沖縄報告 10月20日
いま侵略戦争の責任を問う
沖縄 K・S
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10.14〜20
玉城デニー知事訪米
米議会・政府関係者に辺野
古NO!の民意をアピール
玉城デニー知事が一〇月一四〜二〇日の日程で、辺野古新基地反対!の沖縄の民意を伝えるために、アメリカを訪問した。沖縄県民の意思をないがしろにして不法な埋め立て工事を強行して恥じない日本政府安倍政権に対する闘いと共に、基地を使用する当事者たる米国に対し直接沖縄の民意をアピールし新基地建設を断念させようとするものだ。一〇月一四日午前、那覇空港一階ロビーには、出発する知事を激励しようと、多くのテレビカメラと共に五〇〜六〇人の市民が集まり、「チバリヨー、デニー知事」と声を上げ、知事を見送った。
玉城知事はまず、カリフォルニア州スタンフォード大学で講演し、「はじめ普天間の危険性除去が目的だったものが、今では辺野古新基地が自己目的化している。県民投票で七二%の人が反対し、軟弱地盤も明らかになった。米国は当事者だ」と提起した。元駐日米大使の二人とは、サンフランシスコ市内で会談した。
ワシントンに移動してからは、民主・共和両党の米連邦上下院議員や政府関係者との会談を精力的にこなした。米議会は現在、上下両院協議会で国防権限法案を審議中だ。上院案には駐沖縄海兵隊の現行再編案の再調査を義務付けた条文がある。ここに県民の反対の意思を反映させようというものである。琉球新報の与那嶺嘱託記者によると、米議会事務局がまとめた日米関係に関する報告書には「多くの人が政治的、環境や生活の質など複合的な理由で新基地建設に反対し普天間の県外移設を要求している」「滑走路建設が物理的に難しいという更なる課題もある」と明記されている。
玉城知事は、国防権限法案を審議する協議会メンバーの四人の連邦議会議員と面談した。ルーベン・ガリエーゴ下院議員、セス・モールトン下院議員、マーシャ・ブラックバーン上院議員、ドン・ベーコン下院議員だ。知事は議員との面談の場で、日米のSACOに沖縄を加えたSACWOの構想を提起し賛同を求めた。
沖縄の民意を背に知事がアメリカで懸命に説得活動を続けている時、東京では、河野防衛相や茂木外相が「辺野古移設を着実に進める」と国会で所信表明演説をしていた。沖縄県民の意思を無視し敵対する日本政府安倍政権を国家権力の座から引きずり下ろし、沖縄の民意を尊重する政府をつくりあげなければならない。
辺野古埋め立てを止めるための沖縄現地の闘いは、一一月から一歩踏み出し、毎月第一土曜日の県民大行動に加えて、第三木曜日に辺野古ゲート前に総結集し工事車両の進入を阻止することを確認した。もちろん、毎日の琉球セメント安和桟橋と辺野古ゲート前の座り込みは継続する。辺野古へ! 安和へ!! ありったけの力を現地に集めよう!
10.15〜18
中国・南京のTさん、初めての沖縄訪問
戦跡と基地をめぐり、
南京事件の講演会も
一〇月一五〜一八日の日程で、中国・南京市の日本語通訳ガイド、Tさんが沖縄を訪れ、沖縄の戦争と基地の現場をめぐった。ひめゆりの塔と資料館、魂魄の塔、平和の礎、八重瀬岳の第1野戦病院壕跡、那覇市泊の外人墓地、県立博物館屋外展示場、嘉数高台、佐喜真美術館、嘉手納道の駅、チビチリガマ、恨之碑、金城実さんのアトリエ、辺野古浜テント、ゲート前、八重岳野戦病院跡、三中学徒の碑、愛楽園、首里城、豊見城海軍壕を四日間かけて見て回った。
辺野古ゲート前の座り込みと機動隊との攻防を真剣な表情で見つめたTさんは、帰国後、「テント村と座り込みの皆さんの不屈な闘争に心を打たれました。改めて敬意を表したいと思います」とのメッセージを寄せた。
また一六日夕には、宜野湾セミナーハウスで「一南京市民が見る“南京事件”」と題して講演会を開き、南京事件”について詳しく語った。会場となった宜野湾セミナーの二階会堂に集まった三〇人近くの市民を前にして、どうして“南京事件”が起こったのか、その背景、経過、犠牲の実態などについて話した。語り口は力強く、かつ明瞭にして具体的。大げさな言葉や態度は一切なく、豊富な研究と知識に裏付けられた説明だった。
Tさんの日本語はほとんど独学だという。小学五年生の時、文化大革命が勃発し学校が閉鎖。三年後学校が再開され、五年のまま小学校卒業とみなされ中学に進んだが、しばらくすると、農村への「下放」により南京を離れた。そこで八年間。南京に戻ってくることができた時、すでに二〇代の半ばだったTさんは日本語で身を立てることを決心し、兄から譲ってもらった日本語の教科書の勉強に取り組んでいったという。握手したとき分かった大きくて固い手は、中国現代史の荒波を生き抜いた独立心と向学心の象徴と思えた。
進行役は名桜大教員の稲垣絹代さん。稲垣さんはTさんとの出会いと縁について話した。それによると、南京国際交流公司の日本担当だったTさんが受け入れ窓口となって、南京はじめ中国全土の日本軍侵略の戦跡を回り中国の人々と交流を重ねるツアーの案内ガイドを務めたとのことだ。Tさんは三〇年にわたって日本語通訳ガイドとして活躍してきたという。
Tさんはまず「沖縄は歴史的、文化的に中国とのつながりの強い島だと思う」と切り出し、自己紹介したあと、「私は研究者でも学者でもないが、これまで通訳ガイドとして重ねてきた勉強と経験をお話ししたい」と述べて本題に入った。
南京の通訳ガイド・Tさんの話(要旨)
「日本軍の南京占領に伴う捕虜、非戦闘員、一般市民、女性に対する虐殺、放火、強姦、略奪など、日本ではいわゆる“南京事件”と言われている事柄は、中国では南京大屠殺と言っている。この場では“南京事件”とよんで話を進めていきたい。南京事件とは、一九三七年、昭和一二年一二月一三日から六週間にわたる日本軍による非戦闘員の虐殺をいう。
南京事件の前に何があったのか。日中戦争だ。一九三一年に始まった日本軍の攻撃は一九三七年に七月の北京、八月の上海と続き、一二月の南京に至った。南京は当時の中国国民政府の首都だ。日本政府は当初、南京に手を出す考えを持っていなかった。ところが、現地の軍部は大本営の命令を無視して独走し戦線を拡大した。大本営は追認した。中支那方面軍の司令官は松井石根中将。兵站、すなわち後方支援なしで南京へ進撃した。その結果、現地調達の略奪、強奪が繰り返され、いわゆる三光作戦、奪い尽くし、殺し尽くし、焼き尽くすという事態が繰り広げられた。上海から南京に至る間にすでにかなりの被害が発生した。これら被害のまとまったデータはない。日本軍との戦争のあと、国共内戦が続き、史料が残されていないからだ。
南京は明の時代に造られた歴史のある城塞都市だ。南京と日本との結びつきも古い。南京豆、南京錠、南京カボチャなど、南京と名の付く日本の言葉も多い。琉球とのつながりもある。攻撃した日本軍は主に、京都の一六師団、金沢の四師団、熊本の六師団。中国国民軍は日本軍の攻撃の前に南京から撤退し、残ったのは五〇万人の非戦闘員と敗残兵だ。そして、当時の金陵女子大(現在の南京大)のある地域に難民区が設けられ、保護を求めて二〇万人が入った。
日本軍の入城式は一二月一七日に予定された。この入城式に向けて城が陥落した一三日から集団的、個別的に「南京大掃除」が始まった。戦後、東京裁判と並行して南京裁判が進行した。犠牲者三〇万人が定説となっている。日本軍が何をしたか。東史郎という人がいる。彼が一兵士としてつけていた日記をもとにまとめたのが『わが南京プラトーン〜一召集兵の体験した南京大虐殺』(青木書店、一九八七年)だ。
南京には多くの日本人が来訪する。日本人の認識は分かれている、三〇万人虐殺を認めない人も多い。虐殺そのものがなかったという人もいる。三〇万人の証明は無理なこと。しかし、その数が仮に一〇万にしても三万にしても大虐殺の事実に変わりがない。
生存する被害者の聞き取りを一刻も早く進めなければならない。被害者の人々は傷つき苦しんだ自らの体験を、日本からの訪問者に証言したあと、必ず“来てくれてありがとう”と述べる。しかし、南京を訪問する日本人はほんの一部に過ぎない。多くの日本人は知らないし、南京を訪問しない。今日の会場に、ジョン・ラーベの日記『南京の真実』(講談社、一九九七年)など、たくさんの文献が参考資料として展示されているのを見て、みなさんの関心の高さに驚いた」。
来年3月南京訪問、12月13日映画と学習会
質疑では、「当時八路軍は何をしていたか」「八年前南京の記念館に行ったことがある。制令線について聞きたい」「沖縄戦の第三二軍の牛島司令官や長参謀長は中国からやってきた。慰安所を持ち込んだことでも有名だ」などの意見が出された。
南京の日本軍が沖縄戦の三二軍の中心を担ったという事実に留まらず、沖縄戦と南京事件とは深く関連している。チビチリガマの惨劇に登場する中国大陸の従軍看護婦・知花幸子さんは、日本軍の残酷極まりない蛮行を見聞きした経験から、「米軍に捕まると男も女も恐ろしい目にあわされて殺される」と吹聴して、住民がガマから出て米軍に投降して生き延びる道を閉ざす役割を果たした。その結果、一四〇人の読谷村波平区の避難住民のうち八五人がガマの中で死んだ。大半が一二歳以下の子どもたちだった。
そのように、沖縄戦のさ中日本軍経験者の男女が各地にいて、米軍に対する敵意と恐怖心をあおったであろう。米軍に対する恐怖心を植え付ける「鬼畜米英」「ヒ―ジャーミーの赤鬼」という日本軍による教育と「生きて虜囚の辱めを受ける事勿れ」という戦陣訓による軍人・軍属・軍経験者の支配が沖縄戦の県民被害を増幅させた。
七四〜五年前の戦争で廃墟と化し未だ軍事基地の重圧下にある沖縄こそ、日本軍のホロコーストの被害を受けた南京とつながらなければならない。滞在中の意見交換を通じて、来年三月に沖縄から南京を訪問しよう、前段として一二月一三日に映画と学習会を持とう、と提起された。
アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』を読もう
Tさんの沖縄訪問に向けた準備として私は全力で文献を読んだ。日本軍が南京で何をしたのか。日本軍兵士の証言、中国人の証言、外国人の証言などすべてを総合すると、南京事件の全体像がある程度浮かび上がってきた。それは、「日本の中国侵略」と一言で表現するにはあまりにも残酷でおぞましい日本軍による虐殺・略奪・強姦・放火の数々だった。第一線軍部隊の非道悪行を容認し奨励する仕組みが、天皇の名を冠した軍隊の中にあるとしか言いようがない。
アイリス・チャンは在米三世のジャーナリストだ。中国から家族と共にアメリカに逃れた両親から南京大虐殺の話を聞いて育った。一九九七年に英語で出版し大反響を巻き起こした『ザ・レイプ・オブ・南京』(日本語版は同時代社、二〇〇七年)で、アイリス・チャンは無比の情熱をもって、南京事件の全貌を描き出すと共に、次のように指摘した。「南京大虐殺が、ユダヤ人のホロコーストや広島のような明白さで世界に意識されていないのは、被害者自身が沈黙していたからである」。
そして、アイリス・チャンは「忘れられたホロコースト」として、「戦後史がどのような経過を辿ったとしても、南京大虐殺は人間存在の名誉に染み付いた汚点だった。しかし、汚点を特に厭わしくしているものは、歴史がこの事件に対する適切な終焉を全く完遂していないことである。六〇年が過ぎても、国家としての日本は未だに南京の犠牲者たちを埋めようとしている。一九三七年のように土の下に埋めるのではなく、歴史の忘却の下に」と告発した。
日本人の当事者意識の希薄さに支えられて、戦前の天皇制国家の延長上に国家権力を担う政治家・官僚の居直りが続いている。過去の誤った歴史を直視できないことは日本の不幸だ。まず、南京市民の立場からの包括的な研究書たるアイリス・チャンの著作から始めよう。日本の右翼言論のすさまじい攻撃を受けたことが原因の一つとなったのか、アイリス・チャンはうつ病をやみ三六歳の若さで自ら命を絶った。この本は彼女の遺作だ。翻訳者・巫召鴻の『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』(同時代社)と共に読むことをお勧めする。次に、日本人の南京訪問の中で生まれた著作として、早乙女勝元編で草の根出版社から出ている『ふたたび南京へ』など数冊。さらに、日本軍兵士の証言は、光文社と晩聲社の『三光』、機関紙出版の『天皇の軍隊』シリーズなど中国帰還者連絡会がいろいろな形で出したものや下里正樹『隠された聯隊史』(青木書店、一九八七年))、森山康平『証言記録三光作戦―南京虐殺から満州国崩壊まで』(新人物往来社、一九七五年)がある。当時南京に住んでいた外国人の証言は、ジョン・ラーベ以外にも、マギー牧師の日記『目撃者の南京事件』(三交社、一九九二年)やヴォートリンの日記『南京事件の日々』(大月書店、一九九九年)がある。
南京とのつながりを強めよう。市民レベルのみならず、行政レベルでも、現在日本で名古屋市のみにとどまる友好都市を結ぶ地方自治体を増やそう。南京へ行こう。
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