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    かけはし2017.年11月27日号

名を残さなかった死者たち


映画紹介

「エルネスト もう一人のゲバラ」

解放の大義に生命を賭ける

脚本・監督 阪本順治 主演 オダギリジョー


ある日系二世
の生涯通して

 チェ・ゲバラの伝記映画「チェ二八歳の革命」「チェ三九歳別れの手紙」の二部作が上映されてから、かれこれ七年くらいは経つのだろうか。当時、私は「革命的熱烈ゲバラファン」でありながらも、仕事の都合でその第一部しか見れずに悔しい思いをした。
そんな私の勉強机の前の壁には、トロツキーと並んでゲバラの写真が貼られている。しかし以前、私の家を訪問した元毛派の運動仲間からは「いま時、毛派だって毛沢東の写真は貼らないぜ」と言われたりもしたが。そんなこともあり当時は、ゲバラ伝記として優れた本である戸井十月著『チェ・ゲバラの遥かな旅』(集英社文庫)を通して、改めてチェ・ゲバラの「魅力」を再確認した。

 チェ・ゲバラの没後五〇年に合わせて、日本・キューバ合作映画として製作された今回の映画は、冒頭部分で比較的時間を取って描かれているゲバラの「予定外の広島訪問」シーンを除けば、カメラはオダギリジョーが演じる、ボリビア出身で日系二世のフレディ・マエムラ・ウルタードを中心として回される。

うずもれた
記憶の中で


誰からも尊敬の眼差しを向けられる天才的革命家であり革命キューバの最高指導者であるフィデル・カストロも、英雄的ゲリラ戦士であり永続的なラテン・アメリカ解放戦争を追求したチェ・ゲバラも、映画のなかでは時を刻む「時計」のように映し出される。
フレディ・マエムラは一九四一年一〇月にボリビア・ベニ州都トゥリンダーに生まれた。彼の父親、前村順吉は一九一五年に鹿児島から単身でペルーに渡り、その後ボリビアに移る。母親はボリビア人のロサ・ウルタード・スワレスである。
ちなみにゲバラと共に最後までボリビアでのゲリラ戦を闘った四〇人(生還できたのは三人のキューバ人のみ)のなかには、アポリナール・アキノ・キスペ(三二歳で戦死)とセラピオ・アキノ・トゥデラ(一五歳で戦死)という日系二世と思われる名前がある。二人ともボリビアのラ・パス州インガビ地方ビアチャ村出身となっているので親族なのかもしれない。

ミサイル危機
をきっかけに


キューバでの映像は一九六二年四月、キューバに留学してきたボリビア人の学生たちがポンコツのバスに乗り込むシーンから始まる。フレディは祖国ボリビアの貧しい人たちを助けるために、九月から始まるハバナ大学医学部入学に向けてやってきた。そして九月に行われた学生交流パーティーの場で、二〇歳のフレディはゲバラと初めて出会うことになった。フレディがボリビアの山中で処刑されるのはそれからちょうど、五年後ということになる。
入学間もない一〇月、キューバ核ミサイル危機が勃発し、フレディは数人のボリビア人学生と共に民間防衛部隊に参加する。この「キューバ危機」の発端は、アメリカによるトルコへの核ミサイル配備であった。ソ連はそれに対抗する形でキューバへの核ミサイル配備をフィデル・カストロに要請したのである。そしてその同意書はソ連でフルシチョフとゲバラによってサインされた。しかし「キューバ危機」は、キューバの頭越しにケネディとフルシチョフの秘密会談によって終結される。これにはカストロもゲバラもソ連への不信と怒りを爆発させる。
しかしカストロにはソ連に頼ってでも、革命キューバを何としても守り抜かなければならないという使命があった。一方、ゲバラはソ連批判を強め、ソ連から「要注意人物」とされて、ハバナ在住のKGBの監視下に置かれていくことになる。そして一九六五年二月にアルジェリアで行われたアジア・アフリカ人民連帯機構でゲバラは、激しくソ連を批判する演説を行った。
「……社会主義国は、西側の搾取する国家との暗黙の共犯関係を今すぐに止めるべきだ。そして政治的弾圧に対する解放闘争に関しては、プロレタリア国際主義のルールに基づいて対応すべきである」。
カストロにとってもゲバラのこの原則的な立場は当然のように支持されるのだが、ソ連は許さなかった。ゲバラ粛清の圧力のなかで、ゲバラはソ連に対して「自己批判する気も、謝る気もない」ことをカストロに伝え、党指導部・大臣・司令官の地位、キューバ市民権を公式に放棄するのであった。ゲリラ戦士としてキューバに上陸してから九年目、こうしてラテン・アメリカ解放にむけたゲバラの新たな戦いが始まるのであった。この辺の政治的な背景は、映画のなかではほとんど触れられていない。

医者への道と
ゲリラ戦士


一方、フレディ・マエムラにとっての転機は、一九六四年のボリビアにおける軍事クーデターとバリエントス軍事独裁政権の成立だった。フレディは医者になるという目的を果たすために一生懸命に勉強してきた。そして誠実で正義感の強かった彼は、革命キューバの空気のなかで過ごしながら「政治と社会を変えなければ何も変えることはできない」と感じ始めていたのかもしれない。
フレディから「ゲリラ部隊に参加したい」と申し出があった六四年当時、ゲバラは具体的な方針を持ち合わせてはいなかった。六三年九月から始めていたアルゼンチンでのゲリラ拠点建設のための試みは、翌年四月の部隊の壊滅によって失敗していた。ゲバラはフレディの熱意を受け入れたうえで、その時が来るまで実戦的な医療ができるように「勉強を続ける」ことを指示したのであった。フレディは日常の学生生活に戻るのだが「その時が来れば死を覚悟しなければならない」という意識のなかで時を過ごすしかなかった。そうした意識はまた、彼の恋愛のなかにも貫かれていた。
すべての公職と市民権を放棄したゲバラの最初の任務は、軍事顧問団の指揮官としてコンゴ革命最高評議会に対する軍事支援であった。ゲバラを指揮官に任命したのはフィデル・カストロだった。一九六五年四月から一一月まで総勢一四〇人以上の兵士を送り込むも、結局コンゴでの作戦は失敗する。
次の作戦は南米大陸の中心に位置するボリビアにゲリラ戦の拠点を建設するというものであった。フレディもゲリラ訓練に志願することになる。そしてフレディは、六六年七月に作戦の打ち合わせと、自身の訓練のためにキューバに戻ったゲバラと再会し、ゲバラからゲリラ戦士名「エルネスト」を使うようにとの指示を受けるのである。この時からすでにゲバラのフレディに対する信頼は、極めて高かったと言っていいだろう。フレディがボリビアに設営されたベース基地の農場に到着したのは一一月二七日だった。
ボリビアでのゲリラ戦は最初のボリビア共産党との決裂から始まり、二人の溺死者を出すなどアンデスの自然に翻弄され、食料も底をつき、潜り込む人民の海もなく密告者が相次ぎ、サバイバルの目途すら立たないものとなった。一方でボリビア軍は六七年四月に入ってから二千人の兵力でゲリラ討伐を開始した。ゲリラ部隊のなかで数人の病人が出ていたということもあって、四月一七日に部隊を前衛のゲバラ隊と後衛のホアキン隊に分ける。フレディは後衛部隊の一員となった。その後、無線機も使えず二隊が合流することはなかった。

乾いた銃声音
と突然の死


映画でのゲリラ部隊シーンは、それから四カ月ほど経った後衛部隊を映すところから始まる。一七人いた隊員は、ボリビア人の脱走と戦死者で一〇人ほどになっていた。残ったなかには病人もいる。そして隊長のホアキンは決定的なミスを犯すことになる。すでにボリビア軍のゲリラ討伐網が広く張り巡らされているにもかかわらず、知り合いの農民にリオ・グランデ支流のプエルト・マウリシオ川の渡渉地点の指示を仰いだのであった。農民は賞金欲しさに密告し、翌日の八月三一日、ボリビア軍歩兵連隊が待ち伏せする地点まで部隊を案内するのであった。
こうしてフレディと後衛部隊「最後の日」がやって来た。斥候の一人が川を渡り終えて、それに続いて部隊員が次々と渡渉を始めると、ボリビア軍の一斉射撃が始まった。それに反撃できたのは、すでに対岸に渡っていた斥候だけであった。「バン」「バン」と短くて乾いたボリビア兵の銃声は、アイルランド独立運動を描いたケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」の銃声音と重なって胸に響いてくる。
腕を撃たれて捕らえられたフレディは、拷問にも口を割らなかった。そして最後に本名を名のり「ボリビア人民万歳」と言い残して処刑された。そして映画はフレディの心音が停止するかのように終わる。
一方、前衛のゲバラ隊一七人は一〇月八日、ユーロ渓谷でボリビア軍に包囲されるなか攻撃を受ける。この戦闘で四人が死に、ゲバラとボリビア人ウィリーとペルー人チーノが捕虜になった。そして捕虜の三人は翌日、九日にイゲラ村の小学校で処刑された。こうして最後まで、ラテン・アメリカと祖国の貧しき人民のために戦った無数の名も残さなかったゲリラ戦士達こそが「もう一人のゲバラ」だったのだ。
今年の一〇月九日、ゲバラ没後五〇年の追悼行事がボリビアで行われた。約二万人が参加して「ゲバラは永遠」などと書かれた旗を掲げた。ボリビアのモラレス大統領、キューバやベネズエラの政府高官らも参加した。また今回上映されている「エルネスト もう一人のゲバラ」は、広島国際映画祭2017で「ヒロシマ平和映画賞」を受賞している。 (高松竜二)

コラム 

ホットコーヒーを飲む

 ホットコーヒーが美味しい季節になってきた。とりわけ暑かったこの夏、いつも通りペットボトル入りのアイスコーヒーをガブ飲みし、さらにビール、冷酒とのみ続けた結果私の胃腸は愚痴をこぼすようになっていた。その愚痴を無視したために体調を崩してしまった。こんな夏も初めてだ。
 深まりゆく秋の夜長に飲むホットコーヒーのひと時は格別なものがある。ペーパードリップの香り高いコーヒーを大きめのカップにたっぷりと入れる。もちろんブラックだ。夏の疲れが少しずつほぐれてゆく。
 コーヒーと言えばかなり旧い話になるが、一週間毎日味の異なるコーヒーを飲ませる喫茶店があった。生豆の産地がそれぞれ違うのだ。ブラジル、コロンビア、キリマンジャロ等だ。さすがにブルーマウンテンは入ってはいなかった。その説明も書かれていた記憶がある。しかも特別な価格ではなく普通のブレンドコーヒーと同じであった。どうやらアンテナショップらしく随所で見かけることがあった。
 その味と香りの虜になった私はしばらく通いつめた。様々な資料や本を読んだり、行数を少なくした原稿用紙を作って幾つかの原稿を書くこともあった。
 泊まり中心の仕事に就いてからはインスタントコーヒーを飲むことが多くなった。当時は現在のような携帯用のドリップコーヒーはそれほど流通していなければ価格も高かった。コーヒーは仕事仲間で会費を出し合い共有する方法を採っていたので独自の行動をすることは避けねばならない。
 買い替えの時に、各々が希望するメーカーを出し合うことになっていた。私は初めてその種類の多さに驚かされた。冷水に溶けやすいものもあった。
 インスタントコーヒーには言い表しようのない独特の食感がある。飲むほどに慣れるもので、それぞれの違いが解るようになる。好き嫌いも自ずとはっきりしてくるものだ。だから職場には常時三種類のコーヒーが置いてあった。
 ずいぶん長い間いろんなインスタントコーヒーを飲んだが、どれも何となく馴染むことができなかった。
 眠りに就く前のひと時、お気に入りのホットコーヒーを飲みながら、ミニコンポの音量を低めに抑え、スローテンポのジャズを聴く。何よりも心が和む時だ。
 私はジャズについての知識人ではない。曲を聴いてもその題名も演奏者も共演者もほとんど解らない。そのことに私はそれほど関心があるわけではない。私にとってフィーリングが合えばそれで十分なのだ。もちろん感動した演奏について調べてみる時もあるが。
 私のミニコンポは音域が広く音質にも奥行きがあるなかなかの優れものである。阪神・淡路大震災で全てを失ってから最後に手に入れることができた家電だ。量販店のフロアで宣伝用に曲を演奏し続けていたものがバーゲンで売りに出されていた。格安であった。もう十年来の自慢の友である。
 さて、そろそろ眠りに就く時だ。     (灘)



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