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    かけはし2017.年9月11日号

米政治の深部で左翼への新しい胎動始まる


米国

三倍化後のDSA大会

一新したメンバーが混乱も含め
精力的議論展開し党をより左へ

ダン・ラ・ボッツ

 昨年の大統領選におけるサンダースキャンペーン、そして大統領就任後にトランプが重ねているさまざまな反民衆的暴挙に対する大衆的抵抗の中で、米国における新たな左翼への流れが現れている。その一つが新たな活力を得たアメリカ民主的社会党(DSA)の動きだ。以下はその一端を伝えている。米国における伝統的支配層の民衆に対する政治的掌握力の極度の弱体化が明白になっている今、ソリダリティの同志たちを含むこのような左翼の役割は、米国における民衆的抵抗と米国政治の今後に大きな意味をもつ可能性がある。それを考える素材として紹介する。(「かけはし」編集部)

DSAは事実上
再創立を果した


 米国内の社会主義運動は、この週末、アメリカ民主的社会党(DSA)の二万五〇〇〇人以上の党員を代表するおよそ七〇〇人の代表が、シカゴで開かれた組織の二年に一度の大会で会合する中で、前進に向け大きな一歩を印した。この大会は、昨年の選挙後にその大きさが三倍以上になって以後初めての大会だったが、この国の大都市すべてと多くの大小の町から代議員を結集した。
 ほとんどは、昨年加入した新メンバーだった。彼らは、バーニー・サンダースキャンペーンから、あるいはドナルド・トランプの大統領就任というぎょっとするような展望への対応として、そのどちらかから加入した。今回の大会はこの新メンバー数百人を、事実上DSAの再創立となった全国組織にしっかりと統合した。そして代議員たちは、組織規約の改変と、組織を左へと動かす諸々の政治決議を採択した。
 DSAは、マイケル・ハリントンが率いる民主的社会主義組織委員会(DSOC)出身の旧左翼活動家、およびニュー・アメリカン・ムーブメント(NAM)を生み出した一九七〇年代の新左翼活動家の合同から、一九八二年に創立された。一九七〇年代から二〇〇〇年代までDSOCとDSAは、南部の白人レイシスト的民主党政治家と大都市の政治機構の両者を追い出すことによって、民主党の改革はあり得るだろう、とのハリントンの考えに力を得て、進歩的な労組スタッフ、公民権運動指導部、さらに民主党のリベラルな翼に向けて方向を定めた。そしてDSAは、社会主義インターナショナルに加入し、スカンディナビアの諸社会民主党と提携した。後者は、医療、教育、さらに住宅に関して印象に残る綱領に基づいて、成功裏に福祉国家を築き上げていた。一九九〇年代までには、ハリントンの戦略が失敗に終わったことははっきりしていた。そしてより小さく弱くなったDSAは、はっきりした代わりとなる展望もないままに、よろめきながら二一世紀に入り込んだ。

若く多様な
新メンバー


 「政治革命」と「億万長者」に対決する闘いに向けた呼びかけ――そして特に「民主的社会主義者」としてのサンダースの自称――に基づくバーニー・サンダースキャンペーンは、特に若者内部のとてつもない盛り上がりをつくり出し、DSAを生き返らせた。長い経歴をもつDSAの指導者たち、この組織の小さなスタッフ、そしてDSAの若者グループである「青年民主的社会主義者(YDS)」の指導者たち(この大会で自身を「米国青年民主的社会主義者」とあらためて命名した)は、この好機をつかみ、サンダース運動から何千人をも引き入れた。トランプが大統領選に勝利を収め、一月に就任したときには、さらに数千人が加入した。
 今大会への代議員を構成し、自らを社会主義者にし、DSAを自分たちのものにしようと決意したのは、これらのほとんどが若い活動家――五分の一は非白人、五分の二は女性――だ。そのような組織においては当然ながら、運動参加や社会主義教育や政治経験のレベルは高度に不均質だった。しかし大会は、事実上新たな組織であるものに向けて共通の基盤を提供する点で、大きく進んだ――その「ソーシャリズム一〇一」スタイルのワークショップのおかげで――。

カオス的討論を
経て左への選択


 ほとんどの大会と同じく、DSAの場合にも、特別な発言者を伴った全体総会、教育的なワークショップ、またグループ形勢に向けた機会があった。しかしメンバーたちは、諸決議の討論と論争のためにもっと多くの時間を求めた。左翼政治と会議手続き双方に慣れていないメンバーの多さから、会合は時として飽き飽きし、いらいらし、腹が立つものとさえなったが、辛抱強さと断固とした姿勢を組み合わせた経験豊富な議長の誘導の下に、この集団にとって大会は巨大な学習的経験となった。
 情報に関わる諸事項に付随した、また無数の動議による長時間の論争を経て、大会は最後に、全国的な優先性をもつ文書を採択した。それは、全員を対象とした公的健康保険プログラムを求める闘いを全国的目標と定めたものだ。
 大会はさらに、いくつかの規約修正と組織をかなりの程度左に向ける諸決議の採択を票決した。代議員団が票決したのは以下のことがらだ。
?欧州の社会民主主義勢力は新自由主義と緊縮の唱道者に成り果てた、世界の他の加盟政党には多くの権威主義政府が含まれている、そして結論的に、社会主義インターナショナル(SI)は分解しつつある、との議論を基礎に、SIから離脱する。
?(イスラエルに対する)ボイコット、投資引き上げ、制裁運動を支持し、それを犯罪にしようとするたくらみに反対する。
?組織内での、「非白人会議」設立。
?労働者委員会の設立。
?組織内政治論争のためのフォーラム設立。

民主党と労働者
―急進化の兆候


 DSAメンバーは全体的に、トランプと新自由主義の民主党双方に反対している。筆者は、大会前に論じたことだが、民主党の進歩的な翼を中心的な問題だと見ていた。二つの異なった動議――筆者は双方に関わった――が、民主党に対し、特に「一体性」、「前進」、「われわれの革命」といった民主党内グループの進歩的な民主党員に対し、もっと批判的な姿勢をDSAに採択させようと挑んだ。これらの動議は敗北したが、約五分の二の票を受け取った。それは、DSAメンバーの高まる急進化を示すもう一つの兆候だった。
 DSAが政党へ自身を変革することに着手することを求めた第三の決議は、候補者を立てて運動することに関しては法的な問題があるということを根拠に、棚上げされた。そして最後に、サンダースを担いで「民衆党」をめざすという動議も、圧倒的票差で退けられた。
 DSAの労働者活動家たちは労働者委員会の創出を強く求めた。その組織者の一人によれば、五〇〇〇人の党員に対する調査からの推定に基づき、DSA内には約一四四〇人、あるいは全党員の約六%の一般労組員メンバーがいる。その中で、先の委員会は三五〇人の労組メンバーで始まっている。大会の中では一つの労働者会合があり、約二〇人の教員が、草の根からの労働運動に対する展望を討論するために会合をもった。

海外の左翼諸勢
力への熱い共感

 党員と代議員団に対する事前の質問により決定され、さらに大会委員会や代議員団自身により勧告された大会議題は、医療問題と政治に焦点が合わされた。そして、最後の議事の中で指摘されたように、気候変動という決定的な問題は含まれていなかった。さらに一人の活動家が指摘したように、LGBT問題についても動議が一つもなかった。もちろん、DSAメンバーは早くからこれら双方の課題に関わっており、今後の新全国政治委員会(NPC)での要求作成と総会レベルで、それらの問題を取り上げ続けることに疑いはない。
一時議長が議事規則に違反して早まって障害者決議案を提案した際、「われわれなしにわれわれのことを決めるな」と唱和する障害者メンバーの一グループによる小さく短時間の抗議が、議長を代える動議、議事規則を一時停止する動議に導き、次いで、一つの決議の採択に導いた。それは、優先課題の決議に障害者代議員団会議が受け入れ可能な障害に関する表現を加える、というものだった。
また途方もない熱情がほとばしる瞬間もいくつかあった。DSAは社会主義インターナショナルと決裂しただけではなく、欧州やラテンアメリカの左翼中の、幅広い左翼諸政党と自らを一体視する象徴的な動きをもつくり出したのだ。DSA代議員団は、最終日夜に開かれた祝賀会で、ブラジルの社会主義自由党(PSOL)、不屈のフランス、スペインのポデモス、ポルトガルの左翼ブロック、英労働党の発言者たちに大きな喝采を送った。労働党の代表は、「オー・ジェレミー・コービン」と面白おかしく歌う歌声にかき消されて、ほとんど話すことができなかった。

16人の指導部に
42人の立候補者


DSAの全国政治委員一六人に対して立候補者は四二人いた。DSAの規約は、「選出メンバー中、最低八人は女性、最低四人は民族的あるいは人種的マイノリティとする」と規定している(委員会を二四人に拡大する動議は否決された)。
DSAにはその歴史のほとんどを通じて、特定の問題を中心にまとまる集団を内部に抱える歴史がない。しかし今大会は違った。今大会に向かうにあたって、一定数のDSAメンバーが署名した「統一と多様性」との標題を付した一つの声明があった。それは、正確には一つの内部集団とは言えないとしても、DSAの「ビッグテント」概念(民主党に対して使われることが多く、異質なものの大連合を指すと思われる:訳者)の再確認を軸に若いメンバーと合流しようとの、長い経歴を持つ何人かのメンバーによる狙いを表現していた。
一方若いDSAメンバーからなる一つのグループ――その何人かは二、三年前にYDSとして友好メンバーとなっていた――は、左翼に傾くモメンタム名簿をつくりあげ、草の根からの労働運動という考え方と「全員のための医療保障」キャンペーンを強調した。また、「実習」名簿もあり、それは、現場主義への力点と組み合わせたNGOスタイルの訓練を押し出した。立候補者のほとんどは個人として立候補したが、何人かは政綱をほとんど、あるいはまったくもっていなかった。筆者は、進歩派民主党員に対するより批判的な姿勢の主唱者として立候補した。筆者はそれをDSAが直面する中心的な問題と論じた。
結論として大会が選出したのは、モメンタムの代議員六人とモメンタムに近い別の無所属の一人、五人の「実習」の代議員、そして旧指導部チームの四人だった。筆者はその中に入っていなかった。

厳しい試練待つ
が好機も大きい

 新指導部のチームは、一九四〇年代における共産党、および一九〇〇年代はじめの社会党以後では、米国内の最大の社会主義組織を率いることになる。挑戦すべきものは数多い。何よりも、トランプ政権と新自由主義的な民主党がある。しかし好機もまた大きい。その上に数々の展開――二〇一八年の中間選挙、経済のあり得る下降、もっと権威主義的な政権への変化――がDSAをテストにかけるだろう。DSAは、これらの挑戦課題に応じることができるならば、二一世紀の米国内で、初めての真に大衆的な社会主義政党に向け基礎を据えることになるだろう。
大会はインターナショナルの斉唱で幕を閉じた。この労働者の聖歌を歌唱指導する者の一人となることを、筆者は喜んで引き受けた。ポルトガルの左翼ブロックの同志は私の方を向き、「あなたが彼らにインターナショナルを教えるとは、何とエキサイティングなことか」と語った。われわれは米国における社会主義者の新世代がその本領を発揮するようになることを今助けようとしている、と彼女は言おうとしていた。そしてわれわれ両者はそのことを分かっていた。(二〇一七年八月七日)

▼筆者は、「民主的労組をめざすチムスター(TDU)」創立メンバーの一人だった。「下部からの反乱:民主的労組を求めるチムスター」(一九九一年)の著者であると共に、「ニューポリテックス」の共同編集者、また「メキシコ労働情報・分析」の編集者でもある。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年八月号)
訳者注)チムスターは、主にトラックドライバー、運送関係と建設関係の労働者を組織する全米最大規模の労組連合。米国のトロツキストは戦前期、この内部に戦闘的な運動をつくり出した。

 


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