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寄稿 世界社会フォーラム・カラチに参加して @      かけはし2006.4.17号

地域の力学を結合し、より大きな反グローバル化運動を

寺本 勉(ATTAC関西会員)

 三月二十四日から二十九日までの日程で、世界社会フォーラム・カラチが開催された。この世界社会フォーラムに参加したATTAC関西グループの寺本勉さんに報告を依頼した。(本紙編集部)

 私は、三月二十四日から二十九日までパキスタンのカラチで開催された世界社会フォーラム(WSFカラチ)に参加する機会を得た。私にとって、三回目の世界社会フォーラムへの参加であり、かつ南アジアで開催される社会フォーラムへの参加も二〇〇三年一月のアジア社会フォーラム(インド・ハイデラバード)を含めて三回目となる。「かけはし」編集部の求めに応じて、そのつど参加レポートを投稿してきたが、今回も全日程に参加できなかったため、WSFカラチの雰囲気だけでも伝えることができればと思い、参加しての率直な感想を書いてみたいと思う。

今回は多中心的フォーラム

 今年の世界社会フォーラムは、すでにご承知のように、多中心的(ポリセントリック)なフォーラムとして、カラカス(ベネズエラ・ボリバル共和国)、バマコ(マリ)、カラチ(パキスタン)で「地域分散的に」開催された。このいきさつについては、「かけはし」1月16日号に掲載されているエリック・トゥーサン(ベルギーの歴史学者、CADTM=第三世界債務帳消し委員会代表、WSF国際評議会メンバー)のインタビューに詳しい。
 トゥーサンによれば、「WSFの開催は頻繁すぎ、WSFの開催は隔年にするのが望ましいと考えました。最終的には、二〇〇五、二〇〇六および二〇〇七年は毎年の開催を維持するが、二〇〇六年には複数の開催地に分散化することで合意しました」「主要な目的は、地域的な力学を発展させながら、細分化を回避することです」とのことである。また、トゥーサンは「これらの三つの大きな集まりの中心テーマを分析してみると、明確な収束点が存在します。この意味で、政治的な細分化のリスクについて私は心配していません。たとえば、二〇〇五年のポルトアレグレ・フォーラム以来の重要な基軸である『政治権力と社会的解放のための闘争』は、三つのフォーラムすべてに存在しています。さらに、最大の、最も重要な挑戦課題は、共同行動の優先順位を決めることです」として、挑戦課題を設定していた。

一度は大地震で延期


 カラチでの開催は、当初一月の予定だったが、昨年十月八日にパキスタン北東部を襲った大地震の影響で、三月に延期された。恐らくパキスタンのWSF組織委員会の苦労は大変なものだったと推測できる。パキスタンの社会運動団体や政党は、この大地震救援のためのとりくみで忙殺されていただろうからだ。事実、今回のフォーラムでも、地震被害や救援活動についてのセミナーも多く開催されていた。にもかかわらず、延期はしたものの「パキスタンで世界社会フォーラムを開催する」という強い決意の下で、今回のフォーラムを成功に導いたパキスタンの活動家たちに深い敬意を表したい。
 しかし、日本にいる私たちにとって、開催直前までフォーラムの全体像が見えてこず、一抹の不安を抱えたままでのカラチ行きになっていたこともまた事実であった。私はWSFカラチへの参加を決めてから、毎日のように公式サイトを見ていたのだが、そもそも会場がどこになるかも不明という状態が続いていて、三月二十四日のオープニング・セレモニーや二十五〜二十八日のカンファレンスやセミナー・ワークショップの開催場所の告知が出たのが開催の直前だった。
 また、プログラムの一覧がサイトで公開されたのは私がカラチに向けて出発する前日で、先発していた日本からの参加者はそれも持たないまま、カラチに着いたことになる。それでも、二十五日には全体のプログラムが印刷されていて、入手できたとのことで、ムンバイでのフォーラムの際には、始まって数日しても入手できない人もいたから、これは本当に組織委員会の奮闘の結果だということができよう。

カラチの第一印象

 パキスタンまではタイ航空を利用したのだが、バンコクを経由して、自宅を出てからカラチのホテルまで約二十一時間の旅程だった。思い出してみると、ムンバイに行った時は、バンコクでは給油のために機内で何時間も待たされた思い出があり、一応空港内で休めたのはまだましという感じだった。
 バンコクでは約四時間の待ち時間があり、その間に有料のインターネットサービスでWSF公式サイトやWSF日本連絡会の速報ブログを見ることができた。しかし、公式サイトは依然として更新されておらず、すでに開催されているはずのオープニング・セレモニーの様子を知ることはできなかった。WSF日本連絡会の速報ブログでは、後述する有益な情報を仕入れることができた。
 ちょっと驚いたのは、バンコクからカラチまでの飛行機には、女性の乗客がほとんど乗っていなかったことだ。タイ航空では、降りる時にランのコサージュを配っているのだが、乗務員は乗っていた数人の女性に手渡しただけだったようだ。
 カラチ国際空港には夜十一時頃に到着した。空港には、WSFの案内デスクなどもなく、カラチで世界社会フォーラムが開催中であることを示すものは見当たらなかった。飛行機の乗客の中にも、それらしい人は乗っておらず、このあたりはムンバイやハイデラバードの時とは違っていた。
 さて、ホテルには空港でのピックアップを事前に依頼していて「OK」の返事をもらっていたのだが、案の定来ていない。「案の定」と言ったのは、WSF日本連絡会の速報ブログで「ピックアップが来ていなかった」と書かれていたのを目にしていたので、「やっぱり」と慌てなくてすんだのである。後で、ホテルで聞くと「電話してくれれば行ったのに」とのことだったが、後の祭りである。そもそも空港到着時には公衆電話から電話する準備などできていないのだし、空港から市街地まで三十分はかかる。結局、エアポート・タクシーでホテルまで向かった。
 空港から市内までは二十キロくらいあっただろうか、深夜だったせいもあるが道路も空いていて、快適なドライブだった。ただ、タクシーが古いのか、走り出す時にキーキーと音を発するのとドライバーが赤信号でも平気で無視して走るのにはまいってしまった。道路を行く車は、ハイデラバードやムンバイに比べても、古い車が多いようだった。乗り合いミニバスは、フィリピンのジプニーのように(ある意味ジプニー以上に)派手に飾り立てている。オート三輪のリキシャーも走っていた。
 ホテルは、サダル地区にあって、現地資本の「中級ホテル」が軒を並べる地域だった。ホテルの1階(パキスタンではイギリス流の「グラウンド・フロア」)はどこも食堂などの店舗が入っている。夜遅くにもかかわらず、結構人通りは多い。このサダル地区は、下町の繁華街とも言うべきところで、ホテル近くには有名なバザールやマーケットがあるとのこと。こうした街の情報は、唯一パキスタンの案内本を出している「地球の歩き方」から得たのだが、この「地球の歩き方」からしてパキスタン版は五年ほど絶版のままで、私は古い版を図書館の検索サービスから探し出して、何とか入手して持って行くことができた。

オープニング・セレモニー

 私は日程の関係で、二十四日に行われたオープニング・セレモニーには参加できなかったのだが、先着していたATTAC京都やWSF日本連絡会事務局の仲間から聞いたり、会場で配っている速報新聞(TERRA VIVA、世界社会フォーラムでおなじみで貴重な情報源)を見たりすると、だいたい以下のような感じだったらしい。
 当初、公式サイトでアナウンスされていた発言者は、タリク・アリ(パキスタン出身の作家で、イギリスで活躍している。かつて第四インターイギリス支部の指導的メンバーだった)、デズモン・ツツ大主教(南アフリカの黒人牧師で、ノーベル平和賞受賞者)、ウォールデン・ベロー(フォーカス・オン・ザ・グローバルサウス代表)、ジェレミー・コービン(イギリス労働党の反戦派議員)、アイジャズ・アーメッド(インドの批評家)らが名前を連ねていた。
 しかし、実際に発言したのは、大きくメンバーが変わっていて、モエマ・ミランダ(WSFブラジル組織委員会)、グスタフ・マシア(ATTAC)、イリーナ・リーナ(エクアドル)、タリク・アリ、ホセ・ミゲル・ヘルナンデス(キューバ)、ベイシル・マニング(南アフリカ)、ニルマラ・デシュ・パンディー(インド)、ジャマール・ジュマ(パレスチナ)、アスマ・ジェハンギル(パキスタン)といった人々だった。ツツ大主教からはメッセージが送られてきて、代読された。発言の合間には、パキスタンの民俗芸能がにぎやかに披露されていたとのことで、参加できなかったのは本当に残念だった。
 オープニング・セレモニーの会場となったスタジアムは、円形の観覧席を備えた小振りなもので、普段はテニスの試合などが行われるのだという五千人収容のものだった。当初はもっと大きな会場を予定していたが、急きょ変更になったらしい。アリーナにあたる部分にも椅子を並べ、恐らく七、八千人くらいは入れるようにしてあった。これがぎっしりと満員になったという。

WSFカラチのテーマと会場


 今回のWSFカラチの登録参加者は、三万人とも、三万五千人とも言われている。そのほとんどは地元パキスタンからで、その中では漁民たちの大量参加が目立った。それ以外で多いのは、恐らくインド、バングラディシュ、ネパール、スリランカあたりだが、インドからの参加予定者はかなりの部分がビザの発給が認められずに参加できなかった。他に、イラク、イラン、パレスチナ、アフガニスタン、遠くではラテン・アメリカやアフリカ、ヨーロッパからの参加もあり、一番参加者の層が薄かったのが東アジアだろう。
 今回のWSFカラチでは、「帝国主義・軍事化・地域紛争と平和運動」、「自然資源への権利・公的管理と民営化 ・国家間対立」、「貿易の進展とグローバル化」、「社会的公正・人権・ガバナンス」、「国家と宗教・多元主義と原理主義 」、「国民国家・国民性と民族的=文化的アイデンティティ」 、「開発戦略と貧困・失業・移住」、「民衆運動とオルタナティブ戦略」、「女性・家父長制と社会変化」、「環境・エコロジーと生活環境・生活必需品」の十テーマが掲げられた。会場は、カラチの中心部から北東よりにあるKMC複合スポーツセンター。細長い会場(幅100メートル、長さ700メートルくらいか)の中で、オープニング・セレモニーの舞台となったスタジアムや新たに設置された大小四十余りのテントでさまざまなセミナーやワークショップが行われた。(つづく)


投書
「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」を見て    SM

正義のために闘
う大切さを描く

 2月に、シャンテ シネ1(日比谷)で「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」(マルク・ローテムント監督作品)を見た。ストーリーを紹介したい。
 ヒトラー独裁政権末期のドイツに、ヒトラーの政策を批判し、戦争終結を叫ぶ地下組織が存在した。彼らは「白バラ」と呼ばれ、定期的にビラを配り、壁に「打倒ヒトラー」のスローガンを書く非暴力的なレジスタンス活動を繰り返していた。1943年2月18日、「白バラ」メンバーのハンス・ショル(ファビアン・ヒンリヒス)と妹のゾフィー・ショル(ユリア・イェンチ)は、ミュンヘン大学構内にビラを配布する。そして、逃げようとするところを用務員の通告によりゲシュタポに逮捕される。
 取り調べが開始され、ロベルト・モーア(アレクサンダー・ヘルト)がゾフィーの担当になる。翌日には、仲間のクリストフ・プロープスト(フロリアン・シュテッター)が逮捕される。2月22日、ローラント・フライスラー(アンドレ・ヘンニック)を裁判長とする人民法廷で3人は死刑を宣告され、即日処刑される。この映画は、この映画のプログラムによると、「90年代になって東ドイツで発見されたゲシュタポの尋問記録」によって明らかになったゾフィー・ショルの最期の日々を描いている。
 この映画を見終って、ぼくは心の中で拍手していた。この映画は、正義のために闘うことの大切さを描いている。人間は時には死をも恐れず闘わなければならないことを描いている。人民法廷で仲間(クリストフ)を庇(かば)うハンスの態度に感動した。人民法廷でのハンスとゾフィーの態度は立派だ、と思った。ギロチンで殺される時に「自由万歳」と叫んだハンスは凄い、と思った。ハンスとゾフィーが人民法廷で発言するシーンを見ていて、「スタンドアップ」(ニキ・カーロ監督作品)でジョージー(シャーリーズ・セロン)が組合の集会などで発言するシーンと少し似ている、と思った。
 ゾフィーがナチスによる「精神障害者」虐殺を批判しているところも良かった。人民法廷で裁判を傍聴しているナチスの軍人たちがハンスの発言を聞いて動揺しているところも面白かった。
 ぼくは宗教を信じないが、キリスト教徒がこの映画を見たら「ゾフィー・ショルはキリストのようだ」と思うのではないか、と思った。「戦争反対」のビラ配りや落書きをした人びとに有罪判決を出す小泉自公政権(日本の裁判所)には、「戦争反対」のビラ配りや落書きをした人びとに死刑判決を出したヒトラー政権(ナチスの裁判所)と共通する部分があるのではないか。そんなことも、ぼくは考えた。
 この映画はとても良かったが、連合国(アメリカ帝国など)には無批判的であるような気がした。また、ぼくの誤解でなければ、この映画には「精神障害者」を差別する表現があった。拷問のシーンがなかったが、ナチスは「白バラ」の人びとに対して拷問をしなかったのか、疑問を抱いた。「白バラ」は資本主義対社会主義の問題についてはどう考えていたのか、についても疑問を抱いた。この映画は「白バラ」の全体像は描いていない、と思った。

ナチス犯罪の
多用さと深さ

 ナチス・ドイツの犯罪というとユダヤ人虐殺が有名だが、ナチス・ドイツの犯罪はユダヤ人虐殺だけではない。「T四計画と呼ばれた障害者『安楽死』計画で、総計二十万以上の障害者が抹殺された」。「二十万人以上のドイツ市民が自分たちの医者の手によって計画的に効率良く殺されたのである。……殺されたのは、施設に収容されていた精神障害者、重度の障害者、結核患者、知的障害者である。医者の目で『生きるに値しない』と判断された生命だった」(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』、現代書館)。
 「ナチスの人種主義がもっとも苛烈に表れたのはいうまでもなく反ユダヤ主義においてであり、六百万人もの生命を奪ったユダヤ人にたいする迫害がナチスによる犯罪の中核をなしていることは周知の事実である。千年王国を外側から脅かす『価値の低い』人種もしくは『人間に値しない』者としてユダヤ人の絶滅まで試みたナチスの迫害の矛先は、しかしそれと同時に『民族共同体』を内側から脅かす者、すなわち『アーリア人』ではあるがナチスにより「価値が低い」と判断された人間にも向けられたのだ」。
 「それは社会秩序を乱す常習犯罪者や売春婦であり、ナチスと相容れない思想を有する共産主義者や平和主義者であり、既成道徳に反する身持ちの悪い女性やホモセクシュアルの男性であり、社会福祉に依存して生活し、国家の財政を圧迫する貧困層の人たちであり、労働力として役に立たない身体的あるいは精神的障害を持つ者であり、労働を忌避する者たちであった」(『ナチズムと強制売春―強制収容所特別棟の女性たち―』明石書店)。
 「ナチス支配下ヨーロッパで虐殺されたと資料上も確認できるロマの犠牲者は二一万九七〇〇人だが、実際は五〇万人を下らないと推定される。ドイツとオーストリアに居住のロマ中、約三分の二はナチス時代に虐殺された」(『「ジプシー収容所」の記憶―ロマ民族とホロコースト―』)、岩波書店)。「ナチス・ドイツの侵略でポーランドでは六〇〇万人、旧ソ連では二〇〇〇万人以上の市民が犠牲になった」。「ニュルンベルク裁判(一九四五〜四六年)でもドイツ人によるポーランド、ユダヤ、ロシアの女性たちへの強姦、殺りく、さらに『強制売春』への使役等の事実が暴露された……」(『1945年・ベルリン解放の真実―戦争・強姦・子ども』、パンドラ発行、現代書館発売)。

ナチズムだけで
終わらない問題

 ナチズムの問題は、これらの問題、「一九四五年四月の最後の一週間、つまりドイツの敗戦前後、ベルリンだげでも八万人……をくだらないと言われているドイツの女性、少女たち、ロシア(ソ連)、アメリカ、フランスなど連合国軍の兵士によって集団レイプ(大量強姦)された」(同)、スターリンの社会ファシズム論と、それを支持した世界の進歩的な勢力の問題、ドイツの資本主義がナチズムを支持した問題、などとセットで記憶されなければならないのではないか。ぼくは、そう考える。
 「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」は、2005年の第55回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(最優秀監督賞、最優秀女優賞)、全キリスト教会コンペ部門最優秀賞を受賞している。ホームページ http://www.shirobaranoinori.com


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