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    かけはし2019年8月5日号

安倍との対決 沖縄に続き全地域で


沖縄報告 7月28日

高良鉄美さん(オール沖縄)が大差で勝利!

沖縄 K・S

参院選後の辺野古をめぐる動き

安倍政権の埋め立て強行を
全力で阻止しよう!

 七月参院選挙は、安倍自公政権に対する支持離れが進行したが、依然として国会の多数を占めることに変わりがないという結果に終わった。しかし、沖縄では自公維の候補者に対しオール沖縄の高良鉄美さんが六万票以上の大差で当選し、辺野古新基地建設の推進・土砂投入の強行という安倍政権の沖縄政策に対してまたも県民はNO!の意思を明確に突き付けた。
 選挙結果を受けて日本政府は、オウムの一つ覚えのように、菅が記者会見で「危険な普天間の返還のため辺野古の建設推進」を述べ、沖縄防衛局は参院選翌日から辺野古の海への土砂投入を続けた。県民の重い意思は風の中の羽毛のように軽く扱われている。安倍の念頭には自治も民主主義も人権もない。あるのはトランプと同じように自分ファースト。政治の堕落の極みだ。
 何度も何度も繰り返し示される県民民意を無視し踏みにじってはばからない安倍政権の態度に日本のマスメディアはどう対応したか。表面的なニュースを少し流すだけでメディアには真剣さがない。住民の意識により近く基盤を置く地方新聞を除いて、国家権力の強権化に伴う自己保身と権力追随の度が顕著だ。歴史上幾多の独裁政権と御用マスコミの姿が戦後七四年の日本に出現したかのようだ。経済、軍事、外交、生活福祉などあらゆる分野において空前の悪政を重ねる安倍政権に一刻も早く終止符を打とう。
 辺野古海域への土砂投入は加速している。本部の採石場から琉球セメント安和桟橋と本部港(塩川地区)の二カ所を使用した土砂の搬入出は連日、合わせてダンプ六〇〇〜八〇〇台分にのぼる。本部町島ぐるみのメンバーが毎日監視・調査を続けている。参院選後の一週間は次の通り。二二日(月)ダンプが安和に五〇七台、塩川一三七台。二三日(火)安和六八〇台、塩川一三七台。二四日(水)安和四八八台、塩川一八三台。二五日(木)アンナ六四七台、塩川一七六台。二六日(金)アンナ五七二台、塩川一八二台。
 この数字を見ると、辺野古・大浦湾の埋め立てが不可抗力的に進行してしまうのではないかという危惧を抱くかもしれない。ところが実際は、六月県議会で沖縄県土木建築部の上原部長が沖縄防衛局の資料を基に答弁したところによると、五月末の埋め立ての進捗率は全体の二・八%、辺野古側に限っても二〇%以下とのことだ。平和市民連絡会の北上田さんは、最終完成高を勘案すると実際はこの半分以下になると分析している。
 防衛局が埋立承認願書に添付した設計概要説明書では、辺野古側の埋め立ては六カ月で終了するとされていた。昨年一二月一四日の土砂投入以来すでに七カ月以上が経過したが、まだこの段階だ。一体いつまでかかるのか。政府防衛局は期間も金額も明示できない。辺野古・大浦湾の埋め立ては不可能だ。サンゴの海が工事を拒否している。安倍は展望のないまま血眼になって埋め立てに狂奔しているが、翁長知事が五年前指摘した通り、工事は途中で挫折し、辺野古の海に無残な残骸だけが残されることになる。
 安倍は展望のない工事を始めておいて遅かれ早かれ途中で退任する。安倍の無責任のつけは後任者に残される。工事の中止と新基地計画の撤回は早ければ早いほどいい。県民は民意を基礎に県の行政や県議会と連携し現地と地域で勝利するまで闘い続ける。沖縄に続こう。安倍政権に対決する大衆運動を全戦線、全地域でつくり出そう。

カヌーチームTさんの報告


 七月二三日大浦湾。晴れ、風弱く朝から暑い。
 朝六時三〇分、第二テント集合。起床四時三〇分はチョットきつい。
 七時、松田ぬ浜を出艇し、大浦湾開口部に到着。沖にガット台船(輸送船)が安和から赤土を満載、五隻見える。即、開口するフロートに取り付く、このフロートを数百mにわたり引き戸みたいに開き、そこからガット台船が大浦湾内に入る。私たちがいることによりフロートを開くことができない。
 七時五〇分。海保が海に飛び込み私たちを剥がしにかかる。一時間一〇分ほどで全員が剥がされる。
 九時一〇分。先頭のガット台船が開口部から入り、その後四台の台船がすべて大浦湾に入る。通常八時には開口部から入るので、本日は一時間〜一時間一〇分遅らせたことになる。この遅れが少しずつ蓄積していく。
その後、拘束された私たちは松田ぬ浜に約四〇分かかり送り返された。GB(海保のボート)上はものすごく暑い。今日は風が弱く、遮るものもなく直射日光は容赦なく降りかかる。おまけにGBのスピードは歩くより遅い。まるで拷問だ。海保から法的な根拠を聞いたことがない。
 七月二四日安和。晴れ。真っ青な空とオーシャンブルーの海。本日はカヌー一七艇の参加。
 カヌーチームが安和に到着した時、桟橋に停泊中のガット台船(輸送船)の喫水線は半分ぐらい。ということはダンプカーで七〇〜一〇〇台分ぐらい積めば出港することになる。
 九時五〇分。私たちは安和の海岸から漕ぎ出した。桟橋の下に到達するまで一〇分もかからない。主に船首と船尾に取り付く。私は安和が初めてのメンバーと一緒に船尾に向かった。三〇〜四〇分すると「出港」の合図が聞こえてきた。
 一二時二〇分。海保は海に飛び込んでカヌーに迫ってくる。私は五〇分ぐらい粘った。チーム全員が拘束されたのはそれからさらに三〇分たってからだから、私たちで一時間二〇分粘りきった。
 一四時一五分。拘束された全員が安和の海岸に戻った。昼食もとらず頑張った成果で、この時点でガット台船が一隻しか出港していない。
 一四時三五分。新しく入港したガット台船に赤土を積み始めたが、一〇分ほどするとベルトコンベアが止まってしまった。一五時三〇分に私たちが安和から撤退した時点でまだ動いていない。
 つまり本日はいろんな要因はあろうと思うが、最大で二隻しか積めなかったと思う。通常一日に五隻のガット台船が出港するので六割以上をストップしたことになる。安和の行動は目に見える成果がある。多くの人が参加してほしい。カヌーが漕げない人は三日間位で安和に出るレベルにはなる。平日もカヌー教室を行っている。また、カヌーメンバーで相当期間海から遠ざかっている人は遠慮しないで出てきてほしい。

本部町健堅の彦山丸犠牲者14人の墓標

「遺骨を故郷に帰す会」が発足

 七月二七日午後、ぎのわんセミナーハウスで、「沖縄県本部町健堅の遺骨を故郷に帰す会」の発足と記念講演会が開かれ、約六〇人が参加した。

彦山丸一四人の墓標がある本部町健堅


一九四四年の一〇・一〇空襲から一九四五年三・二三地上戦の始まりへ戦争の足音が近づいてきていた一月二二日の早朝、沖縄県北部の本部町で陸軍第四四旅団の物資を海上輸送するため前夜から夜通しで作業をしていた海軍輸送船彦山丸が米軍機四機の攻撃を受け炎上座礁した。米軍が約二週間にわたって実施したフィリピン―台湾―琉球の空海域を支配するための総攻撃「グラティテュード作戦」の一環だった。
この時彦山丸で作業をしていた乗組員だけでなく、四四旅団の兵員や救助に向かった船舶工兵隊員も犠牲になった。四四旅団では一三人死亡、六人行方不明という記録があるが、乗組員、船舶工兵隊員について詳しいことは分からない。地元健堅の住民は、海から引き揚げられた遺体が健堅の浜で火葬に付され近くの畑の脇に埋葬されたと証言している。米国LIFE誌の一九四五年五月二八日号に、瀬底島をバックにした健堅の浜の一四の墓標の写真が掲載されている。その後墓標は取り除かれたが、墓標の下に埋葬された一四人の遺骨はそのまま残っているであろうと推定される。
一四の墓標の名前は鮮明だ。うち一二人が彦山丸の乗組員であることが分かった。海軍上等水兵の一人を除いて、あとの一三人はみな「陸軍軍属」と記されており、日本人二人朝鮮人二人の遺族が確認された。墓標に向かって一番右、横田茂さんの弟、横田隆さんは三重県在住。高木藤次郎さんは北海道出身。「故陸軍々属金山萬斗君之墓」同じく「明村長模君之墓」とある二人は朝鮮半島から強制連行された若者だ。「明村長模」は本名明長模(ミョン・チャンモ)さん。全羅南道高興出身、二六歳で異国の地で殺された。平和の礎に一九九七年追加刻銘されている。
「金山萬斗」は本名金萬斗(キム・マンドゥ)さん。故郷は慶尚南道南海郡の小さな集落。一九四二年のある日、日本兵が突然集落を襲い、家の中にいた金萬斗さん(当時21歳)と兄の萬実さん(当時24歳)の二人を拉致したのである。兄は広島方面へ、弟は沖縄へ送られた。兄は運よく生還し、戦後生まれた長男の昌h(チャンギ)さんに「弟を奪われ家族をバラバラにされ人生を壊された」恨みを語っていたという。小父にあたる萬斗さんが沖縄で亡くなったことを二年前初めて知った昌hさんは、平和の礎への刻銘を申請し、今年六月二三日の慰霊の日に追加刻銘された。
戦死者の遺骨を家族の元へ帰すことは戦争被害の実態を知り本当の意味で追悼することである。沖縄戦の遺骨はほとんど家族の元に帰されていない。日本国家は、「大東亜共栄圏」と名前だけ美しく呼称したアジア各国から人々を無理やり戦争に動員し殺して放置したままだ。

沖日韓在日の若者たちによる発掘へ


集会の司会は沖縄恨之碑の会の沖本富貴子さん。「帰す会は緩やかな運動団体。門戸を広く開け、だれでも参加できる運営会議を軸に進めていく。必要であれば沖縄県、日韓両政府の協力も得て、市民運動の力を発揮したい」と語った。ガマフヤーの具志堅隆松さんと長谷寺の岡田弘隆さんと共に三人で共同代表に就いた。
開会あいさつに立った岡田さんは「犠牲者の名前も場所もはっきりしている健堅で発掘を行い、沖縄戦犠牲者の遺骨を家族の元に帰すことが会の目的だ。政府の戦後責任を追及すると共に、日韓在日の若者たちの手による発掘を通して東アジアの平和を共に考えていきたい」と決意を述べた。
記念講演は殿平義彦さん(東アジア市民ネットワーク代表)、上田慶司さん(戦没者遺骨を家族の元へ連絡会)、具志堅隆松さん(ガマフヤー代表)の三人がそれぞれの立場から行った。
殿平さんは「遺骨の声を聴く」と題して、パワーポイントを使いながら、四〇年以上にわたる北海道での強制労働犠牲者の遺骨発掘の経験を詳しく報告した。きっかけは、朱鞠内湖(しゅまりないこ)のすぐ近くにある寺に置かれていた多数の犠牲者の位牌との出会いだった。朱鞠内湖は人造湖だ。一九四二年から三年にかけて日本人朝鮮人の青壮年数千人が強制動員され千人位が死んだのではないかと言われている。この遺骨の発掘は一九九七年、日韓在日の青年たち二〇〇人による一〇日間の共同作業として成し遂げられた。
戦後七五年の節目の年にあたる来年二月、沖日韓在日の人々の手による健堅の遺骨発掘が日程に上っている。今回、健堅の遺骨を故郷に帰す会は三三ページの資料集を作成した。その他問い合わせ連絡先は、〒901-0302 沖縄県糸満市潮平1 長谷寺内、電話090-3794-0524(沖本)。





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