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日本共産党綱領改定案批判 (下)           かけはし2003.9.8号より
資本主義の危機下でいっそう非現実性を増す「資本主義の枠内改革」路線

「もう一つの世界」めざす闘いへの合流を    樋口芳広(日本共産党員)


4 不連続な二段階革命論へ

二段階革命論のどこが問題か

 先に、不破が、政治的支配と経済的支配の違いについて論じていることを見た。この発想を徹底するならば、政治革命と社会革命とは区別されなければならないことがわかるだろう。労働者階級が国家権力を獲得して社会主義の建設をめざす場合を考えてみよう。労働者階級を中心とした、社会主義を志向する勢力が国家権力を奪取したとしても、ただちに社会経済制度の社会主義的変革に本格的にとりかかることができるとは限らないし、とりかからねばならないわけでもない。国家権力の奪取の問題と社会経済体制の変革の問題とは機械的には対応しないのである。
 また、そもそも、国家権力をめぐっては、はっきりと政治革命という画期を認められても、社会経済体制については、それこそ「一歩一歩階段をのぼる」ような、永続的な変革の過程と言えるだろう。社会経済体制の変革について、資本主義の枠を直接こえない政策的課題が中心になる段階と、資本主義制度の全体的廃止が課題になる段階とを、たとえ相対的に区別することができたとしても、機械的に切断することはできない。政治革命としては一段階、社会革命としては永続的な改革の積み重ねというのが適切な見方であろう。
 従来の日本共産党綱領の二段階革命論は、社会経済体制の変革において二つの段階を機械的に切断して異なる革命としたうえで、異なる二つの性格の国家権力を想定して、これらに機械的に対応させたものなのである。すなわち、前者は「人民の民主連合」の権力による反帝反独占の民主主義革命、後者は「労働者階級の権力」による社会主義革命、というわけである。これは、社会革命のレベルでの機械的な段階論であり、また、政治革命と社会革命を混同してしまっていることに問題がある。

改定案は二段階革命論のどこを変更したか

 ところが、改定案においては、「社会主義革命」という語は使われず、「社会主義的変革」という語が使われている。正確に言えば、一九九四年の第二十回党大会での前の綱領改定の際にすでに、綱領上の文言としては変更されているのであるが、今回、不破はなぜそのような変更を行ったかについて説明している。
 すなわち、「民主主義革命」においては「日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力」から「日本国民の利益を代表する勢力」の手に国の権力が移らなければならないが、社会主義への前進のさいにはそのようなことが起きるとは限らない、民主連合政府が「社会主義をめざす権力」に成長・発展する場合も考えられるから革命とは言わない、という説明である。「国の権力が一つの勢力から別個の勢力に移るのが革命だ」という政治革命論からのこの説明自体は、政治革命と社会革命との混同という従来の二段階革命論の問題点を是正するものであり、ほぼ了解できるものである。
 しかし、一方で、今回の改定案では、民主主義革命が社会主義的変革への移行の基礎をきりひらくという二つの革命の連続性についての記述を削除し、民主主義革命について、「資本主義の枠内」という明確な限定をくわえるという重大な変更を行っている。社会革命のレベルでの機械的段階論をさらに深化させているのである。この理由について不破は、次のように説明している。
 「民主主義革命にしても、社会主義的変革にしても、日本がその道をすすむかどうかは、すべて、国の主人公である日本国民の判断にかかわる問題です。今回の改定案では、この立場から、民主主義革命そのものが、社会主義につながる性格を本来的にもっているとか、民主主義革命が成功したら、次の段階への前進を急ぐのが当然の任務になるとか、連続革命論的な誤解を残すような表現は、すべて取り除き、社会の進歩は、どんな段階でも、主権者である国民の判断の発展によってすすむという根本の見地が、すっきりとつらぬかれる表現に整理したわけです。」
 ここでは、社会革命における機械的段階論の根拠が、「国民の判断」というもっぱら観念的なものに求められている。しかし、そもそも「国民の判断」なるものを、客観的な現実社会のあり方と切り離して論じるわけにはいかないのである。また、もちろん、どんな改革も労働者階級と人民の合意なしに党だけの独断で進めることはできないというのは当然の前提である。しかし、党がどのような内容での合意を追求していくかは、現実社会の分析にもとづき、どのような内容の改革が必要とされているかを検討した上で、党が主体的に決めるべき問題なのである。
 ここでの不破の説明は、民主主義革命と社会主義的変革は客観的には連続しているのだが、このことは日本共産党には理解できても日本国民の多数には理解できないだろう、だから当面する改革に「資本主義の枠内」という限定をくわえるのだ、と主張しているに等しい。「国民の判断」をタテに「資本主義の枠内」にとどまることを正当化することは、いかにも「国民」を尊重したような物言いでありながら、実際のところは、大衆蔑視以外のなにものでもないのである。

「枠内改革」路線の非現実性

 不破は、党創立八十一周年記念講演で、今回の改定について、民主主義革命論をより合理的、現実的なものにするため、と語っている。確かに、民主主義革命に「資本主義の枠内」という限定をくわえることは、合理的で現実的になったことのように思えなくもない。しかし、これが必ずしもそうではないことは、少し具体的に考えてみると明らかになる。
 仮に、日本共産党が重要な一翼として参加する民主連合政府が成立し、サービス残業の根絶、週三十五時間労働制の導入、解雇規制の徹底など、「ルールなき資本主義」の現状を打破するための「民主的規制」を実行すると考えてみよう。これらの政策自体は決して社会主義的なものではなく、理屈の上では、資本主義の枠内でも十分可能なことである。
 しかし、政治は必ずしも理屈どおりには進まない。政府があくまでも「資本主義の枠内」であることを強調しても、大企業・財界は、「共産党政権」によるこれらの政策を、生産手段の私的所有の基礎を崩す第一歩と感じて、徹底的に抵抗するかもしれない。とくに、ケインズ政策やフォーディズム蓄積体制など、戦後資本主義経済の成長を支えた仕組みが行き詰まり、資本の生き残りをかけた新自由主義の攻勢が全面化している現在においては、たたでさえ、企業活動への社会的規制についての抵抗は非常に強いのであるから、なおさらである。
 そのような状況に直面したとき、民主連合政府があくまで「資本主義の枠」に固執するならば、妥協につぐ妥協、後退につぐ後退を余儀なくされるであろう。もしかしたら不破は、そのときこそ民主連合政府から「社会主義をめざす権力」へと前進するのだ、と主張するのかもしれない。しかし、当面する改革は「資本主義の枠内」のものであるという「国民の判断」にもとづいて成立した政府が、すんなりと「社会主義をめざす権力」に発展することができるだろうか? 大企業・財界の必死の抵抗が予測されるならば、最初から、「資本主義の枠」にこだわらない改革内容についての合意にもとづいた政府の成立をめざす方が合理的で現実的ではないだろうか?
 このことは、日常的な活動の中でにただちに社会主義革命の旗を掲げるべきだ、ということを意味しない。あくまで「資本主義の枠」にこだわるのが改良主義的なのは確かだが、ことさらに「社会主義」という言葉を振り回すことが革命的なわけでもない。当面する改革が「資本主義の枠内」のものなのか、それとも社会主義的な性格のものなのかという議論そのものには大した意味はない。
 何よりも大切なことは、労働者階級と人民諸階層が現実に直面している苦難から出発して、それを解決するために必要な諸方策を掲げること、その実現のためには生産手段の私的所有制といえども聖域とはしないという姿勢を堅持することであり、そうした内容で労働者階級と人民の合意を求めていくことなのである。


5 「社会主義・共産主義の社会をめざして」について

 第五章は、全面的に書き改められている。その理由として不破は、現行綱領の叙述が、一九五〇年代の国際的な「定説」を前提とした骨組みになっていることをあげ、ここを根本的に再検討したのだと述べている。実際、改定案においては、「能力におうじてはたらき、労働におうじてうけとる」という、一九三六年のスターリン憲法に起源を持つ、いわゆる「社会主義の分配原則」などが削除されている。このように、スターリン時代の「定説」にとらわれない姿勢が示されていること自体は評価できる。
 ただ、改定案全体を見てみると、現実社会の変革をめざす日々の活動の中で社会主義の概念を具体化し豊かにしていくという前向きな姿勢ではなく、社会主義とはソ連のような社会だという類の誤解や偏見を解く、という後ろ向きの姿勢が感じられてしまう。改定案について、理論問題での検討はもちろん重要なのだが、もっと重要なのは、日常の闘争を社会主義・共産主義につながるものとして位置付けられるかどうかという基本的な姿勢についての検討であろう。これは、たんに第五章にとどまらない、改定案全体の性格にかかわる検討が必要になる問題である。

既成事実の崇拝

 改定案は、世界資本主義が深刻な危機にあることを強調し、とりわけアジア・中東・ラテンアメリカ・アフリカについては、「資本主義の枠内では経済的発展の前途を開きえないでいる」と述べている。改定案は、大局的な歴史の発展方向として社会主義への前進の不可避性を主張している。
 ところが、不破は、こうした深刻な危機にある世界資本主義の一部である日本資本主義については、あくまでも「資本主義の枠」にこだわった「民主的改革」を主張しているのである。世界資本主義の危機を叫び、社会主義への前進は不可避だと主張する不破が、現在の世界のどこに「社会主義への流れ」を見ているかといえば、「資本主義から離脱した国」、すなわち、中国、ベトナム、キューバの存在なのである。
 自国の資本主義に堂々と闘いを挑むことができない不破は、既存の「資本主義から離脱した国」の存在にしがみついて、社会主義の不可避性を主張しているのである。これは端的に言って既成事実の崇拝であり、現実の大胆な変革への果敢な態度とは程遠い、臆病な態度である。

資本主義の歴史的構造変化

 このことは、改定案による現代資本主義の矛盾の捉え方にも現れている。社会主義への前進の可能性がどこにあるかということは、資本主義の深刻な矛盾がどこにあるかということにほかならない。改定案は、「巨大に発達した生産力を制御できない」ところに資本主義の矛盾を見ている。これはもちろん間違いとは言えないが、あまりに抽象的にすぎ、一般的にすぎるのである。社会主義の不可避性を抽象的に語るだけではなく、現実の資本主義体制を本気で変革しようとするのならば、より構造に踏み込んだ形での提起が求められる。
 現代資本主義の最も顕著な特徴は、新自由主義的政策が世界中で横行していること、つまり、新自由主義的グローバリゼーションの進行である。この背景には、戦後の資本主義経済の高度成長を支えてきた政策の行き詰まりがある。国家財政の投入により有効需要を創出して景気を調節しようとするケインズ政策は、経済が低成長におちいると、財政収支の悪化により深刻な財政危機をもたらした。また、低成長への移行は、成長の枠内での所得の再分配によって大量消費を促すことで拡大再生産を保障してきたフォーディズム的蓄積体制も維持できなくしてしまったのである。
 こうした中で、一九七九年に発足したイギリスのサッチャー政権、一九八一年に発足したアメリカのレーガン政権、一九八二年に発足した中曽根政権などの時期から、新自由主義的経済政策の流れが強まった。それは、「自由な市場原理」こそが経済を「再活性化」させるという考えのもと、大企業への社会的規制を徹底的に取り払い、社会生活のあらゆる分野を利潤追求に開放し、世界的な規模で独占資本の集積・集中をつよめようというものであった。ソ連・東欧諸国の崩壊は、この流れを一層加速した。
 各国の資本は、激化する国際競争に打ち勝つために、負担と感じられるものを徹底的に削ることを要求する。だからこそ、新自由主義的経済政策が世界中で横行しているのである。つまり、現在進行している新自由主義的グローバリゼーションは、世界資本主義の行き詰まりにその根を持つのである。
 重要なのは、こうした新自由主義的グローバリゼーションの進行が、全地球規模での人々の抵抗を生み出しつつあることである。新自由主義的グローバリゼーションが、それによって生活を破壊される諸階級・階層の闘争の合流のための基盤をつくりだしていることをしっかりと把握する必要がある。労働運動や農民運動、あるいはまた環境問題に取り組む運動など、従来は必ずしも結びついていなかった各種の運動が、新自由主義的グローバリゼーションに反対するという一点で大きく合流し始めているのである。
 ところが、改定案には、このような世界資本主義の歴史的構造変化についての記述は一切見られないし、新自由主義的グローバリゼーションに反対する運動についても触れられていない。「グローバル化」という言葉が登場するのはわずか二回、それもアメリカの経済的覇権主義の現れとしてである。

「もう一つの世界」をめざして

 新自由主義的グローバリゼーションに反対する運動は、「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンを掲げるところにまで発展してきたが、それは今や、この抽象的スローガンのレベルにとどまることなく、その具体的な展望について議論し始めている。例えば、グローバリゼーションの中での、生命や自然、知的所有権の私有化という攻撃に対して、土地、水、大気などを「人類共通の資産」ととらえる考え方が生れつつある。これは社会主義という抽象的な言葉こそ使っていないものの、客観的に見て資本主義の私有財産制を突破する可能性を秘めているものである。
 さらに、新自由主義的グローバリゼーションに反対する運動は、反戦運動とも結びつきつつある。今年二月十五日のあの空前の世界同時反戦行動は、「世界社会フォーラム」などを通じて組織されたものである。新自由主義的グローバリゼーションに反対する運動は、資本のグローバル化が軍事のグローバル化をもたらしているという現代の世界の構造そのものを問題にし、その変革を求め始めているのである。
 もちろん、現段階では、新自由主義的グローバリゼーションに反対する運動を、明確な反帝国主義的意識、反資本主義的意識にもとづいた運動と評価することはできない。しかし、間違いなくその萌芽が含まれている。帝国主義・資本主義を乗り越える「社会主義への流れ」は、既存の「資本主義を離脱した国」なるものの存在にではなく、このような世界中の人々の運動とその中での真剣な模索にこそ見出されるべきなのである。
 われわれに求められるのは、既存の「資本主義を離脱した国」の存在にしがみついて抽象的な社会主義という言葉をもてあそぶことではない。世界中の人々とともに、資本のグローバル化と軍事のグローバル化に反対する運動の発展に努力することであり、「社会主義」と名づけられた既存の理論や運動、体制にとらわれることなく、根本的に社会主義の概念を再構築する気概をもって、「もう一つの世界」のイメージを具体化していく作業に積極的に参加していくことなのである。      (おわり)


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