対する潮流への弾圧に対しては沈黙、ときには黙認すらしている。さらにひどい場合には「落とし穴に落とし石を下す」。
 劉事件・葛宋事件はまさにその典型である。葛宋事件については、おそらく胡星斗という自由主義派の人間のみが、当局による葛と宋への弾圧に反対を表明している。しかし胡星斗は、「真相が分からない大衆と絶望の中にある社会的弱者層が、邪教のような集団的錯乱の行動をとらないのであれば、寛容であるべきである」という前提をつけている。問題は、この「邪教のような集団的錯乱」とは何を意味するのかである。
 自由主義派にとって、文化大革命は断固として「邪教のような集団的錯乱」であり、かれらは往々にして労働者民衆の抵抗運動を同じように敵視していることから、労働者農民の運動をも「邪教のような集団的錯乱」と見なさないとも限らないのである。他方、強国派は一貫して劉の逮捕に沈黙を守っているだけでなく、かれらが発表する文章の多くに、当局の弾圧行動を暗に支持するようなものがある。これは非常に不安な兆候である。
 とりわけ多くの毛沢東主義者自身が常に当局の弾圧を受けている現在においては。当局による弾圧への支持については、相対的に、一部の強国派は自由主義派よりもさらに突出している。
 強国派による弁解は、劉暁波らによる〇八憲章はすでに「敵対矛盾」であるからだという。奚兆永が「烏有之郷」ウェブサイトに発表した文章では次のように非難している。
 「『〇八憲章』をでっち上げた者は……敵に対する独裁を実施することに反対しており、……六・四政治波乱や法輪功取り締まりなど、改革開放以降に進められたブルジョア自由化に対する闘争に反対している。……かれらは中華人民共和国に反対する敵対勢力の側に立っており、その目的は中華人民共和国が現有し、憲法の規定するところの各種の『基本的制度構造』の転覆であり、西側資本主義国家の『基本的制度構造』にとって代えることを愚かにも企んでいる……」。
 「指摘しておかなければならないことは、『〇八憲章』をでっち上げた者が、中華人民共和国憲法に反対し、マルクス主義の指導的地位に反対し、中国共産党の指導に反対し、人民民主主義独裁の国家政権に反対しており、その目的が、中国の社会主義制度を転覆し、中国に資本主義を復活させることを愚かにも企んでいるということである。かれらの犯罪的行動はすでに刑法に抵触している。……厳しい法的制裁を加えなければならない」(原注1)

マルクスによる言論の自由

 奚兆永は劉暁波などが「中華人民共和国の『基本的制度構造』を転覆しようとしている」と主張する。たとえ劉暁波は資本主義復活の主張が見られたとしても、転覆を直接画策する具体的な行為が見られるわけではない。奚兆永は行為と思想・言論の自由の区別を一緒くたにしている。
 もちろん奚兆永は、マルクス主義者として「ブルジョアジー」の法律原則など認めない、と反論することもできるだろう。だがマルクス主義あるいは社会主義は本当にブルジョアジーが発明した一切の代物を全面的に拒否するのだろうか。そんなことはない。マルクス主義は歴史的ニヒリズムとは無縁である。そして、人民の思想が白紙であり指導者がそこに自由に書き込むことができる、などとは考えない。
 マルクス主義はブルジョアジーの進歩的な部分の一切を引き継ぐ。マルクス本人がそうであったように。一八四二年、わずか二十四歳のマルクスは、新たに制定されたプロイセンによる検閲訓令に対する最初の政治論評「プロイセンの最新の検閲訓令にたいする見解」を発表し、法律は思想言論と実際の行為との境界線を区別しなければならないと訴え、出版の自由を断固防衛した。当時の検閲訓令は「激情、性急または不遜のためにその傾向が優雅であるとみとめられる」作品を禁止した。
 マルクスは次のように批判した。
 「こうして著作家は最も恐るべき恐怖政治、猜疑の裁判のもとにおかれるようになった。傾向取締法はなんらの客観的な規範を持たない法律であり、恐怖政治の法律である。……私の行動における以外は、私は法律にとってまったく存在しないも同然であり、私は法律のいかなる対象でもない。行動こそ、法律が私を束縛する唯一の手がかりである。……ところが傾向取締法は私の行うことを罰するばかりか、行動以外に私が思っていることをもまた罰する。したがってこの法律は、公民の名誉にたいする侮辱であり、私の存在をおびやかす法律である。……この信念取締法はけっして公民のための国家の法律ではなく、一党派の他党派にたいする法律である。傾向取締法は公民の法律上の平等を揚棄する。それは分断の法律であって結合の法律ではない。そして分断の法律というものはすべて反動的である。それは法律ではなく、一つの特権なのだ」(原注2)。
 奚兆永はこう主張するかもしれない。人民内部には異なる意見があってもかまわないが、劉暁波は敵対矛盾になっているので、法的制裁を受けなければならず、言論の自由を享受することもできない、と。
 だが問題は、誰が誰を敵であると認定するのか。もし一人の指導者あるいは政権党の一存で一切が決められてしまうというのであれば、客観的な基準というものは存在しなくなり、一人の指導者あるいは政権党の意志が基準となり、法律は「けっして公民のための国家の法律ではなく、一党派の他党派にたいする法律」となってしまう。
 まさに一つの政党が自らを最高支配者とせしめていることから、今日は劉暁波という自由主義派を拘禁し、明日には葛・宋の二人の毛沢東主義左派を拘禁することができるのだ。罪名を勝手にでっちあげ、自由に拘束し、その結果、多くの人民が殺害された歴史を経たのちの現在においても、いまだ奚兆永のようないわゆる左派が、あいも変わらず当局のこのようなやり方を無条件に支持するということは極めて残念である。明日には、その独裁の鉄槌がかれらの頭上にも振り下ろされないとも限らないのに。
 われわれは、劉暁波と葛・宋両者が言論の自由を享受することを支持し、〇八憲章にある基本的公民権と民主的権利の部分も支持する。それは何よりも、これらの権利がなければ、労働者民衆は自らの最低限度の生存さえも防衛することができないからである。強国派の最大の誤りは、これらの基本的権利に反対する、あるいは無視するところにある。
 かれらは時には労働者人民の悲惨な状況にいくらかでも同情を示すが、労働者人民が基本的公民権、特にストライキの権利、労働組合を結成する権利、自由選挙などの権利を享受することに対して公然と賛同を示してこなかった。かれらにとって中国に差し迫る最大の危機は、貧富の格差ではなく、権力と資本の合作による労働者人民に対する残酷な搾取でもなく、憲法で保障されている公民権の空文化でもない。最大の危機は買弁階級が帝国主義と協力して経済的に中国を侵略し、中国の台頭を阻止しようとすることであると考えているのである(とはいえ、たとえ強国派であっても軍事侵略の危険が迫っているとまでは言えないのだが)。
 「国難」差し迫る中、国家を擁護し帝国主義に反対しなければならない。そしてこの主旋律に協調しない一切の行為は(たとえば基本的公民権)、道を譲らなければならないと考えている。そして最終的な結論はこうだ。「今後も一党独裁を擁護する!」。
 だが、かれらの診断は誤っており、それに基づいて出された処方箋にも間違いがある。今日の中国における最大の危機は外国の侵略などにあるのではない。経済侵略などでもない。危機は、徹底的に腐敗した国内政治、すなわち権力と資本の共謀によって労働者人民と天然資源が無残に搾取されているというところにある。しかも、資本主義の復活は、他の誰によってでもなく、政権党自らによって行われているのだ。強国派は政権党を批判することなく、逆に自由主義派の知識人に対して「中国の社会主義制度を転覆し、中国に資本主義を復活させようとしている」と非難している。これでは、本当の黒幕ではなく、脇役ばかりを非難するのと同じだ。一万歩譲って、外国の経済侵略が主要な危険だとしても、国民の基本的公民権を否定する必要はない。かつて共産党が国民党に対して国共合作による抗日戦争を呼びかけた際にも、同じように政党の自由を要求したではないか。強国派は外国の脅威を無限大に押し広げているが、それは客観的に見れば、今後も一党独裁を擁護するという提灯持ちの立場に他ならない。  (つづく)

原注1:「〇八憲章批判」奚兆永
http://www.wyzxsx.com/Article/Class17/200901/67704.html
原注2:「プロイセンの最新の検閲訓令に対する見解」(『マルクス=エンゲルス全集 第一巻』)
(訳注1)〇八憲章:本紙五月十八日号「民主化の動きに警戒を強める政府 〇八憲章が提起する積極性と限界」を参照。〇八憲章の日本語訳はブログ「思いつくまま」に掲載されている。
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/597ba5ce0aa3d216cfc15f464f68cfd2
(訳注2)烏有之郷:毛沢東思想をかかげ、市場経済化を促進する「改革・開放」路線を新自由主義として批判し、強い中国を掲げる知識人が数多く投稿するウェブサイト。〇五年秋に一度当局によって閉鎖されるがその後復活。今年二月、活動拠点の「烏有之郷書社」が家宅捜索を受け関係者が連行された。日刊ベリタ「毛東沢主義で『改革・開放』を粉砕せよ! 極左の城『烏有之郷』の実態」などを参照してほしい。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200903272117485
(訳注3)強国派:劉宇凡によると、「強国派とは、極めて単純にいうと中国の民族主義者のことであり、強大な国力を追求し、帝国主義諸国と世界市場を争うことを主張する。軍事的な手段を通じてではなく、政治および経済的な方法を通じてそれを実現しようとするが、その目的は同じである。」


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