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    かけはし2017.年8月14日号

共謀罪をぶっ飛ばせ!


7.24

共謀罪あかんやろ!オール大阪

次の展望をどう共有するか

小倉利丸さんが講演


 【大阪】「共謀罪」法が施行され、闘いは新しい段階に入ったことで、法案阻止を目標に闘ってきた「共謀罪あかんやろ!オール大阪」は、とりあえず七月二四日エルおおさかで会の締めくくりの集会を持ち、次なる闘いの展望を共有することになった。小倉利丸さんが講演をした。
 代表の服部良一さんは「共謀罪で総がかりというのは少し難しいだろうと思い、大阪弁護士会の共謀罪対策プロジェクトチームの中心である伊賀・永嶋弁護士に相談し、共謀罪あかんやろ!オール大阪をつくり、街頭で市民に訴える活動をしてきた。法律の国会通過を許してしまったが、この法律そのものを根本的に認めるわけにはいかないので、今日の集会を今後の闘いの決意を固める場としたい」と述べた。
 続いて、小倉利丸さんが講演をした(別掲)。次に、永嶋靖久弁護士が「あなたに共謀罪が適用されたらその時はどうするか。過去の例をあげながら、警察の取り調べに対しては、しゃべらないこと(言ったことを逆手にとられて逮捕なんてことになりかねない)、弁護士に連絡すること(関西救援連絡センター、〇六六+ミナニ・ワナナク)、この二つを必ず守ること。捜査協力の必要は一切ない」と話した。
 矢野宏さんん(新聞うずみ火・代表)は「最近のマスコミが共謀罪をどう伝えたか。『共謀罪』を用いたのは、朝日・毎日・日経・東京・地方紙・テレ朝・TBS、『テロ準備罪』を用いたのは、読売・産経・NHK・日本テレビ・フジテレビと、二極化している。でも読売だからみんなダメというのではなく、優れた記事を書いた記者やディレクターは励ましてほしい」と発言した。
 最後に主催者から、八、九、一〇月の一一日は共謀罪関係の街宣をすること、共謀罪法の廃止を求める総がかり行動実行委員会の緊急署名のとりくみなどの行動提起があった。(T・T)

小倉利丸さんの講演から

刑法はどう変わるか?

学界の多数が共謀罪「容認派」

 刑法学者の前田雅英(首都大学東京)は、「裁判員制度の導入は刑法理論に根底からの変化をもたらすだろう。裁判員制度では、法的知識など必要ない、今の時代を生きる日本人の常識が必要だ」と言っている。そもそも常識とは何かの説明はない。国民は画一的な常識を持っているわけではない。価値観は多様だが、マスメディア・教育・政府の中で再構築された、権力にとって都合のいい価値観が常識と呼ばれる。その実態は権力のイデオロギーだ。前田の主張は、常識による厳罰主義を容認する欧米がたどった道を日本もたどると予想する。
既遂処罰の原則が形骸化し、原則にはならなくなった。犯罪とは「構成要件に該当する違法で有責な行為」という定義が大きく揺らぐ。今後は、二七七の罪で共謀が「既遂」になる。法解釈が捜査機関や司法に委ねられることも、罪刑法定主義とみなされる。犯罪の定義の中の「行為」に、発話行為とかコミュニケーション行為を含むようになる。学会の多数を共謀罪容認派が占めるようになる。共謀罪法案反対声明は、一二〇〇人の刑法学者のわずか一八〇人だった。共謀を違法とする刑法の考え方を前提とした裁判員による判断が当然視される。
理念に基づく長期的目標があり、短期的目標がある団体の場合、どこまでがターゲットになるのか。例えば、反原発や反基地などが対象になっても不思議ではない。今まではあってないような罪の内乱罪。内乱の陰謀がある場合、内乱陰謀の共謀はどのような場合が想定できるのか。革命による権力奪取を組織の目標に掲げる団体がある場合、その実際の能力はないとしても、一〇年計画で力による革命を達成する計画を立てて活動することは共謀なのか。内乱罪が共謀罪によってこれまでより適用範囲が広くなるように、破防法についても同様のことがいえる。

効果は証明さ
れていない
この間、国連は共謀罪に反対しているかのような錯覚があったが、むしろ共謀罪の推進者だ。国連テロ対策委員会事務局上級法務官の高須司江(検事から国連に出向)は、「条約は、各国が協力してテロを含めた組織犯罪を未然に防止するためのもので、未締結国は日本などわずか」といっているが、一八七国も締結していても、テロ対策としての効果は証明されていない。人身売買・銃器取引・薬物取引をめぐる国際組織犯罪の防止に役立ったとは到底思えない。
高須は、「多くの国は共謀罪を持つ。法整備なしでは、他国での処罰を逃れてテロリストが日本に逃げ込んでくる可能性がある」というように不安を煽り、オリンピックテロに対する国民の危機感がないことを危惧し、犯罪実行着手前の早い段階での検挙が重要だ、プライバシー侵害や捜査機関による権力乱用に対する懸念も重要だが、テロが起きた場合の被害とのバランスが問題だという。このように、刑事司法の専門家は自分の専門性の中でしか解決を考えず、厳罰主義の取締や立法化のことしか念頭にない。

テロ対策で何
が変わるのか
そもそもテロとは何かについての共通認識がない。政府が私たちをテロリストと呼べば、「テロリスト」のレッテルを貼られ、メディアにもそのように見られる。でも私たちはテロリストではない。誰がテロリストだと私たちは考えているのか。ISIS、ムスリム、はどうか。ムスリム復興運動による自爆攻撃はテロリストの攻撃か。パレスチナのハマスはテロリストか。政府の公式解答でテロ対策が策定される。これに対して、私たちの判断も下さなければいけない。テロかどうかの認識には、歴史認識やイデオロギーが深く関与する(例えば、安重根による伊藤博文の「暗殺」)。
テロを考えるとき、もうひとつは国家テロリズムの問題だ。小規模な軍事行動、民間軍事会社を用いた非合法な軍事行動、政府による右翼暴力団を利用した暴力、警察による暴力。これらについては、社会認識をめぐる対立の中で、私たちの価値観や世界観が問われる。テロリストは絶対的悪とされ、そのための国家による政治的暴力が無条件に肯定される。

監視社会到来
は確実なこと
法の支配は後退し、操作技術(コンピューター・ITを使った)による支配が拡大し、監視社会になることは間違いない。網羅的監視、場所を特定しない令状、共謀罪は現行犯逮捕と緊急逮捕の対象になるかもしれない。今後の動向として、盗聴法のさらなる改悪、潜入捜査などの手法の拡大、追跡・監視捜査の拡大、捜査機関のグローバル化から刑事司法のグローバル化等が危惧される。最近西欧では、軍事会社がさまざまな捜査技術のプログラムを開発し、アラブの春以降の中東に売っている。
取り調べでは、共謀=人間関係を自白させる取り調べが主軸になる可能性がある。共謀の物証(盗聴捜査による会話、通信、GPSの記録)と自白が重視される。米国では、水責めなど自白のための「特殊尋問手法」が導入され、戦前型取り調べへの回帰が見られる。

治安維持法
以上の悪法
ゾルゲ事件を例に取ると、国体の変革や私有財産制度を否認することを目的とする結社の目的遂行のためにする行為は有罪とされた。さらに、組織に所属している者の知人であって、知人として会話することで流れた情報が一般的に知り得る情報であっても、違法とされた。
共謀罪の場合、国体の変革などの規定がないだけその適用範囲が広くなっている点で、治安維持法以上の悪法である。市民活動では組織のメンバー規約がなく、自由参加で運営しているところが多い。こうした組織のメンバーとの個人的な親密さや機関紙の単なる購読会員でもシンパとみなされる。カンパは資金援助とみなされ、共謀罪に問われる可能性もある。

治安維持法検
挙者は六万人
一九二八年以来の治安維持法検挙者は六万人を超えた。起訴猶予、執行猶予はそのうちの一万人。非転向者には厳罰、転向者には社会再統合を制度化した。当時政府が危惧したのは非転向者の再犯可能性であり、思想犯保護観察法が治安維持法と対をなして法制度化され、起訴猶予、執行猶予、満期出獄、仮出獄者が対象となった。保護観察審査会で再犯の危険性が審査された。

国境を越えた
自由な移動を
条約との関係では、薬物・人身売買の摘発強化が予想されるが、こうした取り締まりは必要なのか。薬物依存による心身の問題は医療によって解決すべきだ。薬物売買の取り締まりは、薬物の質の悪化を招き、いわゆる犯罪組織のビジネスチャンスになっているのではないか。人身売買と労働市場を通じた労働力商品の売買との明確な区別は可能なのか。難民は、時には人身売買業者を頼って越境せざるを得ない。人身売買の仲介者も移民・難民であったりする。国境を越えた自由な移動を確立することが、人身売買を縮小する唯一の解決策だ。

「犯罪」と「刑罰」
を問い直そう!
特効薬はない。法的なとりくみとしては、共謀罪・盗聴法などの廃止法案をつくること、警察法改正(警備局の廃止)。プライバシー防衛のための自衛対策(反監視技術の獲得)としては、ネットコミュニケーションの文化を変えること(匿名性を確保できる技術の利用)、ウイキリークス、情報公開やコミュニケーションの権利運動が大切。
同時に、犯罪と刑罰を根本から問い直す必要がある(犯罪者は悪、刑は正義)。戦後憲法に対して、戦前からの刑法の共存を許している刑法の世界そのものを疑う必要がある。社会変革の民衆の権利を刑事司法制度は本質的に抑圧するものでしかないことをふまえ、刑罰はなぜ必要か、監獄は必要なのかということを根本から議論する必要がある。(講演要旨、文責編集部)

コラム

漢字テスト

 突然手の動きが止まった。どうしても思い出せない。イメージは浮かぶのだが細部がわからないのだ。
 さしあたり必要な物、必要となるであろう物のリストを作っているのだが漢字が書けなくなってしまったのだ。今に始まったわけではない。かなり前からそうなのだ。
 阪神・淡路大震災から二〇年以上が経ち様々な物に支障が出るようになってきた。そのリストと資金計画を立てる必要がある。低額の年金生活者には右から左へ金が出てくるわけではない。そういえば日々の買い物メモは圧倒的にカナが増えている。いちいち漢字を書くのが面倒になっているのだ。
 「老いのせいだ」などとと軽く考えていると、認知症の要因になるという話を聞いた。人間の脳は、それが当たり前だと思ってしまうらしいのだそうだ。
 読むほうはかなり難解な漢字でも読解できるのだが。「読む」と「書く」の間の落差が激しすぎるのである。昔は、職場の友人たちから漢字の書き方をよく聞かれたはずだったのだが。
 時には漢字検定を受けているという仲間から挑戦されたりした。その時は必ず私は敗者であった。そうでなければならなかった。
 手書きの文章を書かなくなってから長い年月が過ぎた。その頃は、万年筆かボールペンを使用していた。下書は鉛筆だった。紙は便箋か原稿用紙。横には必ず国語辞典と漢和辞典があった。「四季の言葉」や「ことわざ」の辞典も本箱にはあった。これが当時の平均的な姿である。
 どちらかといえば私は万年筆派であった。ボールペンは何となく事務的な感じがした。万年筆はペン先の硬いものが好きだった。鉛筆もBよりはHを好んで使っていた。
 ゴミ箱は何時も書き損じの紙で満杯だった。それを見ても何とも思わなかった。むしろ自分は何と字や文が下手なのかと思うのが常であった。
 もちろん学生時代の研究論文も自筆だった。タイプライターもあるにはあったが、教授の部屋に置いてあり許可が必要であった。
 現在ではパソコンかタブレットで文字を書いている。当初、私には非常な抵抗感があった。 あらゆる文字が全て同じ形なのだ。何と非人間的で、冷たく、機械的であることか。こんな物で気持ちのこもった文章が書けるわけがないと思っていた。
 使えば慣れるものだ。画面上で文章の修正が出来る。書き損じの紙は全く出ない。漢字変換は豊富で辞書もほとんど必要としない。なかなか便利だ。検索機能も希望を十分に満たすものではないが結構役に立つ。遂には、親しい人への手紙も自筆ではなくなってしまった。
 その結果、パソコンやタブレットに依存すればするほど私は漢字が書けなくなってしまったのだ。
 暇にまかせて「漢字テスト」を検索して引っ張り出してみた。様々なレベルがある。四字熟語の初級で私は早くも討ち死にしてしまった。
 自覚していたがやはり衝撃的であった。以前書くことができた漢字の大半が書けない。文字のイメージすら浮かばないものも多々あった。
 ゴミ箱は再び書き損じの紙が増えてきた。 (灘)



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