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    かけはし2019年9月23日号

形成途上の最も重要な左翼組織の姿を刻印


米国

DSA大会報告

サンダースが指名されなければ
民主党候補者を支持せずと決定

ダン・ラ・ボッツ


 米国の若者内部で社会主義への関心が広がっていることが世界の左翼から注目されている。その中心がメンバー数と活動範囲を急速に広げている米民主的社会主義者(DSA)だ。このDSAが先頃大会を開催、今後の活動方針を決定した。いくつか注目すべき決定もある。以下はこの大会の報告。大会討論に則してDSAの性格と今後の展開を論じている。DSAの動きは、民衆の反トランプ抵抗運動、およびこれからの米政治にも一定の影響を及ぼす可能性があり、その観点から以下に紹介する。(「かけはし」編集部)

大統領選に向けた方針も採択


 米民主的社会主義者(DSA)大会に対する、およそ五万五〇〇〇人の党員を代表する一〇五六人の代議員がアトランタに集結し、一連の決議の採択に票を投じた。それらの決議は、労働者内部とコミュニティで組織化を進める野心的なキャンペーンと選挙政治を遂行できる、強力で全国的な組織の建設を続けようとするものだ。
 大きくは競合的なコーカス(一つの政治傾向を表現するために形成されたグループ:訳者)によって強められ、一定数の決議案に関して闘いが交えられた中心的な不一致は、二つの傾向間にあった。つまり、戦略的で全国的なキャンペーンを組織できる強力で中央集権的な組織を求めた者たちと、現場の組織化イニシアチブを励ますと思われるより脱集権化された組織を求めた者たちの不一致だ。
 代議員たちはこれらの論争を超えて、いくつかの重要な政治的立場を採択した。たとえば、バーニー・サンダースが民主党の指名を勝ち取れなければ、DSAは二〇二〇年の選挙では他の民主党員すべてを支持しない、と言明する動議だ。その上で彼らは、公然とした社会主義者として立候補する全国的に承認された候補者を求める方策を通過させた。
 この大会はまた、国境開放を支持する急進的立場を採択、エコソーシャリストの立場の優先性とグリーン・ニューディール支持を明らかにし、米帝国主義に反対する決議をも通した。そして大会はまさに僅差の多数によって、反ファシズム活動支援を票決した。
 大会は、労働者の組織化に関する数本の決議を採択し、労働組合活動の中心性をあらためて主張した。バーニー・サンダース予備選キャンペーンや「全員のためのメディケア」を求める闘争に関する活動のような進行中の努力は、この大会によって絶対的に承認された。
 大会は、一六人の全国政治委員会(NPC)というDSAの新指導部を選出した。この委員会は、大会の分岐を多少とも比例的に反映するさまざまなコーカスを母体とする個人や無所属の個人から構成されている。そこには、より集権化された組織を力説した約一〇人、および脱集権化に傾いている六人がいる。分派主義で引き裂かれた前NPCは、共に調和的にあるいは十分に効率的に活動することができなかった。したがってこの指導部の挑戦は、大会の諸決定を実行し、新しい挑戦課題に集団的かつ効率的に立ち向かう道を見つけ出すことになるだろう。全体として、時として熱を帯びた論争にもかかわらず、全代議員は大会を、より大きく強くそして活動的なDSA建設に集中させた。

活動の豊かさと若々しさ反映


 二〇一七年に開催された前回の大会には、二万五〇〇〇人の党員の意志を表現する七〇〇人の代議員しかいなかった。今回の二〇一九年大会は、すべての州、国中の多くの都市、郊外、そして地方からやってきた一〇五六人の代議員から構成された。不幸なことだが、数多くのDSA支部内では、多くの党員が代議員選挙で票を投じなかった。それは、党員たちが大会発言で述べたように、多くの支部ではメンバーのおそらく一〇%ないし二〇%しか活動していない、というもっと大きな問題を映し出している。
 大会代議員はほとんどが若く(大多数が二五歳から三五歳の間)、非白人よりも白人がはるかに多かったが、しかしそこには、女性やLGBTQの同志たちがいたるところで果たした重要な役割も伴われていた。その何人かの場合一年や二年しか党員歴がなかった多くの代議員にとって、今回が初めての全国大会だった。訪れたラテンアメリカの同志は、「実際のところこれは、全国政治組織というよりも青年組織の会合に見える」と認めた。それでもまた実際のこととして、今回は前回よりも円熟した大会だったと言え、過去二年間にDSAが、政治的キャンペーン、労働組合のストライキ、移民の公正を求める闘争、住宅問題、また他の分野で途方もない量の活動を行ってきた、ということを反映していた。
 大会の全体的組織化は、不幸なことに、政治討論を展開させ、米国の政治的構図、DSAの民主党との関係、米外交政策、あるいは米国内で抑圧された諸集団の問題のような重要な課題を論争することを難しくした。大会は、重要な政治的課題を軸にではなく、むしろ一連の短い総括的報告、決議案、また規約の修正を軸に組織された。同時に、高度に参加型の大会だったこととして、確かにたくさんの、おそらく一〇〇人を単位とするメンバーが前記の問題に関する発言に立った。
 元々は一二五以上の論点が提起された。そしてそれらは、大会に先立つ代議員の票決を通して、大会の一六時間内外の作業日程を通じて取り上げられるべきものとして、一つの簡潔な一致の取れた課題、および約三〇の残った論点に集約された。
 政治的大会の初心者は、手続きに関する動議としばしば全体をいらだたせた「個人的特権の問題」に大量の時間を費やした。そして、二、三の場合、複雑な問題に関する決議案は、一体に束にされ、急いで処理された。そうであっても、大会の規定は全体的に機能し、代議員は互いに敬意をもってふるまい、大会はその仕事を終えた。幾人かの外国からのオブザーバーは、この大会の民主的な性格、およびすべてのメンバーに心地好くまた参加できると感じさせるために行われた配慮に印象を深くした、と論評した。
 政綱を軸に形成されたいくつかのコーカス――建設、ブレッド・アンド・ローゼス、社会主義の多数派、集団の力ネットワーク、リバタリアン社会主義コーカス、改良と革命、その他――が、多くの論争を動かし、決定的な課題に関して投票を促した。建設とリバタリアン社会主義コーカスが脱集権派を先導する傾向を示したが、その一方社会主義の多数派とブレッド・アンド・ローゼスが集権派勢力を率いた。大会直前に登場した新参の集団の力ネットワークは、いくつかの集権的提案といくつかの脱集権的提案に基づいて水を濁らす傾向があった。しかしながらそれらの代議員団に所属していなかった多くの代議員は、ある時は一つの動議に票を投じ、次には別の動議に票を投じるという形で、彼らの見解の揺れを示した。どのコーカスも、あるいはその連合も大会を支配することはなかった。

集権型か脱集権型かで分岐浮上


 大会における集権派勢力と脱集権派勢力間の大きな分岐は、大会と政治委員会による間接的な代表性を基礎とした民主的社会主義党タイプの組織を欲している人々と、参加型民主主義を基礎とした地域的また地方的活動家集団により類した何かを欲している人々、との間にある違いとして特性付けが可能だと思われる。政治教育、オルガナイザーの訓練、党費、全国財源、また他の組織的問題に関する諸問題に関する一連の投票では、中央集権派が五五%の票を得る傾向を示し、他方脱集権派はおよそ四五%を得た。
 それでも、それが社会主義者対アナーキストであると暗示するように深く線を引くことは、思い違いになるだろう。それが間違いであることは確実だと言えるからだ。先の分岐の両側にいる人々は、一つの全国的な集団を保持することの真価を認め、また精力的な民主主義を欲している両側の人々は、その課題の一部として、参加型民主主義の権利を主張するだろう。
 この大会では、マルクス理論にはいかなる言及もなかった。また社会主義の歴史にも僅かの言及しかなかった。すでに述べたように、大会の組織化の仕組みは、大会会場における深い政治討論と論争を事実上不可能にした。DSAの国際委員会がさまざまな諸国――中でもブラジル、日本、ベネズエラ――の左翼政党と社会運動からの国際ゲストを二、三の特別委員会で発言するために配置したが、外交政策は今もDSAの最も弱い分野のままだ。パレスチナ、キューバ、反植民地主義――反帝国主義を表現したいという代議員の強い願いによって突き動かされたとはいえ――を含む国際問題に関するいくつかの動議の慌ただしい処理は、短く不十分な討論と問題含みの文書採択に導いた。
 このすべては、過去二、三年を通じた政治教育の不十分さと不均質さを映し出している。大会が採択した政治教育に関する決議は、その改善の助けにならなければならない。

大会から見えるDSAの政治


 今回の大会はいかなる全般的分析文書もマニフェストも出さなかったが、われわれの組織の政治は、大会の諸決議とそれらをめぐる議論から推測可能だ。
 第一にDSAは、社会主義の政府を権力の座に着け、生産手段を社会化し、平等社会と民主社会を創出することに献身する、民主的な社会主義者組織としてとどまっている。DSAはそうするためにその役割を、より強力な労働運動とより力ある社会運動の構築と組になった民主党内のキャンペーンを通じた、社会主義者の存在を建設することとして理解し続けている(採択された階級闘争選挙決議に表現されたように)。
 前世紀の変わり目に最盛時だった米社会党や一九二〇年代の米共産党や一九六〇年代と一九七〇年代の新左翼諸派とは異なり、DSAは概して、労働者政党、労働者政府のどちらかの言葉で、あるいは社会主義革命の必要も語っていない。また前述したいずれのコーカスもそうしていない――多くのメンバー個人は自らを革命的社会主義者と言うと思われるが――。バーニーの採用あるいはつぶれた決議案は、全国的に承認された候補者すべてが公然とした社会主義者として立候補するという以前に採択された立場を強化する必要条件(決議案31における)同様、一つの重要な言明を意味しているのだ。
 DSAは二点目に、大会での強調点を大量に労働運動の討論に置いた。DSAは今そこから大きく離れているとしても、はっきりと労働者階級の組織でありたいと思っている。大会での発言に向けた客室乗務員協会国際会長のサラ・ネルソンの招待は、その注力を強調するものだった。
 ブレッド・アンド・ローゼス(B&R)コーカスは、一九七〇年代から二〇一〇年に国際社会主義者(IS)とソリダリティから大きな影響を受けて、下部組合員戦略の主な唱道者となってきた(さまざまな名称の下に)。その戦略的見解を採用し、民主的労組を求めるティムスター(TDU)の事例を見守っているB&Rコーカス、およびシカゴの下部組合員教育者(CORE)グループは、レイバーノーツも加えて、DSAメンバーを労組の仕事に巻き込み、下部組合運動で活動し、労働運動を変革するために努力した。
 労働運動を強調している競合コーカスである新規登場の集団の力ネットワークもまた、より幅広い脱集権化された提案を行い、下部組合員に焦点を当てた取り組みには強調点をより低くしている。サンフランシスコのDSAメンバーは、組織化に当たってDSAに労組と直接に協力するよう求める、大会で採択された決議を推し進めた。それは、DSAサンフランシスコ支部が、アンカービール(米企業)で国際港湾労組(ILWU)と共に行ったことだ。
 結論として、その強調点では幾分矛盾がある、しかしそうであっても草の根の戦闘的な労働組合運動の必要への強調を保っている、労働運動の一連の決議が採択された。この労組論争のあらゆる展開で多く見逃されてきたことは、労組内部の社会的カーストとしての労働官僚――それ自身のイデオロギーと権力と事務所がもつ役得に基づいて、企業と労働者の間を均衡させる――に対する鮮明な分析だ。
 第三にDSAは、非白人コミュニティと共に活動する切望と計画を表す諸決議をあらためて採択した。その例としては、移民と難民の諸権利に関する一致した包括的な課題設定の形で採択された決議、国境開放に対する支持、ラティーノコミュニティに向かうこと、コミュニティの組織化と住宅に関する他の諸決議がある。これらをアフロ社会主義者と非白人社会主義者グループの創出のような初期に行われた決定と共に考えれば、このすべては極めて健全だ。
 それでも、この角を曲がることは、特に彼らの諸労組とコミュニティを通じて黒人労働者階級の人々との関係を確立し、彼らを社会主義に獲得することは非常に難しいだろう。民主党内や労働組合内を、また時として左翼内を含む、米国のレイシズムがもつ長い歴史は、手強い障害を意味している。
 DSAもまた行わなければならないことは、組織された黒人とラティーノの政治的な組織を見つけ出し、それらの指導部とメンバーと協力する方法を見出すことだ。そしてそれこそ、今回戦略の一部ではなかったとしても、一つの統合された左翼政党にいたる歴史的な進路なのだ。
 最後に、外交政策が、つまり国際問題と帝国主義の課題設定が、DSAの最弱の分野の一つとして残っている。あらためて疑いなく、これに対しては歴史的な理由がある。一九八〇年代のかつてのDSAは、民主党と密接に結びついて活動し、自らを国際的に社会主義インターナショナルとの連携下に置き、組織を不可避的に冷戦の分割における西側に位置取らせた。新しいDSAは、二〇一六年のバーニーキャンペーンの興奮の中で、国内課題に対するその強調、および外交政策の問題に関するバーニー自身の弱さに基づいて生まれた。DSA決議と討論には「国際主義」と「反帝国主義」の用語が現れているとはいえ、そのグループとメンバーはこれまで実際には、これらの課題に関する考察を多く行ってきてはいない。DSA国際委員会は、これらの問題に関する立場を発展させ始めた。そして国際主義的で民主的な外交政策の発展を継続する必要がある。

革命的社会主義の理念追求の場


二〇一九年大会は全体として、次のことを明らかにしている。つまり、DSAはこの何十年間において米国左翼の最も重要な組織として自身を確固として確立したとはいえ、また事実として、それはまだ自身を打ち固めていない、確実に労働者階級と非白人コミュニティの中では、ということだ。あるいはまたDSAは、米国政治に対処するための、ましてや国際問題に対処するためには、十分に成熟したマルクス主義的分析と戦略をもまだ発展させていない。そしてそれは、DSAがまさに新しく、若々しい集団であり、そして今も相対的に小さな社会主義組織(三億二七〇〇万人の国民の中で五万五〇〇〇人)であることを前提とすれば驚くことではない。それでもDSAは米国の左翼にとって、あるべき場として、また革命的社会主義の理念に向け闘う場としてとどまっている。(二〇一九年八月五日、「ニューポリティクス」より再録)

▼筆者はTDUの創立メンバーだった。また、「ニューポリティクス」の共同編集者であると共に、「メキシコ労働情報・分析」編集者。(「インターナショナルビューポイント」二〇一九年八月号)



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