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    かけはし2017.年5月1日号

ルペンを押し上げるテロとレイシズム


フランス

大統領選と極右に向かう分極化

新自由主義の破産とバルサ政権

レオン・クレミュー

 本紙が読者の手元に届く頃はフランス大統領選第一回投票の結果は判明しているが、その結果を理解する一助として、今回の大統領選を前にした政治/社会情勢とそこに働いている力学を検討している現地の同志の分析を以下に紹介する。ただし原文はかなり長いものであるため、ここでは、最終章の、社会党の左に位置する諸勢力の問題を扱った部分のみにとどめている。なおここで紹介を割愛した部分は、基本的に主流諸政党をめぐる問題を扱っていて、それらの一定部分は一般紙でも報じられている。(「かけはし」編集部)

イスラム嫌悪
とルペン支持


ここまで見てきたあらゆる要素が、マリーヌ・ルペンを通じた極右に向かう分極化を強めている。それは、第二回投票での彼女の存在を保証し、第二回投票でも彼女の選出を除外できないほどのものだ。多くの欧州諸国内と同様、この極右が、アイデンティティへの民族主義的撤退という力学を舞台に勝負することによって、社会的諸危機の果実を刈り取ることになっている。
実際緊縮の諸政策に脅かされた多くの有権者は、民衆層内で活力をもつ反資本主義的政治の極が不在の中、その撤退へと引きつけられる可能性が生まれている。社会民主主義が遂行した自由主義的諸政策は、こうした現象を加速してきた。
加えて、バルス政権の治安政策、国家的イスラム嫌悪、そして制度的レイシズムもまた、国民戦線(FN)の挽き臼に穀物を運び入れてきた。FNの影響力は、軍と警察の内部で幅広い規模で発展してきた。それらのもっとも反動的な諸傾向は、社会党政権によっておべっかを使われてきたのだ。テロリストの攻撃後に発展した移民受け入れの拒絶とウルトラ治安諸政策もまた、FNと共和党(LR)双方によって資本に組み込まれた。世論調査が示すことは、選挙をめぐる現在の混乱の中でもルペン支持は安定性を維持し、FNもまた巻き込まれている金銭問題に対してすらさして影響されずにいる。
社会党(PS)の左に向かう動きの見通しは、政治的危機の規模に見合ってはいない。

社会党の動向とメランション


ジャンリュク・メランションは、彼が自ら穴を開けて沈めた左翼戦線の彼の連携相手に、彼の立候補を押しつけることに成功した。その結果、「不屈のフランス(FI)」に基づく彼の自薦立候補を誰一人統制できなかった。そしてこのFIの地方代表者やキャンペーンテーマは、メランション自身の専権的な統制下にある。
ほんの二、三カ月前サルコジとオランドに対するオルタナティブであると主張された、この独裁的なキャンペーンは、その後の浮沈によって不安定化されてしまった。それは、一〇%前後に張り付いたまま、選挙キャンペーンの五番手の自転車として現れているにすぎない。その点から、ミッテランから引き継いだポーズをとった彼のキャンペーンの純粋に個人的な側面には、破局的なブーメラン効果がある。
彼は、政治的諸勢力と社会的動員の諸戦線の組織された凝集に彼のキャンペーンを基礎づけることをはっきりと拒絶した。彼の綱領は、近年の社会的諸決起の中に存在するようになった全一連の諸問題を取り上げているとはいえ、それらを型に入れ込み、その集会が国歌斉唱で閉じるやり方のような、フランス共和主義とショービニズムの路線に沿って再形成している。左翼党と並んで彼を支持している諸勢力は、エキストラや観客の役割に切り縮められ、キャンペーンのスポークスパーソンはメランションから個人的に指名されている。
フランス共産党(PCF)は現在まで、現職一〇人を含むPCFの候補者(国民議会の)一五人に、FIが対立候補を確実に出さないようにするための戦闘を継続している。この約束への署名をメランションは拒絶したが、それは、メランションの立候補登録書類へのPCF被選出公職者八五〇人による署名をPCFが阻止することに導き、彼の立候補の確定を最後まで遅らせている(注)。
選挙に関する取引というこの挿話は、PSと欧州エコロジー緑(EELV)間、あるいはLRとUDI(中道派の民主主義・独立連合)間の挿話に似ている。何よりもこれが、メランションキャンペーンに勢いが欠け、しかし左翼の最高の救済者という軸の回りで勝手に回転していることを説明している。こうして、このキャンペーンが、ある程度の重みをもつPSの左に向けた一票を表現する目的で彼を支援している、多くの社会運動と労働組合運動の活動家を結集することは確実だ。

フィヨン事件と政治不信の拡大


しかしこれは、数多く重なった諸戦線上で自由主義諸政策と反動的な諸政策に反対して戦闘中の人々に対して、基本的な問題を回答のないまま残している。この国における一九九五年以後では最強の社会運動の一年後に、実体ある政治的分極化はただ右に向かうものだけなのだ。
抗議活動に結集した何万人という人々が、ノートルダム・デランデ空港計画を麻痺させることができ、移民歓迎のためにこの国で何万人という活動家が決起し、いくつかは他のものよりも重要な、数知れない労働者のストライキが、賃金と雇用の問題に関しこの国の様々な地域を毎月目立たせている。
オアズ県での昨年夏のアダマ・トラオレの殺害や、今年二月のオルネーの森におけるまだ若いテオのレイプのような、警察の暴力と国家レイシズムに対決する重要な諸決起がこれまでに起き、またこれから起きるだろう。警察の免責という空気から助けを受けたこの暴力は、「遺憾なできごと」ではなく、国家諸機関と政府の諸政策によって構造化されているレイシズムを白日の下に引き出している。これに対抗するために、政治的な反レイシズムが今構築されつつある。
これらすべての社会的決起は、民衆層の抵抗をはっきり示し、それらすべては、資本主義的搾取と差別に立ち向かう、社会的公正に関する世界的構想に対する必要を指し示している。フィヨン事件はあらためて、自らを富ませ、あらゆる種類の陰のある取引に関わり、労働者階級に労働者の基本的諸権利に対する疑問視を迫る、そうした政治家の諸行為を暴き出した。それらはまさに、労働者の過剰人員化計画と生産性向上を実行しつつ、たんまりのボーナスを取り込んでいる資本主義大企業役員の鏡像にすぎない。エールフランスとグッドイヤーにおける労働者の闘争は、こうした社会的要求の反響だった。
フィヨン事件は、民衆的統制、そして諸制度の機能を問題にすることを求める民主的諸要求を全面に引き出している。ニュイ・ドゥブ運動は、これらの民主的諸要求を代表した。われわれは、週刊紙「カナール・アンシュネー」のフィヨンに関わる諸々の暴露が生み出した衝撃波を、民衆層の不満と政治的諸制度に対する深い拒絶感に関連づけることをしないならば、その衝撃波を理解できないと思われる。そしてその民衆層内部で、棄権は着実に高まり続けているのだ。

NPAが500人の署名を獲得

 こうした決起のあらゆる要素、こうした社会的かつ民主的な要求は、この政治情勢を背景にして断片的な形でだが現に存在している。しかしそれらは現在まで、多くの影響力を及ぼすにはいたらず、中道右派のマクロン、強硬右翼のフィヨン、さらに極右のルペンによって分極化された大統領選キャンペーンの中に、一つのコンパスを提供することにはなっていない。
反資本主義新党(NPA)の活動家たちは、この大統領選に立候補するためにフィリップ・プトーが必要とした五〇〇人の署名獲得に成功した。このキャンペーンにおけるNPAの目的はまさしく、搾取され抑圧された者たちの新たな代表の必要性を押し出すこと、あらゆる抑圧を取り除く社会に向けた構想の運び手となることだ。この要求、この構想は、社会運動の多くの活動家が抱く諸々の期待を反映できる。今後の数週間は、何が起きるとしても、この必要性をさらに切迫したものにするだろう。

▼筆者は、一労組ナショナルセンターであるソリデール、およびNPAの活動家、第四インターナショナル執行ビューローメンバーでもある。二〇〇九年には、NPA創出をめぐる諸問題について日本で講演した。

注)候補者各自は、被選出公職者の最低五〇〇人から署名を獲得する必要がある。それらは必ずしも、候補者に対する政治的支持を表すものではない。つまり何人かは、その背後に政党の機構をもたない候補者が立候補できるよう、民主的な理由から署名する。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年三月号) 

フランス

プトーに投票を

怒りを体現する政治勢力を

対決への準備を

レオン・クレミュー

 フィリップ・プトーと反資本主義新党(NPA)の活動家たちは、直接にあるいはソーシャルメディア上で、共感と支持のメッセージを受け続けている。フィリップが二〇一七年四月四日の「大討論」(テレビ放映されたフランス大統領選候補者間論争、ここでプトーは、国民戦線〈FN〉指導者のルペン、および主流右翼候補者のフランソワ・フィヨンを、腐敗に関し激しく攻撃した)のパネラーとして語りやったことの故だ。
 多くのジャーナリストもまた、この意義のある「叱責」を、また彼のおかげでこの論争を貫いて流れた生き生きとした空気の新風を、歓呼して迎えた。他方、政治とメディアの世界並びに言葉遣いと装い両者を含んだその慣例の従者たちは、彼がそれに値すると彼らが考える冒涜という罪で彼を強く非難した(注)。

プトーが民衆の
怒りを代弁した
われわれは、これらの表に現れている諸々の反応を喜ぶだけだ。フィリップは民衆諸階級が政界について考えていることを単純に大声で率直に言葉にしただけだ。つまり、生き続けるためにその賃金と貧弱な諸給付しかないこの圧倒的多数が、資本家か金利生活者か職業政治家か、そのどれであれわれわれの背に乗って暮らしている一握りの少数に反対しているとして。
言葉はひとりの労働者、賃金取得者のそれらであり、フィヨン、マクロン、ルペンをつけあがらせないために断固として、相互に敬意を払うことで一致していた者たちを一蹴した。後者は、FNの急所に直接打撃を加えられた。ひとりの大ブルジョアジー、百万長者であるジャンマリー・ルペンの娘、システムに反対しているいわゆる民衆の、労働者の候補者は、政治システムから、また公的マネーから利益を得ているひとりのブルジョア政治家として、面目を潰された。
フィリップは、民衆的憤激を代弁した、少なくともこのゆえに彼の中に自身を認めた何百万人という民衆を代弁したスポークスパーソンだ。しかし彼はこのキャンペーンの中で、単なる怒りや憤激のスポークスパーソンになるつもりはない。なぜならば、近年はあまりにしばしば、支配階級とそれが支配するメディアが、ある考え方を生き長らえさせてきたからだ。その考えとは、確かに大きな憤激はある、そしてそれはしばしば政治に対する拒絶と「ポピュリスト」への投票へと導いた、しかし、欧州で追求されている緊縮諸政策に代わるものはまったくない、われわれにできることはそれをやわらげ、少しの間延期することだけだ、というものだ。

「自分自身を
あてにせよ」
無力感を引き出すこの主張に反対して、フィリップ・プトーは社会的諸闘争を、行動のやり方を示しているあらゆる大規模な社会運動を、そして民衆的決起を反映させている。フィリップは、他の候補者たちが「私は」あるいは「私を大統領へ」と語っているところで、集団的強さについて、ただ一つものごとを変え得る民衆的決起について語っている。人工中絶に対する反動的諸攻撃を阻止しているスペインとポーランドの女性によって、腐敗に反対したルーマニアと韓国の決起によって、あるいは移民の入国を求めてバルセロナの街頭を埋めた数十万人の民衆によって、示されたものとしてだ。
フィリップ・プトーは「私を当てにしろ」とは言わず、むしろ、ものごとを処理するために、われわれの諸権利、職、開かれた国境を求めて、さらに警察の暴力と無益な諸計画に反対して闘うために、「自分自身を当てにせよ」と語る。

社会的不公正と
の闘いを強めよ
フィリップとNPAは外面だけの大掃除のために闘っているのではない。メッセージははっきりしている。つまりわれわれは、社会的不公正と腐敗、経営者の独裁、レイシスト的かつ反動的変転、差別、少数派による富の確保を終わりにする一掃を必要としている、ということだ。
この一掃は、資本主義のシステム自体に対する、生産手段の私的所有に対する一つの攻撃を必要としている。そしてそれなしには、改革をめざすどのような挑戦も、真の権力、諸々の資本家と銀行の権力にぶつかることになるだろう。
今回のキャンペーンの中で(そして彼がそうすることを認められる際はメディア上でも!)フィリップが守っている綱領は、システムに対決している諸社会運動すべての要求、職場や民衆居住区で闘っている女性と男性の要求を取り上げている。しかし彼は同時に、上述のあらゆる社会的諸闘争を出発点に、あからさまに言葉にするだけではなく、われわれが必要としている一掃を強いるに十分な強さをももつ、そうした堅固かつ統一した政治的勢力を建設する必要も守っている。
四月二三日の日曜日、プトーへの投票はこの意味を、これらの民衆的要求とこの綱領への同意という意思表示の意味をもつことになるだろう。しかしそれだけではなく、団結すればわれわれはものごとを動くようにさせることができ、システムに対決できると断言する意味、われわれ自身を動員することに集団的に取りかかる、という意味をももつだろう。(四月一五日)

注)プトーは他の男性候補者とは異なり、背広とネクタイの装いはとらず、きれいにひげを剃ることもしなかった。そして彼は他の候補者に、「マダム」あるいは「ムッシュ」をつけずに彼ら彼女らの姓で話しかけた。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年四月号)



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