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映 評「この世の外へ クラブ進駐軍」         かけはし2004.02.23号

「平和」と「戦争」が交錯する現代史の中の青春群像


 「9・11」を通して「戦争」の現実性を実感したこと、また占領軍のキャンプに出演していた今は年老いたジャズメンと出会ったこと――「戦後」を知らない阪本順治監督がこの映画を構想した背景はそうした体験だったという。「しんぶん赤旗」なども高く評価する映画「この世の外へ」の今日性とは、庶民が肌で感じざるをえない日々の生活の中での「戦争のリアリティー」にあるのだろう。
 映画は、軍楽隊出身の兵士・広岡健太郎(萩原聖人)が、「終戦」を知らないままフィリピンのジャングルで飢えと渇きに息もたえだえになりながらさまよっていた時、ジャズをスピーカーから奏でる米軍機がまきちらした「大詔渙発」のチラシを手にするところから始まる。
 二年後の一九四七年、健太郎(サックス)をはじめ、池島昌三(オダギリジョー、ドラム)、浅川広行(MITCH、トランペット)、平山一城(松岡俊介、ベース)、大野明(村上淳、ピアノ)といった面々が集まった。即席のジャズバンドを結成して占領軍キャンプで演奏し、高額の報酬を稼ぐためだ。もっとも昌三のようにまったくの素人もいて、ジャズ演奏の技量などは米軍兵士にとってはおよそ話にならない。
 ストーリーは、占領軍兵士との衝突と交流を経ながら、「ラッキーストライカーズ」と名乗った五人が徐々に演奏の技量を高めていく過程と、焼け跡・ヤミ市の光景を重ね合わせて進んでいく。昌三の親は長崎の被爆者で療養中、広行はヒロポン中毒、一城の兄は警察につけまわされている共産党の活動家、生き別れになった明の弟は浮浪児のボスとして「成り上がる」ことを望んでいる、といったそれぞれの個人的事情も明らかになっていく。貧困と猥雑な無秩序と生きるための庶民の活力が錯綜する画面は、しかしややエピソード過剰といった印象を免れない。
 その後、「ラッキーストライカーズ」は明の脱退などで活動を休止したが、広行のヒロポン中毒死を契機に再結成し、占領軍クラブで演奏活動を開始する。しかし、そこに朝鮮戦争が勃発した。テナーサックス奏者としても一流で、健太郎との友情を培っていた兵士ラッセルは朝鮮への出兵命令を受けて健太郎に自作の曲の楽譜を渡す。題名は「Out of This World 」(この世の外へ)だった。「死ぬな」という健太郎に「その反対だよ、殺しに行くんだ。戦争なんだから」と答えるラッセル。そしてそれから時を経ずしてラッセルの戦死が伝えられた。
 映画は、占領軍クラブで次々に朝鮮半島への派兵兵士の名前が読み上げられ、一人一人起立していく場面で終わる。それは束の間の「平和」が再び戦争にとってかわったことを象徴するものだった……。
 「9・11」とアフガン、イラクと続く戦争が、「占領軍クラブと日本人ジャズバンド」という映画のモチーフに影響を与えたことは事実だったとしても「作品が今の時代にリンクしてほしいとは思っていたけど、決してタイムリーであることをねらったわけではない」と阪本順治監督は語っている(「赤旗」2月1日)。彼はまた「厳しい状況の中で何かを求め、うろたえる若者たち」を描きたかったし、「人のことはわかったように言えても、自分のことを言われると何も言い返せない。その成熟しきっていない感じは今の日本の若者と同じだと思った」とも述べている(映画のパンフレットより)。
 阪本監督は健太郎に「武器を楽器に」と語らせているが、決して何らかの社会的メッセージを前面に出した映画ではない。ただ、「平和」と「戦争」が相互に反転しあう現代史の今日的意味と、その中での青年像を描くことによって、時代に前向きに「うろたえ」ようとすることを呼びかけた映画とも受け取れる。
 ただ先にもふれたことだが、自分の知らない「戦後」を描こうとするあまり、阪本監督自身が「風呂敷を広げすぎたかな」と振り返っているように、あらゆる要素――米軍内の黒人差別や在日朝鮮人の廃品商の姿や「レッドパージ」など――を詰め込みすぎたことが、見たあとの印象を薄めたことも確かではないか。
 占領軍クラブを仕切る軍曹ジムを演じるのは「マイ・ネーム・イズ・ジョー」でカンヌ映画祭主演男優賞を受賞したピーター・ムラン。エキストラとして米兵役で登場した人の中には、その後イラク戦線に送られた現役米軍黒人兵もいるという。脇役だが哀川翔演じるニセ日系二世「ブッキングマネージャー」の軽さが、なかなか光っていた。
                                 (坂口民雄)

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