もどる

チョン・テイル烈士精神継承労働者大会         かけはし2003.12.8号

怒りの炎が希望を切り開いた日

追悼を乗り越え「労働解放」の闘いへ


追悼と涙を乗り越える闘いの炎

 「チョン・テイル烈士精神継承2003年労働者大会」は、キム・ジュイク烈士、イ・ヨンソク烈士、クァク・ジェギュ烈士が命を投げ出したその瞬間から始まった。イ・ヘナム同志は火魔と闘い、10月22日、10月26日、11月6日と、すでに何度も寸鉄を帯びぬ体で闘ってきた労働者の闘争は、その怒りと絶望とが臨界を越えていた。
 早い時刻から単産の連盟別の前段決起大会を終えた10余万人の労働者たちがソウル市庁を目指した。民主労総は今回の労働者大会を準備するに際して「10万の結集」を宣言したけれども、それは宣言ではなく現場の怒りと実践によって「事実上」組織化されたのだ。
 支庁に雲集した労働者たちは涙を拭い、飢えた資本の継続される殺人の前に身をふるわせた。「黒いハチマキではなく、労働解放の赤いハチマキを結ぼう!」。民主労総釜山本部指導委員キム・ジンスク同志の追悼の辞は「いまや追悼を乗り越えよう」、「労働解放を掘り起こす闘いに乗り出そう」というものであり、現場の怒りを希望へと転換しようというメッセージだった。
 ワールド・カップの時は、みんなパルゲンイ(赤)になろうと言って太極旗がバラバラになった服に化け、(2人の女子中学生の死を悼む)ロウソクの涙と連帯が大きなかたまりとなったその支庁は、労働者大会が開かれていたその日ばかりは怒りの絶叫で満ち満ちていた。そして、その絶叫は支庁前での1987年の闘争をさん奪していったノ・ムヒョン政権に向けられていった。

怒りに満ちた火炎が街路を包む

 夕刻6時ごろから光化門キャンドル行動のための行進が始まった。だが行進の隊伍を待ち構えていたのは「鳥小屋(警察車両のこと)」のバリケードと1001機動隊の棍棒と楯だった。同じ頃、金属連盟と公共連盟の組合員らを筆頭にして行進の陣営が編成されていた。乙支路方向に並んだ旗の行列は光化門を阻んでいた奴らのバリケードを必ずや突き破ろうと狙っていた。
 ロッテ百貨店の交差点を過ぎ鍾閣の交差点まで四大門の中のもっとも賑やかな都心は、すでに解放区だった。全国各地から上京した労働者の隊伍は例年とは違っていた。大会の終わるのが恐ろしくて観光バスに乗り込み、工場へ、故郷へと向かっていた労働者たちを、今夜は見つけることができなかった。
 「散らばれば死ぬ、揺らいでも死ぬ!」。ストライキの歌は何度も何度も響きわたり、闘争を催促していた。角材や鉄パイプが登場した。これはキム・ジュイク烈士、イ・ヨンソク烈士、クワク・ジェギュ烈士、そしてイ・ヘナム同志の怨恨に満ちた怒りだった。同時に素手でぶつかって闘い、血を流したこれまでの並みの闘いでは、もはや生き残れないという要求を雄弁に語っているのだった。
 2001年大宇自動車の整理解雇反対闘争以後、その姿を消していた火炎ビンが再登場した。四大門内で火炎ビンがはじけるとともに、国家の信認度、外国人の投資などをしゃべりながら病んだ声をばらまく政府や資本、保守言論の態度を心配する声、非暴力によって闘うべきだとしてひとりごとを並べているのは、「すでに現れた階級戦線のどちらの側に立つのか」への回答だった。
 ガソリン、ビン、芯は、あらかじめノ・ムヒョン政権や資本が提供したのではなかったか。その芯に火をつけたたった1つの決断は、まさに「生きて闘わなければならない」という残された者たちの叫びであり、絶叫だった。怒りに満ちた火炎は、そのようにして鍾路の街を覆い包んだ。烈士たちが切り開いた闘争の局面を、いまや残された者たちの領分として確固として握りしめた瞬間だった。

怒りの炎は希望をこじ開けた!

 事実、韓国現代史において民主化闘争のもう1つの名称も同然だった「火炎ビン」は学生運動の専売特許と言うか、役割だった。だが「チョン・テイル烈士精神継承2003年労働者大会」において先頭に立った一群の担い手は現場労働者たちだった。
 新自由主義6年の構造調整と「改革」を粧った各種の諸政策は現場を殺し、じゅうりんした。生存さえ脅かされた労働者たちの闘争は一進一退を繰り返したが、全体的側面から見ると一段階、後退した。まさにこの点が労働者たちをして闘争の先鋒に立たしめた最大の要因だ。そして「労働者の友達」を自認したノ・ムヒョン政権の登場は、わずか9カ月も経たないうちにその偽善と暴力のベールがはがされていった。いまや白骨団の後えいを自慢している第1機動隊が鍾路の街の労働者たちを殺し、じゅうりんしたのだ。
 数えきれないほどの負傷者たち、倒れたまま刃先のついた楯で繰り返し乱刺される労働者・市民が続出した。「粗雑で野暮ったい」労働者らの闘争が「機動的で洗練された」第1機動隊の暴力の前に一気に鎮圧された。烈士精神を継承した真の闘いの日として刻み込まれたこの日、資本と政権は労働者鎮圧大会をやってのけた。
 100人を超える労働者たちが連行され、56人に拘束令状を請求、42人拘束、タン・ビョンホ委員長ら6人に対する召喚状発布、20余人に対する逮捕令状発布や逮捕がいまも続いている。単一事件としてはキム・ヨンサム時代に政権再創出のために韓総連を犠牲にした96年以後、最大だ。
 11月9日も終わろうとする深夜、現場に戻っていくバスに乗り込んだ労働者たちの心臓はいまなお波打っていた。怒りの炎によって希望をこじ開けた労働者大会、半信半疑だったゼネスト闘争、「いまこそ可能だ」という自信感を手にしたからだった。(「労働者の力」第43号、03年11月20日付、キム・ヨンソン政策宣伝局長)



遺骸となって韓国に残る!
ノ・ムヒョン政権の追放政策のなかで命を断つ移住労働者


移住労働者も「烈士」となる時代に

 移住労働者までも「烈士」となる世の中だ。「不法滞留者解消作戦」を前にして2人の移住労働者が自ら命を断った。冬の入りを告げる雨がそぼそぼと降っていた11月12日、バングラデシュ労働者ネパル・ピック氏(34)は自ら通っていた京畿道・金浦のある工場で首を括った。遺書1通も残さない寂しい死だった。
 「私が朝起きて工場の入り口を開けます。いつもは冷蔵庫の上にカギを置いておくのに、きょうはカギがないんです。どろぼうでも入ったかと思って急いで工場に行って入り口を開けてみるとピックがぶら下がっていたんです」。遺骸を最初に見つけた工場の同僚アシュ氏(30)の瞳が揺れた。

政府の追放政策が生んだ犠牲者

 知らせを聞いて病院に駆けつけてきたバングラデシュ労働者の中にはピックの弟(28)もいた。3カ月前に韓国にやってきてという弟は病院の片隅に立ちつくしたまま、ひとこともなく、ただ涙を流していた。
 96年に韓国に来たピックは弟の入国のために今年1000万ウォン(約100万円)を友人たちから借りた。そのカネは送り出し業者に支払うものだ。入国した弟と一緒に借金を返していくが、まだ400万ウォン余りの借金が残っていると話していた。そうした中で前日、社長が「11月16日以後は責任が持てない」と「宣言」、悩みに悩んだ挙げ句、自ら首を括ったのだろうと友人らは説明した。ピックの残した通帳の残高は4万ウォン、これがすべてだった。
 これに先立つ11日の夕方にはスリランカ人チラン・タラカ氏(31)が地下鉄の線路に跳び降りて電車にひかれて死ぬという事件があった。96年に入国し、京畿・広州市でテントを作る裁縫の仕事をしてきたタラカは月給100万ウォンの中から毎月80万ウォンずつを重い糖尿病を患っている故国のオモニ(母)に送っていたという。タラカの同僚らは「『オモニの治療費を払わなければならないが、どうしたらいいか』という言葉を口癖のようにしていて、不安感で眠れないこともしばしばだった」と語り胸を痛めた。
 来年8月から実施される雇用許可制は滞留期間が5年を超えない範囲内で就業を保障し、滞留期間が4年を超えた滞留者には強制追放を命じている。まず不法滞留者を大々的に「整備」した後、雇用許可制を実施するという意志だ。
 03年3月31日を基準として国内滞留期間が4年以上の移住労働者が強制出国の対象だ。「このままでは戻ることはできない」として身を潜めたり、大規模籠城に乗り出している。韓国生活6年目のチトゥ氏(仮名、27)は1人の友達と一緒に京畿道・城南で1カ月ほど身を隠してすごす計画だ。
 保証金は一緒に負担し、工場の社長が一部を補った。「両親が年老いて働けません。弟妹らは4人いるが、みんな学校に通っています。私がカネを稼がなければ、みな飢えなければなりません」。チトゥ氏は「入国するとき使ったカネ(送り出し費)を今年初めに何とか返し、やっと少しカネを貯められるようになった」「あと1年か2年、働いて小さな店でも持てるようになれば故郷に帰る」と語った。
 政府が「大々的な取り締まりを行う」と公言した状況で、最初から公開籠城を繰り広げている人々もいる。初冬の厳しい風が吹きよせた11月16日には4年以上の移住労働者150余人がソウル・明洞聖堂入り口やソウル・貞洞の聖公会大聖堂で「全面合法化保障」を要求し籠城に突入した。
 京畿道安山市元谷洞の安山外国人労働者センターでも移住労働者50余人が公開籠城中だ。安山外国人労働者センターで籠城中のロシャン(29、仮名)は「われわれはIMFの事態のとき月給ももらわず働いたし、ワールド・カップのときも韓国を応援したのに、なぜしきりにわれわれを追い出そうとするのか分からない」「出で行けとばかり言わずに、われわれにも機会をくれれば良いのに」と語った。

強制追放を撤回し合法化せよ!

 断固としていた政府の立場も少しずつ揺らいでいる。当初、法務部(省)は11月17日から労働部と中小企業庁、警察、海洋警察庁など5つの部署が参加して合同取り締まりを行うとしていた。50の合同取り締まり班を編成して11月28日まで10日間、24時間の一斉取り締まりを行うなど、来年6月まで毎月10日間、合同取り締まり班を運営する一方、残る期間には法務部・出入国管理事務所を中心として取り締まるというのだ。
 だが取り締まりを2日後に控えて労働部と中小企業庁は取り締まりの主体から脱落した。また人力難を訴えている企業主たちの怨声が高まるとともに「製造業に従事している不法滞留者の取り締まりは猶予する」「工場には立ち入らない」との方針も一緒に発表した。工場で働いている時には取り締まらず、街頭を歩き回れば取り締まる、というこっけいな状況が演出されたのだ。
 政府が取り締まらなければならないとしている移住労働者は4年以上の滞留者8万6千人と、合法化の対象ながらも合法化の申請をしていない3万8千余人など、全部で12万人に達する点や、世論の悪化を考慮したものと見られる。そのうえ、これらの人々をすべて「捕えた」としても出国時まで収容する空間が準備できなかったという点も負担だ。
 移住労働者の諸団体は「未登録移住労働者問題を取り締まりによってのみ解決しようとすれば解決法とはならない」と言い切った。帰国しようとする人々は順次、出国させ、韓国で働く意志のある人々は合法的なワクを作り包容すべきだ、との説明だ。
 イ・ランジュ富川外国人労働者の家事務局長は「まさに雇用許可制を手にするために長い間、努力してきていた4年以上の滞留移住労働者たちがすべて強制出国の対象になるとともに、彼らの被害意識も高まっている状況」であり「強制追放を撤回し、合法化の基礎を用意する政策的決断が準備されない以上、移住労働者たちの激しい反発に直面するだろう」と警告した。
 移住労働者たちにとって暴行や賃金の未払い、労災よりも恐ろしいのは「強制出国」だ。韓国の下部経済を支えてきて、家族らの希望と暮らしとを全身で抱えこんで生きていく人々に、今は韓国政府が答えを与えなければならない。(「ハンギョレ21」第485号、03年11月27日付、チェ・ヘジョン記者)


もどる

Back