| 劣化ウラン兵器禁止を求める国際行動デー かけはし2005.11.21号 |
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湾岸戦争時の汚染が今も残る米軍はイラクでの被曝を否定 |
ユーゴの爆撃被害
をスライドで報告
十一月六日、東京の文京区民センターで「劣化ウラン兵器禁止を求める国際行動デー」に連帯する集会が行われた。主催は劣化ウラン兵器禁止・市民ネットワークで百五十一人が参加した。
二〇〇一年の国連総会で、この日が「戦争と武力紛争による環境破壊を防止する国際デー」に宣言された。イラク侵略戦争勃発後の二〇〇三年五月にベルギーで開催された国際会議で設立された「ウラン兵器禁止を求める国際連合」(ICBUW)は、二〇〇四年に、この日を「ウラン兵器禁止を求める国際行動デー」とすることを呼びかけた。昨年三月に結成された劣化ウラン兵器禁止・市民ネットワークは昨年に続いて、二回目の「国際行動デー」連帯集会を開催した。東京以外でも、広島、大阪、北海道で同趣旨の行動が設定されている。
たんぽぽ舎の柳田真さんの開会あいさつにつづいて、稲月隆さんが基調報告。稲月さんはイラクに対する医療支援カンパや、外務省、防衛庁に対する交渉、劣化ウラン兵器禁止のための国際・国内キャンペーンなど、この間の取り組みについて報告した。
山崎久隆さん(劣化ウラン研究会)が「イラク劣化ウランの最新情報と日本の原発・再処理工場の関連」というテーマて報告した後、この間、旧ユーゴスラビアのセルビアとボスニア・ヘルツェコビナを訪れ、旧ユーゴ紛争、NATOのユーゴ爆撃で使われた劣化ウラン弾による被害の状況を調査した「ストップ!劣化ウラン弾キャンペーン」の仲間が、スライドを使用しながら、現地報告を行った。とりわけ戦車工場のあったボスニアのハディチ村では、劣化ウラン被曝によるガン患者の多発などの深刻な状況が続いていることが明らかにされた。
イラク帰還米兵が
被曝について報告
次にこの日のメイン報告として、イラク帰還米兵で劣化ウラン被曝による病気に苦しみ、昨年右手に指のない先天性「障害」を持った子どもが生まれたマシュー夫妻が自らの体験を切々と訴えた(ジェラルド・マシューさんの報告要旨・別掲)。妻のジャニスさんは、「子どもは障害を克服してくれるだろう。しかし私たちは政府の責任を追及し続ける」と語った。
さらにジャーナリストで記録映画「リトルバーズ――イラク 戦火の家族たち」の監督でもある綿井健陽さんが、サマワをはじめとするイラクの現地情勢を報告した。
綿井さんは、この一年間、サマワには報道機関もおらず、サマワの人たちからも自衛隊は何をやっているのか、と聞かれる状況だ、と語った。
「自衛隊は完全に宿営地に籠もっているということではなく、八月から十月にかけて三日から四日に一度くらいは道路補修の指導や医療指導などに出ている。しかし外に出て活動する人員は約一割で、残りは宿営地の外から出ることはない。イラクの食事もしたことはなく、中で日本食ばかり食べているという」。
「去年七月頃までは、サマワで自衛隊の駐留に公然と反対する人は少なかった。しかし今年七月に行ってみたら、サドル派以外でも、自衛隊を占領軍としてとらえ、撤退を求める声が一般市民の中に増えている。自衛隊に対する反発の気運が拡大していることを感じた」。
西村陽子さん(アラブの子どもと仲良くする会)が、イラクへの医療支援の活動を報告し、カンパが集められた後、雨の中をデモに出発。「劣化ウラン兵器を禁止せよ」「自衛隊はイラクから撤退せよ」と訴えた。 (K)
ジェラルド・マシューさんの報告
私はイラクで被曝した娘に先天性「障害」が
私は、二〇〇三年四月から米陸軍の輸送要員としてクウェートからイラク各地にトラックで食糧、水などを輸送し、帰りには破壊された戦車を輸送する業務についていた。ところが間もなく、顔が腫れ、視力が低下し、激しい頭痛に冒され意識ももうろうとするようになった。ドイツの病院に移送されたが、そこでは同様の病状を持つサマワに駐留していた米兵がいた。私が仕事をしていたクウェートやイラク南部は、湾岸戦争当時、とりわけ米軍による激しい爆撃が行われた地域である。
病名が突き止められずアメリカのワシントンにある陸軍病院に入院し、大量の鎮静剤を投与されるなどの治療を受けた。その頃、ニューヨーク・デイリー・ニュースの紹介で、独自に尿検査を受けて尿から劣化ウランが検出された。二〇〇四年六月には妻のジャニスが女児を出産したが、生まれた子は右手の指が欠落した先天性「障害」を持っていた。しかし陸軍病院の側は、尿の提出がさなれなかったため検査ができなかったとの虚偽の理由で、検査結果を隠した。
妻のジャニスは、ホワイトハウスに私の劣化ウラン被曝を訴える手紙を書いた。しかしその返事は、「あなたの夫は劣化ウランに被曝してはいない。劣化ウランとの関連を彼は後に主張するようになったが、最初の問診票では彼は劣化ウランについて記述していない。いずれにせよこのような被曝は重要ではない。千三百五十人が検査を受けて、そのうち三人から劣化ウランが検出されたが、その病状は強い恐怖心がもたらしたものである。われわれは半世紀以上にわたって劣化ウランを研究してきたが、その結論は、生まれてくる子どもの先天性異常をもたらすようなものではないということだ」などというものだった。
私は、今でも顔の腫れがひかず、偏頭痛が悪化し、脳下垂体に腫瘍が発見されている。いま私をふくめた八人の兵士、そして娘のビクトリアを原告としてホワイトハウスを提訴している。自衛隊が駐屯しているサマワは、今年の米議会の武器委員会で劣化ウラン汚染地域だという証言がされている。ぜひ自衛隊員、あるいはその家族に働きかけて、正確な検査を受けるようにさせてほしい。(報告要旨・文責編集部)
都教委の不当処分を許すな!
「イヤガラセ懲罰研修」反対 増田教諭の即時現場復帰を
校長にも知らせず
一方的に新聞発表
十一月七日、東京都学校ユニオンと西部全労協は、豊島勤労福祉会館で「増田教諭に対する処分撤回、即時現場復帰要求集会!」を行い、七十人が参加した。
都教委は、八月三十日、増田都子教諭(千代田区立九段中学校)が社会科公民の授業において古賀俊昭都議(自民党)や「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を出版した扶桑社に対して歴史偽造者などと誹謗、中傷する資料を生徒に配布したとして、地方公務員法第三十三条で禁止している信用失墜行為にあたるときめつけ戒告処分(昇給延伸)を強行した。
しかも本人や校長にも知らせないまま一方的にプレス発表し、産経新聞が「授業の教材で都議誹謗中傷」、読売新聞が「中三に『○○都議は歴史偽造主義』 社会科資料 自分で作成し中傷」という見出しで報道した。さらに増田さんに対して九月一日から十六日まで学校現場から追放するために区教委研究所で「反省」のための研修を強要。この研修が終わってからは、来年三月三十一日まで目黒の東京都教職員研修センターで「イヤガラセ懲罰研修」を強制し続けている。
増田さんは、都教委の不当処分に抗議し、「イヤガラセ懲罰研修」取り消し要求裁判を開始した。また、都教委が増田さんの個人情報を右翼都議であり教育破壊者として有名な土屋たかゆき、古賀俊昭、田代ひろしに流したことに抗議する都教委「個人情報漏洩」糾弾裁判、産経新聞「名誉毀損」糾弾裁判なども展開している。増田さんの果敢な闘いに応えようとする仲間たちが中心になって、都教委の増田さんに対する数々の人権侵害、違反行為を許さず、「増田教諭に対する処分を撤回し、直ちに学校にもどすべきだ」を合言葉に支援集会が実現した。
怒りを共有する
支援の輪広がる
主催者あいさつを大野昭之さんが行い、「都教委は、増田さんを教育現場から追放し、研修センターに隔離している。しかし、増田さんは、一人で闘い続けてきた。支援の輪をひろげて現場復帰をかちとろう」と発言。
被処分者の増田都子さんは、経過報告を行い、「侵略戦争を美化する「つくる会」教科書、古賀都議を批判しただけで都教委は私に処分を行った。この判断こそ、極めて不適切だ。九月一日から千代田区立教育研究所で研修。ところが研修の成果があがっていないという理由で九月二十日から来年の三月三十一日まで都教職員研修センターで研修しろと命令してきた。理性も、合理的な説明もない。こんなことを許してはならない。真実を伝えることは当たり前のことだ」と力強く闘う決意表明を行った。
次に増田さんを支援してきた津田道夫さんから「問題提起」。続いて「激励のあいさつ」を卒業生、伊沢けい子都議、八尋麻子さん(教育基本法の改悪を止めよう!全国連事務局)、かわむらひさこさん(新社会文化出版会)、金子潔さん(「君が代・解雇裁判」原告)から行われた。
続いて、スタッフによるコント「目黒残酷物語」上演、メッセージ紹介。藤田勝久さん(都立板橋高校・「君が代」刑事弾圧と闘う元教員)、酒井直昭さん(国労闘争団・団長)、近藤徹さん(「日の丸・君が代、被処分者の会」事務局長)から闘争報告と連帯アピール。
集会のまとめで金澤寿さん(西部全労協議長)は、「憲法改悪反対、教基法改悪反対、国鉄闘争勝利のための闘いを三位一体であるとして取り組んでいる。そもそも国鉄闘争は、この国にとって邪魔者だという攻撃に抗するところから始まった。増田先生の場合も教育現場からの排除ということで同じことだ。何度も繰り返されるイヤガラセを許さず、力強く闘う増田さんの闘いを支援していきたい」と発言した。
集会の最後にアピールを採択し、参加者全体で「WE SHALL OVERCOME!」を歌った。 (Y)
コラム
私の西岸良平的世界
湯冷めしたのか、日曜日は朝から熱は出るし鼻水は止まらず、一日中布団からはい出ることができなかった。昼に目を覚ましてテレビをつけると青森では雪が降り、チェーンを付けていなかったバスがガードレールに衝突した場面が映し出されていた。雪国では初冬に頻繁に起きる事故である。午後に再び目を覚ますと、女子の東日本駅伝が福島県のフルーツラインを走っていた。夏から秋にかけて桃やぶどう、梨、柿の実をたわわに実らせる場所も、木の葉は落ちて寒々としてまさに初冬である。
私は雪深い東北に生まれ育った。私の家は小さな畑はあったが農家ではなかった。それでもみぞれが降る初冬の季節が一番忙しく大変であった。冬に向かって一番最初の仕事は九月末から十月にかけて、軒先一杯になるまで薪を積み上げることが子どもらの仕事であった。焚き付け用に落ちている松の葉や松ぼっくりを集める仕事も石炭ストーブに代わる小学校の高学年まで続いた。
薪の準備が終わると畑に幾つも一メートルを超える深さの穴を掘り、ワラを敷き、ひと冬分の野菜を埋めた。さつまいも、大根、ねぎ、白菜、にんじん。とくに大根と白菜の量は中途半端ではなかった。隣村から買ってきた大根をヤマ積みしたリアカーの後を押した記憶が鮮明に残っている。
大根は`たくあんa用に干すだけでなく、土に埋めた。さらに半分に割って湯がいて干したし、`切り干しaも作ったように思う。白菜も生鮮野菜分として土に埋め、他に漬物にもした。さらに漬物用とは別に塩付けにし、春近くには塩抜きし鍋やみそ汁の具にもした。
越冬用の食い物の準備が終わると吹雪などから家を守るための「雪囲い・冬囲い」の準備である。今と違って昔の「雪囲い」は丸太を中心に組んでいたから、子どもにとっては重くて重労働のため弟といっしょに逃げ出した記憶がある。
薪、生鮮野菜、雪囲いの三つの準備が、本格的な冬を迎える前の最大の闘いであったように思う。とくに生鮮野菜はスーパーがある今と違って極めて重要であった。不意にお客さんが来て一週間分の野菜を土の中から掘り出すと、それからの一週間は塩抜きした山菜とワカメなどの乾物以外にはなかった。
海が近かったため、吹雪がなければ「鱈(たら)」が中心ではあったが魚は豊富にあった。しかし土の中から野菜を掘り出すのは、一週間に一回と決められていた。唯一手に入る生鮮野菜は、雪の下を流れる清水の脇に自生する「せり」だけであった。だが一束の「せり」を採るために雪掻きだけでも何時間もかかったので余程のことでもないと誰もやらなかった。
風邪のため夢と現実を行ったり来たりしているうちに「初冬の昔」に帰った。私の「ALL ways 夕日ヶ丘三丁目」であった。
縁側に転がっていたかぼちゃ、軒先の干し柿や大根葉なども今考えると冬を越すための準備であり、一部であったのだ。懐かしさの向こうに忘れかけていた厳しい現実があった。たまに風邪を引くのもいいか。(武)
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