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    かけはし2021年1月18日号

「レイプ」「強かん」の用法について


投 稿

本紙新年号 遠山論文によせて

 

ふじい えいご



以前から思っていたことなのですが、かけはし21年新年号に"「女性差別との闘いの義務」と「組織のフェミニズム化」の検証に向けて 遠山裕樹"が掲載されたことを受けて、提起したいことがあります。

80年代の第四インター日本支部組織における女性への性暴力事件・問題について、当時議論の紆余曲折の果てに「女性の望まぬ性行為はすべてレイプであり強かん」という認識にたどり着き、事件の名称を「三里塚労農合宿所強かん事件」とし、加害者の行為を「強かん犯罪」と規定しています。

この当時たどり着いた認識とそれに基づいた「レイプ」「強かん」規定自体は、今日的には妥当なものであることはあきらかだとは思います。しかし一方で、その表現がはたして80年代のままでいいのか?という疑問が今日においては生じるのではないでしょうか。

女性および性暴力サバイバーにとっては「レイプ」「強かん」の表現は言葉が強すぎる、あるいは軽々に飛び交うのは苦痛、なにより「あらゆる性暴力はレイプ」という認識が浸透していなかった80年代と違い、その認識が浸透した今日においては「レイプ」「強かん」は、当時とは逆に性暴力の軽重を表す表現になってしまうのではないか、ということです。

結論から言いますと、私は「女性の望まぬ性行為はすべてレイプ」からさらに一周させて「女性(および子ども・性的少数者など)の望まぬ性行為はすべて"性暴力"」と表現・表記すべきと考えるということです。

たとえば、「三里塚労農合宿所強かん事件」を「三里塚労農合宿所性暴力事件」と表記しても、今日私たちが事件の加害者としてのダメージ軽減を図っていると思う人はいないでしょう。むしろ、被害者のかたのフラッシュバックへの配慮として、後者のほうがより適切なのではないでしょうか。

あるいは、遠山新年論文の下の箇所、

「あらためて強かんの捉え方を確認しておきたい。女性が望まない性行為はすべて強かんであるという認識のうえで、@強かんとは、性欲に基づく性犯罪一般ではなく、社会的女性差別を背景とし、弱者への支配と従属の欲求から生み出される政治的犯罪の一つである A強かんは、支配する性としての男の自己確認であり、性を通して女性に人間的・精神的深い打撃を与える B強かんによる打撃の深さは、それを受けた主体にしかわからない。」

は、今日的には、

「女性(および子ども・性的少数者など)が望まない性行為はすべて性暴力であるという認識のうえで、@性暴力とは、性欲に基づく性犯罪一般ではなく、社会的性差別を背景とし、弱者への支配と従属の欲求から生み出される政治的犯罪の一つである A性暴力は、支配する性としての男の自己確認であり、性を通して女性(および子ども・性的少数者など)に人間的・精神的深い打撃を与える B性暴力による打撃の深さは、それを受けた主体にしかわからない。」

にすれば、より妥当な表現と認識に繋がるのではないでしょうか。

言葉の表層的イメージではいまだに「痴漢はレイプより軽い」などと考えられがちですが、やはり「痴漢」と「レイプ」「強かん」では性暴力についての被害の差があるように受け止められるのが実情に思えます。しかし、「痴漢」行為もその他の性暴力同様にその打撃は一生残ると、被害者は語ります。上のBにあてはめれば、やはり「強かんによる打撃の深さは、それを受けた主体にしかわからない」ではなく「性暴力による打撃の深さは、それを受けた主体にしかわからない」としたほうが、被害の強弱判定を第三者ましてや男がつけてはならない、という大原則に沿うように思えます。

もちろん、「レイプ」「強かん」は文脈で必要に応じて使えばいいと思いますが、"女性(および子ども・性的少数者など)に対する暴力の事象と概念を説明する用語"としては、私は基本的に「性暴力」に統一すべきだと考えます。

うまく説明できたか心許ないのですが、ご検討いただければ幸いです。

(ふじいえいご)




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