| 日本共産党綱領改定案批判 (中) かけはし2003.9.1号より |
| 資本主義の危機下でいっそう非現実性を増す「資本主義の枠内改革」路線 |
| 「もう一つの世界」めざす闘いへの合流を 樋口芳広(日本共産党員) |
いかなる国を「帝国主義」と呼ぶか?
資本輸出の侵略性を否定する不破は、「帝国主義」という語をどのように使おうというのだろうか? 不破は、「帝国主義」という呼称には、その国の侵略的な政策や行為にたいする「政治的な批判と告発」がふくまれるとして、次のように述べている。
「私たちが、ある国を帝国主義と呼ぶときには、その国が独占資本主義の国だということを根拠にするのではなく、その国が現実にとっている政策と行動の内容を根拠にすべきであり、とくに、その国の政策と行動に侵略性が体系的に現れているときに、その国を帝国主義と呼ぶ、これが政治的に適切な基準になる」。
ある国を帝国主義と呼ぶべきか否かは、「政策と行動」のレベルから判断されるべきだというのである。確かに、レーニン自身が認めているように、「帝国主義=独占資本主義」というのは純経済的概念である。これだけでは経済還元主義的であり、一面的である。帝国主義という概念は、独占資本主義の体制そのものを直接にとらえたものではなく、侵略的政策を媒介として、そのような政策を必然化するところの一国の体制的秩序をとらえたものと考える方が適切であろう。
しかし、不破においては、資本輸出の侵略性の否定によって、「政策と行動」が独占資本主義という経済的基礎から機械的に切り離されてしまっている。しかも、ここでは、「植民地支配とその拡大とか、それを争っての戦争など」に近いような、かなり露骨な「政策と行動」が想定されているのである。
このような基準からすれば、かなり露骨に侵略的な「政策と行動」をとっている国のみが帝国主義と呼ばれ、一般的には、「非帝国主義的政策が独占資本主義と両立する」というカウツキー主義的な立場が主張されることになる。
最近、不破は「科学の目」ということをしばしば強調しているが、アメリカによるイラク戦争の強行や占領支配などのような、だれにも明らかな侵略の政策や行動を帝国主義と呼ぶだけでは、「科学の目」に値しない。例えある独占資本主義国が、一見、露骨な侵略の政策や行動をとっていなくても、自国の独占資本の拡張欲を保障するための対外的な政策や行動によって他国の民衆を抑圧しているならば、帝国主義として「政治的批判と告発」を行うべきである。政策と行動の形態は変化しても、そこには独占資本主義に固有の侵略性が貫かれていることを発見してこそ、「科学の目」と呼ぶに値するのである。
フランス、ドイツをめぐって
不破は、「植民地体制の変化をふくむ現在の世界情勢の変化のもとでは、独占資本主義の国でも、帝国主義的でない政策や態度、つまり、非帝国主義的な政策や態度をとることは、ありえる」とし、「イラク戦争におけるフランス、ドイツの態度は、その一つの現れ」としているから、これについて検討してみよう。
イラク戦争において、フランス、ドイツがあからさまに帝国主義的な政策や態度をとらなかった要因にはさまざまなものが考えられるが、最大のものは、人類史上最大規模とされる、あの反戦運動の高揚からの圧力にある。間違っても、フランス政府首脳、ドイツ政府首脳の平和を愛する気持ちにあるわけではない。
このことは、一九九九年の旧ユーゴ戦争において、NATO軍がユーゴスラビア全土に爆弾やミサイル、劣化ウラン弾を打ち込んで多数の民衆を殺害したことからも明らかである。また、とくにフランスについて言えば、アフリカにおける旧植民地諸国にODAを集中的に供与して影響力の保持に努めるとともに、こうしたアフリカ諸国をはじめ、カリブ海、太平洋上の小島などの海外領土に軍事基地をおき、ポリネシアでは、一九六六年以来、核実験を行ってきたのである。
不破には、世界人民の連帯した闘争によって、こうした独占資本主義諸国の行動を縛っていく、党の活動をそうした闘争の一環として位置付けていくという発想がない。国際的な階級闘争のそうした過程的構造には踏み込まず、独占資本主義諸国の侵略的な動きが制約されているという結果だけを受け取り、これを不動の前提にして自らの方針を定めるという極めて傍観者的なやり方に終始しているのである。
闘ってこそ独占資本主義諸国の侵略的行動を制約できるという立場と、独占資本主義諸国は侵略的でなくなったから闘わなくてもよいという立場では、天と地ほどの差がある。
アメリカ帝国主義をめぐって
不破は、先にあげた「政治的に適切な基準」にもとづいて、侵略と戦争の世界政策を持つアメリカは、まぎれもなく帝国主義であると断言している。ところが、「非帝国主義的政策が独占資本主義と両立する」というカウツキー主義的立場は、ここにも貫かれているのである。
「私たちは、国際秩序をめぐる闘争で、一国覇権主義の危険な政策を放棄することをアメリカに要求し、それを実践的な要求としています。そして、これは、世界の平和の勢力の国際的なたたかいによって、実現可能な目標であることを確信しています。
さきほど、日米関係について、綱領改定案が、『アメリカの対日支配は、……帝国主義的な性格のものである』と明確に規定していることを、紹介しました。しかし、その対日支配を終結させることは、アメリカが独占資本主義の体制のままでも、実現可能な目標だと、私たちは考えています」。
確かに、世界人民の闘争によって、アメリカ帝国主義の侵略の政策と行動に一定の制約を加えていくことは可能であろうし、われわれはそのために全力をつくさねばならない。しかし、独占資本主義の体制である以上、侵略的政策へと向かう動機は常に存在しているのである。この点を軽視することはできないし、ましてや否定することなどできない。対米従属の打破を重要な内容とする日本革命について言えば、その勝利は、最終的にはアメリカ革命の勝利によってこそ保障されると考えるべきである。
4 「民主主義革命と民主連合政府」について
1 革命水準の切り下げ
民主連合政府
の位置付け
今回の改定案で特に大きな変更の一つは、民主主義革命を行う政府を民主連合政府と規定したことである。現行綱領では、民主主義革命を行うのは「民族民主統一戦線政府」であり、「民主連合政府」はそれ以前の段階の、民主勢力がさしあたって一致できる範囲の課題によってつくる政府として位置付けられているのを、民主連合政府こそ民主主義革命を実行する政府として位置付け直そうというのである。
この理由について不破は当初、民主連合政府というのは、安保条約反対という一致点のみを目標とする政府のスローガンであったが、その後、革新三目標という「政治のほとんど全領域での改革を目標とする政府のスローガン」となったという経緯を紹介しつつ、次のように説明している。
「民主連合政府が、こうして政策的な任務を拡大してくる、安保の問題だけでなく、経済の改革も問題にする、教育の改革もやる、等々となってくる。こうなりますと、いったい、この政府と『革命の政府』あるいは『民族民主統一戦線の政府』との違いはどこにあるのか、といった疑問が、当然起こってきます。
今回の綱領改定案では、この点に抜本的な検討をくわえ、はじめにのべたように、民主連合政府を、民主主義革命の段階で日本社会が必要とする民主的な改革を実行する政府と位置づけ、その立場から、政府や統一戦線をめぐる綱領上の規定を大きく整理するようにしたのです」。
しかし、これまで党内では、民主連合政府がいかに全面的な国政革新を行うにしても、それと「人民権力の確立」による民主主義革命とは同一視できないことが強調されてきた。一つの例として、第一二回党大会の決定を紹介しよう。この大会では、革新三目標にもとづく「民主連合政府についての日本共産党の提案」が採択された。上田耕一郎幹部会員(当時)は、中央委員会を代表しての、この「提案」についての報告において、次のように述べている。
「安保条約廃棄と平和・中立化は、サンフランシスコ体制そのものの打破と等しくありません。……米軍はよぎなく日本から撤退しても、アメリカ帝国主義に従属的に同盟している日本独占資本の政治的、経済的支配は、一定の民主的規制をうけながらも、まだ根本的には打破されておらず、対米従属の自衛隊の存在も含めて、さまざまな従属関係もまだ一掃されていないからです。……独立の課題の『根本的達成』を確実に実現できるのは、やはり『人民権力の確立』なのです。
……生活向上の要求、民主主義と自由の諸要求のすべては、人民権力の確立なしに実現できないものではなく、自民党政府のもとでも闘争によって部分的にかちとることができるものもあり、民主連合政府の段階で、一定の範囲で実現できます。しかし、これらの諸要求の根本的達成を、確実に保障しうる政府は、やはり人民権力にほかなりません」。
このように、民主連合政府と民主主義革命は厳密に区別されてきたのである。これを簡単に同一視することは、革命の水準の切り下げにつながる可能性を含んでいる。現に、改定案で書かれている民主主義革命の内容は、従来の革新三目標とほとんど同じ水準のものなのである。例えば、対米従属打破の問題について言えば、サンフランシスコ条約第六条a項(協定による外国軍の駐留は妨げないとの規定)の廃棄という課題が明記されていないし、経済の民主的改革の問題でも、「ルールある経済社会」をつくるなどの曖昧な表現に終始しているのである。
2 「行動綱領」削除の意味
第一二節においては、記述の形式に根本的な変更が行われている。現行綱領では、諸階層・諸階級の当面の要求、また社会生活の各分野での当面の要求や課題が「行動綱領」としてかなり詳細に書かれている。これに対して、改定案では、「『現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容は、次のとおりである』として、各階層・各分野の要求の一覧ではなく、革命によって実現すべき改革の内容をあげる」ということになっているのである。不破は、現行綱領がつくられたときには、「国民的な運動も、私たちの活動も、その発展状況からいって、民主主義革命における改革のプログラムをまとまった形で問題にするところまで熟していなかった」が、現在では、「日本改革の提案」というように、民主的改革のプログラムをまとまった形で提起できるようになった、というように説明をしている。しかし、行動綱領の削除の意味はそれほど単純なものではない。
行動綱領は、諸階級・諸階層の当面する要求と革命の路線とを媒介するものという位置付けを与えられていた。つまり、行動綱領というのはあくまでも下からの闘争諸課題なのである。
しかし、民主的改革のプログラムをまとまった形で提起するという改定案においては、こうした改革の内容が、上からの政策的課題として与えられているに過ぎない。これは、労働者階級と人民の闘いを党が代行するということである。改定案において、大衆運動について規定した文章は、第一三節の「日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め、国会外の運動と結びついてたたかうことは、国民の要求の実現にとっても、また変革の事業の前進にとっても、重要である」という一文ぐらいしか存在しないのである。
もちろん、国会を通じての変革をめざすことそのものが悪しき議会主義なのではない。労働者階級と人民が自らの要求にもとづいて自らの力で闘争を推し進めていくという前提なしに、議会の利用を云々することが悪しき議会主義なのである。行動綱領の削除は、この種の悪しき議会主義が現れている。
3 天皇制と自衛隊
天皇制について
天皇制について、改定案は次のように述べている。
「天皇条項については、『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。
党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。しかし、これは憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」。
改定案の文章を読むかぎり、綱領的原則として、天皇制を容認したとは言えないだろう。ただ、問題は、党指導部が、個々の具体的な局面で、「『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する」という姿勢をきちんと貫けているか否かにある。
残念ながら、これについては否定的に評価せざるを得ない。一九九三年の皇太子結婚の際の国会での「賀詞決議」には「憲法の主権在民の原則に反する」として反対しておきながら、二〇〇一年の雅子出産の際の「賀詞決議」には「天皇家は憲法上の存在だから」という理由で賛成するなど、党指導部の姿勢は明らかに動揺している。
「憲法の条項と精神からの逸脱を是正する」という基準は、一般的な世論とできるだけ衝突しないように、すなわち天皇制の容認という方向へ向かって非常に恣意的に運用されていると言わざるを得ないのである。しかし、天皇制廃止の世論が自然に高まり、いつのまにか廃止の条件が成熟するなどということが決してありえない以上、日本共産党が天皇制に対する批判を避けるような態度をとることは、その半永久的存続を認めることに等しいのである。
自衛隊について
改定案は、自衛隊について次のように述べている。
「自衛隊については、海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」。
これは、広範に存在している「安保条約と自衛隊なしに日本の安全は守れない」という意識を前提として、まずはこれと同じ土俵に乗ってしまった上で、そこから一歩一歩前進をはかっていこうという立場であり、結局のところ、「国民の圧倒的多数が『万が一の心配もない。もう自衛隊は必要ない』という合意が成熟する」(志位和夫)不確定の遠い未来にまで自衛隊の解消を先送りするものにほかならない。
しかし、「万が一の心配がなくなってから自衛隊を解散する」ということは、「万が一の心配があるかぎり自衛隊を保有する」ということの裏返しである。現に歴代政府は、自衛隊は「万が一」のために存在していると主張しているのであるから、これは自衛隊の半永久的存続に道をひらくものである。しかも、「万が一」のために自衛隊の保有を認めることは、当然、「万が一」の際の自衛隊の活用を認めることにつながる。ここから、「必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を、国民の安全のために活用する」ことは「政治の当然の責務」である、という自衛隊活用論が出てくるのである。
問題はどこにあるかといえば、「安保条約と自衛隊なしに日本の安全は守れない」という論理を認めてしまったことである。これをいったん認めてしまうと、そこからは、憲法違反の軍隊である自衛隊の活用を当然とするようなとんでもない結論しか出てこないのである。
憲法九条の完全実施をめざすのならば、最初から、「安保条約と自衛隊なしに日本の安全は守れない」という論理と同じ土俵にのるべきではない。日本国憲法は、「われらの生存と安全」を「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」保持しようと決意しているのである。われわれは、これを階級的観点から具体化し豊富化していくことに力を尽くすべきなのであり、そのような内容で「国民の合意」を得るように努力すべきなのである。自衛隊を解消するためには、どんなに困難であっても、それ以外に道はない。
具体的で現実的なプロセス?
不破は、七月十八日の党創立八十一周年記念講演会における記念講演で、改定案における天皇制と自衛隊の扱いの問題について次のように述べている。
「日本共産党は、今度の綱領改定案で、基本的な立場と目標を堅持しながら、これらの問題を国民とともに解決してゆく具体的で現実的なプロセスあるいは段取りを明確にしたわけです。いわば正義の旗をどのようにして現実のものとし、日本の現実に具体化するか、このことを明らかにした」
しかし、「国民の合意」をタテに、現実に対する果敢な批判を避けていれば、不破のいわゆる「具体的で現実的なプロセス」なるものは、それ自体が自己目的化してしまうほかなく、決して「基本的な立場と目標」の実現にはつながりえないのである。
(つづく)
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