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    かけはし2020年12月21日号

一刻も早く埋立工事を中止することが唯一の道


沖縄報告 12月13日

沖縄防衛局が新たな台船2隻を不法に投入

沖縄 K・S

12.7

抗議船がK9護岸で監視行動


 荒天が続き、この日もカヌーは海に出ることが出来ない。抗議船一隻が汀間(てぃーま)漁港から大浦湾に出て、K9護岸で監視・抗議行動を行った。K9護岸では、数日前から「T97」との名称のスパッド台船が係留されていたが、この日初めて、ランプウェイ台船が二隻同時に接岸し二隻同時に土砂の積み下ろし作業を行った。
 一隻目のランプウェイ台船は第三梅丸。K9護岸の浜の道路上には、ダンプが列をなして待機している。抗議船からは約一時間にわたって、「一坪たりとも渡すまい」「沖縄を返せ」などの歌が流され、スピーカーからは「土砂搬入をやめよ」「違法な埋立て工事を中止せよ」などの訴えが響きわたった。双眼鏡を手にした警備員がこちらを注視している。
 抗議船が汀間漁港に戻り、乗船者をチェンジして再び現場に戻ると、スパッド台船には二隻目のランプウェイ台船がすでに接岸し、二隻同時に土砂の積み下ろし作業を行なっていた。辺野古の土砂投入開始から二年が経過した。K9護岸を一〇〇mで止めて土砂台船が接岸できるようにし、そして今回はスパッド台船を係留して二隻の台船から土砂積み下ろしができるようにした。沖縄防衛局の行為は法律違反だ。沖縄県は認めていない。

スパッド台船に続き、デッキバージ船も

 一二月一一日には、大型のデッキバージ船が大浦湾に曳航されて入った。またしても、FUKADAだ。数年前、深場のボーリング調査を行ったのもFUKADAのサルベージ船だった。
このデッキバージ船は、新聞報道によると長さ一四一m、幅三六m、土砂を九〇〇〇立方m〈土砂運搬船の8隻分〉まで積載できるという。琉球セメント安和桟橋構内の赤土土砂仮置き場は、採石場からのダンプが運行しない日でも、そのストックで運搬船に供給している。デッキバージ船は、いわば洋上の土砂仮置き場となり、本部半島からの土砂運搬船が入ってこなくても、土砂搬入が可能になるという仕組みだ。
平和市民連絡会の勉強会で北上田さんが語ったところによると、この船は元々外洋でケーソンなどを運搬するのに使用されている船で、辺野古埋立の加速のために「目的外使用」されたのだ。
デッキバージ船の計画は埋立承認願書に当初なかった。スパッド台船と共に、今年一一月になって沖縄防衛局が明らかにした計画であり、県の承認を得ていない違法な計画だ。沖縄防衛局は「県の承認は必要ない」として、一方的に計画を実施している。
政府防衛局の辺野古新基地建設ははじめから違法に違法を積み重ね、既成事実化してきた。現在土砂の搬入を行っているK9、K8の二つの護岸には、台船を接岸させて土砂を搬入するという計画はどこにも書かれていない。防衛局が前もって県に計画を提出し承認を得なければならないにもかかわらず、また、県が度々工事の中止を行政指導してきたにもかかわらず、である。安倍・菅内閣で顕著に示されている「法治国家崩壊」の事態は、辺野古で日常的に現れている。
日本政府は、破綻した埋立工事を一刻も早く中止し、辺野古・大浦湾から撤退せよ!

カヌーチームTさんの報告


12・10(木)辺野古

抗議船一 隻、カヌー八艇。
昼ごろには雨の予報だが、とりあえずカヌーはK8護岸に向かう。
K4護岸に沿って漕いで行く。この護岸は約一〇〇〇mある。護岸上ではミキサー車が走りまわりL字ブロックを作るのに忙しい。
九時:K8護岸前のオイルフェンスに到着する。護岸にはいつものようにダンプカーが列をなしランプウェイ台船から赤土を運び出す。このような光景を見るのは辛い。
一時間ほど抗議して雨が降ってきたので松田ぬ浜に戻ることになった。帰りは少し波が高くなったが、自走で浜に戻った。
今日は久しぶりカヌーを漕ぐ県外の人がいたので練習会を提案、希望者が三人手を挙げてくれた。このところ天候が悪くほとんどカヌーを漕いでいない、ということもあるが、普段から時間が余ったらワンポイントでも練習するのが上達の秘訣だと私は思う。

12・11(金)大浦湾

 抗議船一 隻、カヌー一二艇。
朝、久しぶりに太陽を見た。
八時三五分:私たちは瀬嵩(せだけ)の浜にカヌーを並べ出艇の準備をした。抗議船から無線で「デッキバージ船がタグボートに引かれ、大浦湾に入った」との連絡があった。
これまでは安和桟橋や塩川港と辺野古・大浦湾の間を土砂運搬船が往復してきた。大型船の設置で大量の土砂を大浦湾上に置くことができ、土砂運搬船が来れない日も作業を継続できる。
九時ごろからデッキバージ船を常時係留するためにアンカー六カ所に接続する作業があった。カヌーチームはその時間からフロートを越え、抗議を続けた。
大浦湾の荒波に揺られて約二時間五〇分後、最後の六カ所目にタグボートが近づいてロープをつなごうとしている。この瞬間をねらいカヌー全体が動く。一二艇が一点に向かい全力で漕ぐ。私たちが近づくのを見てタグボートはストップした。その後、海上保安庁のGB(ゴムボート)が私たちを追いかけ回し、全員を拘束。
海上保安官はホームページに正義≠第一に掲げている。違法工事を守り加担し自然を破壊するこの行為が正義であるならば、世の中に正義は存在しない。

12・12(土)辺野古

 抗議船三隻、カヌー一一艇(内教室3艇)。
八時一五分:カヌー八艇がK8護岸に向かって漕ぎ出した。途中沖合には赤土輸送船が五隻見える。K8護岸では、空のランプウェイ台船が護岸を離れて行く。私たちは急いでオイルフェンスを越え台船が入ってくるのを待つ。
九時:タグボートに曳かれたランプウェイ台船が近づいてくる。一斉に漕ぎ出す。しかし、今日もまた現場まで届かず全員が拘束される。
GBに乗せられ松田ぬ浜へ。風もかなり強くなり海も荒れてきた。全員で話しあった結果、海に出ることを断念し海上行動の終了とした。
K8護岸に行く途中赤白鉄塔の前を通過する時ウミガメを五匹見た。次から次へと現われるカメに多少興奮気味の人もいた。この付近にカメがうろうろしているということは、餌を探しているか産卵の場所を探しているかのどちらかではないだろうか。
いずれにしろ今回の工事で巨大な護岸を作りカメの餌場や産卵場所を「環境に対しての影響は少ない」と言いながら奪った沖縄防衛局、環境監視等委員会の見解を聞きたい。産卵場所について言えば、大浦湾の奥まった所に亀の産卵場所を莫大なお金をかけて整備した。その後そこで亀は産卵をした実績があるのかどうかを教えて欲しい。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(41)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今号は、東風平町(こちんだちょう)の知念さんと嘉数さんの対談を紹介する。引用は原文通り、省略は……で示した。
詳しくは、南京・沖縄をむすぶ会、沖本裕司編著『県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む〜沖縄出身兵100人の証言〜』をご覧いただきたい。


東風平町史『戦争体験記』(1999年発行)
知念栄昌・嘉数清勇
「支那大陸戦線に参加して」


知念栄昌: 私は清勇さんより生年月日によって、一年遅れの検査で検査場は糸満国民学校でした。検査の要領は清勇さんと同様だが早朝から夜中の十二時までだった。朝が早いので検査の合間、ガジュマルの下で仮眠をとったりして一日を過ごした。検査は厳しかった。男性の持ち物の検査にはフンドシを持ち上げ、根っこをしぼる様にひっぱった。もし、性病にかかっていたら、その場でいやという程叩かれ、多勢の前で恥をかくのである。当時は徴兵検査が終わらないと一人前ではないといって、異性との関係や喫煙等は禁じられていた。検査の結果、私は第一乙種合格だった。東風平村から百三十余人の適齢者が検査を受けた。……入隊は、甲種と第一乙種が現役入隊で、第二乙種と丙種は徴兵されなかった。出征する時召集されない人々を大変羨ましく思った。敗戦になって帰ってくると羨ましがられた人たちは沖縄戦でほとんど戦死していた。

嘉数清勇: 私は昭和十七年二月初旬、召集令状の赤紙が来た 予期したものが来たと、覚悟していたものの内心は大変であった。出発前に父に伴われて武運長久の祈願で遠くは普天間宮、小禄の鏡水にある祖先の霊、字内の拝所等を巡って神頼みをした 召集令状には、一月二十日に入隊せよとの事であった 出征が真近になって部落では壮行会が催されたり、部落の人々が思いやりの激励に来られたりで多忙な毎日だった。出征当日、部落総出で山川駅に集り、私達の見送りをして下さった。
当時の区長は比嘉小のおじさんだった 一緒に召集されたのが宜寿次では金城明力と山城政助の三人で、真っ白い布地に祈武運長久と墨書されたタスキを肩に掛け、千人針をした腹巻を腹に巻き付け、外見は勇ましい格好をした。そして、大勢の見送り人の前に私達は並んだ。部落の有志の皆さんから激励の言葉があり、それを受け、三人を代表して私がお礼の挨拶をした。すると間もなく大太鼓が鳴り響き、軍歌「勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからは……」と合唱し、見送り人は 一斉に幟や日の丸の旗をちぎれんばかりに振っていた。汽車の窓から、見える顔、顔、顔。生まれ育ったこの地。いろいろな思いを胸に秘め、駅を後にした。

栄昌、清勇: 以前までの初年兵教育は国内で行われていた。ところが、戦況が急に悪化し国内で教育して戦地に送っては間に合わなくなったのだろう。私たちの教育は現地で行われるようになった。教育期間中は毎日いろいろの注射をされた。衛生兵も大勢の人だから手心を加えては間に合わなかったのか、家畜に注射するみたいにプスプス次から次へやっていた。……
昭和十七年までは沖縄は平和だった。家では父母にあまえた日々を送っていた。規律ずくめの軍隊生活への転換は、大げさにいえば「天国と地獄」ほどの差があり、すぐには自分を切り替えることが出来ず、新兵たちは随分叩かれたのである。……

知念栄昌: 私たちの初年兵教育は運城という所だった。清勇は初年兵教育を終えて、肩章は星が二つになっていた。私は星ひとつの二等兵であった。初年兵は前述したように歩哨もしなければならないし、上官の衣服やフンドシまで洗濯しなければならない奴隷同然の兵隊だった。従って後に来る新兵を待ちに待った。心待ちにしていた後続の新兵は意外にも三十、四十代の年のおじさん達でも容赦なく初年兵の教育が施された。男治さんたちも教育の厳しさには音を上げていた。中には「家に帰れば孫もいるんだが」と言って、年下の古参兵にしごかれる苦しさを訴えるように弱音を吐く者もいた。

栄昌、清勇: 桂林攻略では多くの戦友が犠牲になった。これら戦友の御冥福を祈りながら私達の部隊は仏領印度支那へと向かった 移動は汽車で何回かに分けて出発した 汽車は元冲縄に敷設されていた軽便鉄道の大きさで、兵隊は貨車に荷物同然に積み込まれ身動きも出来ない程だった。ケハンを巻いた足は腫れそうに、有蓋貨車だから煤煙は入るし、貧乏国日本の軍隊のあわれさを感じた。

嘉数清勇: 日本の敗戦もラジオで知った。軍隊のラジオは性能が良かったので、沖縄の状況もよく分かっていた。首里城が落ちた。牛島司令官と長参謀の自刃もラジオから知った。




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