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                           かけはし2004.06.28号

森田秀幸さんを追悼する

郵政労働運動や反戦運動の先頭で駆け抜けた生涯


 さる四月二十三日、郵政ユニオン多摩地方支部の中心的活動家であった森田秀幸さんが、心臓の難病で、約一年間の闘病生活の末に亡くなった。五十三歳の働き盛りだった。
 森田さんは、全逓の青年部活動、戸村一作・三里塚芝山連合空港反対同盟を押し立てた一九七四年の参院選闘争を通じて、一九七五年二月に日本共産青年同盟の結成に参加した。彼はその後、共青同三多摩地区、そして共青同全逓班協議会の一員として、階級的労働運動、三里塚開港阻止決戦、ベトナム・日韓連帯運動などあらゆる政治闘争の先頭に立った。
 一九八〇年代、当時の第四インターナショナル日本支部は、女性差別問題を始めとした深刻な組織的危機に直面し、分裂した。JRCLの三多摩組織、そして一九七〇年代後半には三桁のメンバーを擁した三多摩の共青同組織も崩壊した。しかし森田さんは、郵政全労協の闘い、ピースサイクル運動、フィリピン・ピースサイクル、フィリピンの軍隊慰安婦の闘いを支援する活動を献身的に担うとともに、「かけはし」紙の南多摩における分局を最後まで引き受け続け、「アジア連帯講座」の公開講座などにも参加した。
 三多摩の共青同組織が解体して以後、森田さんはわが同盟に結集することはなかったが、彼はわれわれの活動上の同志であり続けた。森田秀幸さん、本当に有り難うございました。(国富建治)




 
弔 辞
                           棣棠 浄


 森田君、君が「動」だとすれば、「静」の僕が出会ったのは、あの激動の七〇年代、郵政労働運動の只中でしたね。
 君の上唇の傷は馬の蹄に蹴られた跡だと聞いたとき、僕は自分の手に残る傷を見つめました。まだ小学生になる前から越冬用のまきをのこぎりで切る手伝いで負った傷が残っています。同じ団塊の世代、君は農業を継がず東京へ、私も寺を継がず札幌を経て東京へ。お互い北の大地、十勝平野の南と北に生まれた道産子でした。
 労使が激突する郵便局の職場で、差別がまかり通る理不尽を許すことができず、労働運動、青年運動に身を投じ、ベトナム反戦、沖縄闘争、そして農民が闘う三里塚にも足しげく通いましたね。どこの駅のホームだったでしょう。三里塚に行く、行かないで英子さんと口論をしていたのを思い出します。その頃が君たちの恋の芽生えだったのでしょうか。組合青年部の仲間たちと府中で盛大な結婚を祝う会を開いたのが昨日のことように思い出されます。そう、熱い時代でした。
 一九八九年、日本労働運動が大きな曲がり角に来た時、私が属していた全逓多摩西支部が本部より統制処分がされたとき、人に言えない呻吟もあっただろうに君も合流してくれ、郵政多摩合同労組を立ち上げました。そうした組合を母体に全国組織=郵政全労協が結成され、十四年目を迎える今年六月、全国統一組織に衣替えしようとしている矢先、君を失うことになりました。
 自転車で全国をつなぐ平和運動、――ピースサイクルでは、三多摩ネットの事務局長として大活躍、今や多摩の自治体では顔役でした。フィリピンピースと合わせて、君のライフワークとなりました。平和を願い、戦争責任を考え、従軍慰安婦のロラたちの痛みを共有しようと懸命でしたね。
 万年青年の君は釣りにスキーに有り余るかと思えるエネルギーをぶつけ、「勝負」するのが好きで、それでも多くの仲間達と楽しいときを過してもいましたね。
 英子さんに聞きました。二月二十三日生まれの君が三月二十三日に結婚し、四月二十三日に逝ってしまうなんて。
 そう君は駆け抜けていったのです。忘れもしません。ピースサイクルは集団で走るのです。御殿峠でリーダーだった君が皆をおいて一人でどんどん走っていった時、こっぴどくしかったことがありました。今も言います。一人で駆け抜けるなと。
 たくま君も真実君も君の背中を見、競って育ち、こんなに立派に成人しました。ご両親に先立つことは何より親不孝です。でも英子さんを始め遺されたご家族、ご両親もきっとたくましく生きていかれます。
 繰り返します。君の死は親不孝で家族や友人を悲しませます。何よりも君自身の無念さと悔しさは想像に難くありません。でも君の人生は素晴らしい人生でした。自分の思うように生き、こんな多くの仲間達に送られるのですから。
 人々の痛みを知り、「自己責任」を声高に叫ぶ無責任な集団=政治家や官僚達に怒り、イラク戦争、自衛隊派兵、改憲の動きにいらだち、家族や友人に熱い思いを抱き、その思いを全身で表現し全速力で駆け抜けた人生。
 この世で早すぎた分だけ、ゆっくりと枯れた君を見て見たかった。あの御殿峠の時のように一足先に行って待っていてください。残された私たちは、君の思いを分担しながら、それぞれの人生を全うし追いついて行きますから。
 安らかにお休みください。
 (棣棠浄さんは現在、郵政ユニオン副委員長)


読書案内 グローバル・ウォッチ編集 作品社刊 一五〇〇円+税

『日本政府よ! 嘘をつくな!』

自衛隊派兵、イラク日本人拉致事件の情報操作を暴く

 四月に起こったイラクでの日本人五人の「拉致事件」は、日本をはじめとする国際的な市民運動のネットワークが、イラクの反占領抵抗運動とむすびつき、「人質」解放にこぎつけたという点で、画期的な成果を収めた。その一方で、イラクに派兵した自衛隊の撤退をあくまで拒否した小泉政府は、その無能・無責任ぶりを自ら暴露することになった。
 本書は、ATTACジャパンをはじめとする日本の市民運動の「人質解放」への国際的な働きかけを、全世界ならびにイラクに中継したパリ在住のコリン・コバヤシさんら「グローバル・ウォッチ」が編集し、緊急に出版されたものである。とりわけコリンさんらとともにイラクの反占領抵抗ネットワークとの連絡網を駆使して解放に尽力した、アル・リカービさんらイラク民主的国民潮流(CONDI)の主張と行動を明らかにしている点で、本書の刊行は大きな意味を持っている。

 昨年十二月三日、アル・リカービさんは「東京財団」(右翼のボス笹川良一が創立した「日本財団」傘下の組織)の佐々木良昭氏を仲立ちにして日本政府に招請され、小泉首相と会談した。この会談は「自衛隊が派遣されるイラク南部の部族長の子弟と小泉首相の会談」としてマスメディアで大きく報道され、あたかもイラクの部族長の一族が自衛隊派兵を歓迎しているかのような情報操作に利用された。まさに日本人外交官二人の死と自衛隊派兵の閣議決定の間に起こった出来事である。
 ATTACジャパンなどは、リカービさんと親交のあるコリン・コバヤシさんからの連絡を受け、翌十二月四日にただちに滞在先のホテルでリカービさんとの会合を持ち、日本の反戦運動の立場を伝え、リカービさんと協力して政府やマスメディアのウソと情報操作に反撃する活動を行った(本紙03年12月15日号参照)。
 リカービさんを利用することに失敗した政府は、今度はリカービさんが「親フセイン派」であるとか、彼が日本政府から巨額のカネを受け取って派兵された自衛隊を防衛するために現地の部族を動員する約束をした、とかの一〇〇%事実と異なるデマ宣伝を週刊誌などを通じて流した。リカービさんはこの虚偽の記事を報道した「週刊ポスト」を名誉棄損で訴える裁判闘争を準備している。
 本書の第二部「リカービ/小泉会談と日本政府の情報操作」は、リカービさんとのインタビューを中心に、彼の来日と小泉首相との会談の顛末、そして「イラク民主的国民潮流」の主張を詳細に伝えている。

 もともと本書は、このリカービさん来日を自衛隊イラク派兵に利用しようとした小泉政府のウソを暴く目的で準備されたものであった。しかし四月に起こった日本人五人の「人質」事件の解決に、コリンさんら「グローバル・ウォッチ」とリカービさん本人が、決定的に重要な役割を果たしたことにより、急いで、「人質解放」にいたる経過を日誌的ドキュメントとして収録した第一部を付け加えることになった。
 昨年十二月にリカービさんが来日した時の、日本の市民運動とのコンタクト、そして世界社会フォーラムに代表される反戦・反グローバリゼーション運動がつちかった相互の信頼関係が、いかに大きな力を発揮したかは、本書を読めばはっきりする。
 「解放のために全力をつくした」と主張する小泉政権が、イラクとの重要な接点であったはずのリカービさんとはなんの連絡も取らなかったばかりか、「人質解放」にとって妨害・攪乱的役割しか果たさなかったことも一目瞭然だ。「自作自演」「自業自得」「自己責任」といった政府主導のバッシングは、「解放」になんの役割も果たしえなかった小泉政府の無力さの裏返し的居直りなのである。
 最後に、国連での新イラク決議と「主権移譲」を通じた「多国籍軍」による占領支配の継続と、リカービさんらが主張する「憲法制定国民会議」との関係について。
 米英らは、意識的にイラクの分裂と「内戦」を挑発し、「だから占領軍が必要だ」ということを国際社会に納得させようとしているように見られる。アメリカや日本をふくむ西側のメディアが描き出そうとしているのは、聖職者に支配されたイスラム宗派と民族・部族によって分断され、カオス状況になっているイラクである。したがって秩序を担保するのは外国占領軍以外にはないというのだ。
 しかしリカービさんの主張するのは、民衆の中から生み出されてきた宗派・民族・部族を超えた「民族性」としてのイラクである。イラクに住む人びと自身が占領に対する抵抗の中から作りだす民主主義的「主権」としての「イラク性」への確信が、彼の「憲法制定国民会議」準備委員会の呼びかけの中に貫かれている。
 われわれは、国際的な反戦運動、イラク民衆への支援の運動の中で、こうした「イラク人のイラク」をめざす民主主義的抵抗への連帯を持続的に作り上げていく必要がある。  (純)         


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