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    かけはし2020年11月30日号

命を守れ! 海と陸から訴える


沖縄報告 11月22日

コロナ感染拡大下に基地建設工事やめろ

沖縄 K・S

11.21

辺野古新基地反対!埋立ストップ!

カヌー30艇、抗議船6隻、ボート2隻が海上アピール行動

 

 コロナ感染拡大が続く中、一一月二一日土曜日、かなりの規模の海上アピール行動が行われた。参加したのはカヌー三〇艇、抗議船六隻、ボート二隻、合わせて約六〇人が、K8護岸前の海上で新基地反対!埋立ストップ!の声をあげた。
心配された天候や風波も、曇り空で波が一・五mという状態で、ベスト・コンディションではないが、海上行動には支障がない。早朝、浜のテント2に集まった参加者はミーティングの後、直ちに出航の準備に取りかかった。辺野古の浜(松田ぬ浜)を一斉に漕ぎ出したカヌーチームが久志岳と辺野古岳をバックにK8護岸へと向かう様は壮観だ。伴走する平和丸からは「沖縄今こそ立ち上がろう」「????(岩のように)」「?? ?? ???(あなたのための行進曲)」「??? ???? ???(真実は沈まない)」などの曲がスピーカーから流れ、カヌーチームを鼓舞する。途中、ウミガメに二度遭遇した。ウミガメたちも、すみかを奪う埋立に憤慨しているに違いない。

K8護岸前で盛大に海上アピール行動

 K8護岸では、土砂を載せた台船にダンプがひっきりなしに乗り込み土砂を辺野古側の埋立区域に運ぶ作業をしている。カヌーチームはオイルフェンスに取りつき、この日の海上行動のために全国から送られた横断幕、寄せ書きなどを手分けしてオイルフェンスに張り付けて行く。カヌー三〇艇と平和丸、ブルーの船、不屈号、ボートに加えて、汀間漁港から出航した勝丸、うまんちゅ、ゆがふが取材記者や乗船客を乗せて到着すると、K8護岸前の海上はたちまち大きな熱気に包まれた。K8護岸の作業員や警備員も注目して見ている。
ヘリ基地反対協の仲本さんの司会で、海上アピール集会が始まった。最初に全員声を合わせて「埋立止めよ」「美ら海まもれ」のシュプレヒコール。続いて闘う歌のリレーが行われた。「座り込めここへ(泰さん)」「今こそ立ち上がろう(川口真由美さん)」などのあと、「????(岩のように)」「We shall overcome(勝利をわれらに)」がそれぞれ、韓国語、英語で力強く歌われた。
さらに、海上行動チームの中原さんが平和丸でマイクを手にして発言した。「みなさん、あれが辺野古弾薬庫です。復帰前、核爆弾も配備されていました。そして、向こうの岩場が新基地の弾薬装填場が計画されているところです。那覇基地であった核ミサイル誤爆事故は忘れられてはなりません。地球上の核兵器の約半分を所有するアメリカのために、唯一の被爆国である日本の政府が新たな米軍基地を造るのは許されません」と述べた後、「沖縄に平和を。沖縄から平和を。世界に平和を」と、平和のレインボー旗を掲げたカヌーチームや抗議船と共に力強くアピールした。続いて、海上行動アピール文が読み上げられた。後日、沖縄防衛局に提出する予定だ。

カヌー20艇余が一斉にオイルフェンス越え

 最後にまた、全員でシュプレヒコール。「沖縄を返せ」の歌と共に、カヌーの大半はオイルフェンスを越えてK8護岸の土砂搬入現場に向かって突進した。海保のゴムボートの一〇隻余をおよそ倍するカヌーが一斉にK8護岸へ向かう。海保はボートから飛び込み拘束しようとするが、カヌーの数が多いため、簡単にいかない。カヌーは全速力で護岸へ近づいていくが、しばらくして、海保のボートに全員拘束された。しかし、拘束されても抗議は止めない。プラカードを高く掲げ、違法工事の中止を訴える。

アピール文(抜粋要旨)

 沖縄防衛局は埋立を加速させるために土砂の陸揚げ方法を変更。K9護岸には土砂運搬船の数隻分の蓄積可能の台船を二隻係留、K8でも常時台船を一隻配置するという。
コロナ感染が爆発的に広がっている中、多大な税金を浪費する不要不急の新基地建設を進める事は断じて許せない。海上警備の感染が発表されているものだけでも八人。キャンプ・シュワブの米軍関係者十数人も感染。県内の米軍の感染は四四七人に広がっている。
政府は、呪文のように唱える「県民に寄り添う」という二枚舌をやめ、辺野古新基地建設を直ちに中止し、国民の命を守るためのコロナ対策に全力をあげよ。

11.20

辺野古サンゴ訴訟
政府は県行政の自主性・自律性を承認せよ!

 一一月二〇日午後二時半から、辺野古のサンゴの移植に関して沖縄県が農林水産相を相手取って提訴した訴訟の第一回口頭弁論が福岡高裁那覇支部で開かれた。
沖縄防衛局は昨年四月と七月、沖縄県に対し、辺野古のサンゴ類約四万群体について移植のための採捕許可申請を行い、沖縄県が慎重に審査を重ねている途中の今年二月、農水相は、防衛局の申請通り迅速に許可をするよう求める是正の指示を沖縄県に対し行った。サンゴ採捕申請の許可・不許可は法律によって定められた沖縄県の権限である。政府が県の権限をないがしろにして、早く許可するよう求める事はあからさまな地方自治の侵害、中央政権の横暴だ。
沖縄県は三月三一日、総務省の第三者機関たる国地方係争処理委員会に審査の申し入れを行ったが、係争委は六月一九日、政府の言い分そのままに県の申し入れを退けて「是正の指示が違法でない」とした。第三者機関の役割を放棄し内閣の下請けになったものと言わざるを得ない。
そこで、沖縄県は裁判所に対し、農水相の違法な是正の指示の取り消しを求めて提訴したのが今回のいわゆる辺野古サンゴ訴訟である。

城岳公園に約150人、玉城知事を激励

 裁判に先立ち、裁判所前の城岳公園で、オール沖縄会議が主催する「民意は示された!辺野古新基地は造らせない!デニー知事頑張れ!」との事前集会が開かれ、約150人が集まった。進行はオール沖縄会議の福元事務局長。
はじめに高里鈴代さんがあいさつに立ち「民意は示されている。力を合わせて新基地建設を止めよう」と檄を飛ばした。加藤裕弁護士は「サンゴ移植の許可は県漁業規則による県知事の権限であり、国の是正の指示は違法な関与だ。争点は三つある。@農水相の是正の指示は県に代わって許可すべしと介入したもので、明らかな地方自治権の侵害、A大浦湾の埋立が不可能との調査・研究がある中で、そもそもサンゴ採捕の要件が成立しない、Bサンゴの生育をめぐる環境保全と移植の妥当性が何ら明らかでない、ことだ。裁判は県民の支援なくして闘えない。頑張ろう」と訴えた。
玉城デニー知事も駆けつけた。知事は「ハイサイ、グスーヨー、チュウウガナビラ(こんにちは、皆さん、ご機嫌いかがでしょうか)。本日の裁判は沖縄県の自主性、自立性をかけた闘いだ。マジュン、チバラナヤーサイ(みんなで頑張りましょう)」と訴えた。

知事が意見陳述、判決は2月3日

 法廷では、まず玉城知事が「農水相の是正の指示は知事権限を奪うもので違法だ」と意見陳述したのに対し、政府側は「サンゴ移植の申請は明らかに不適当な点がない限り許可されるべきで、標準処理期間を過ぎても申請を許可しない県の対応は違法、もしくは著しく適性を欠く」と述べた。裁判は即日結審となり、判決期日は来年二月三日に指定された。
法的効力を持つ農水相の是正の指示は沖縄県に対し「早期の判断」を要請するものではなく「早期の許可」を求めるものだった。政府の越権行為にもほどがある。この農水相の是正の指示を「違法ではない」とした係争委は政府の下請けにすぎず、係争委や農水相の立場を容認すれば、裁判所もまた政府の下請け機関にすぎないことを明らかにするものである。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(39)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。引用は原文通り、省略は……で示した。

東風平町史『戦争体験記』(1999年発行)

嘉数明正


「支那大陸戦線に参加して」

 字宜寿次からの適齢検査は、屋嘉部景吉・屋号新仲地の清幸・西仲地の清次・西九年母下の安義・新徳下田の清楽・徳前仲門の清成と私の七人だった。その中で生きて帰ってきたのは私と清成の二人で、他の五人は戦死して帰らぬ人となった。
私は昭和十五年十一月二十二日入隊だった。……
出征前、屋号新遊庭門の金城徳三郎さんが来て「軍隊で質問されて解らなくなったら、分かりませんと言ったら叱られるから、忘れましたと言うんだよ」と教えてくれた。そのことを知っていたので、大きな声で「忘れました」と言ったら、「よし、覚えておけ」といって叩かれるのを免れた。金城徳三郎先輩に教えられたおかげで大変助かった事は今でも忘れられない。……
軍隊では野砲隊に入隊した。野砲は馬に引かせて兵隊はそれに乗って移動していたので、歩兵に較べて楽だったが、後になって野砲は山に登る事ができないので、山砲に変わった。山砲と野砲の砲弾は似ていたが、山砲は分解して馬の背に乗せて、山や谷にも行ける便利さがあるとの理由で山砲に変わったようである。
ところが山砲になったら、ハイノウを背負って馬の手綱を取っての行軍だったので、とても苦しい思いをした。
軍隊は馬を兵隊よりも大切にしていた。馬にはおとなしいのもおれば暴れ馬もいた。人にかみついたり、蹴ったりする馬でも決して馬を叩く事は許されなかった。上官の言うには「馬は武器である。兵隊の君達が死んでも、紙切れ一枚で代わりが何時でも呼べるんだ」と言っていた。ほんとに人権無視も甚だしい日本の軍国主義であった。休憩時間になると、馬の足をさすってやったりで休む間もなかった。……
砲兵は馬と共に行動していた。私達の馬は北海道産で大きくて力もあった。ところが沖縄産の馬は小さく力もない。その上大砲の音で騒ぎ、周りの物を蹴ったり壊したりで本当に使い物にならなかった。人を噛んだり蹴ったりするのも沖縄産の馬だった。そのため後方での運搬用、輜重兵の馬として利用されていた。……
河南作戦が終わった頃、日本の敗戦が報じられた。日本軍は蒋介石軍に投降した。列をなして自分の前に武器と私物を並べて置いた。支那の兵隊は我々の武器と私物の点検を始めた。支那人の物でも持っていたら、その場で叩かれた。幸い私は何も持っていなかったのでその心配はなかった。着ている軍服のポケットまで調べるので家から送られた写真等も取り上げられた。
終戦で上海に移動し、沖縄人が集まったら船で直接沖縄に帰還させる予定のようだった。しかし予定している人が集まらず、二か月も上海にいた。上海では病院の手伝いをさせられた。仕事の内容は栄養失調で倒れていく者の墓掘りと死体の運搬であった。捕虜になったら、食べ物は一日二食に減らされ、その上毎日ダンゴ汁をお椀で八分位だった。入院患者は毎日ダンゴ汁の給食で栄養の補給にはならず、腹はふくらみ次第に身体は衰弱し死んでいくのであった。
戦い済んで帰還を目前に死んで行く戦友の死体運搬をしながら、いつの日か自分もそうなるのかと思うと悲しくなり淋しくもなった。幸い私は体力の恵まれ、上海での二か月の捕虜生活でやせ細りはしたが、元気で帰る事ができたのは不幸中の幸いであった。

【訂正】前号、浦添軍港の記事で閉会のあいさつをしたのは里道さんではなく久手堅さんでした。お詫びして訂正します。




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