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    かけはし2017.年3月13日号

「不敬罪」による弾圧を直ちに中止せよ


タイ

ハイリスクを伴う王位継承

軍事支配と表裏一体の王制

都市中産階級(黄色いシャツ)の公然たる反民主主義

ピエール・ルッセ

  タイではプミポン国王が民衆の信頼をかち取ってきたと言われてきたが、その実態は軍事支配を支える一翼でもあった。二月末から三月にかけた天皇明仁のタイ訪問は弔問という形でこの実態を覆い隠すのに加担している。軍部・王制が一体となった「不敬罪」弾圧を直ちに中止させよう。(「かけはし」編集部)

 王は死んだ、王様万歳?
 タイの王室は、実際に持っているよりも多くの権威を、正統性を持って保持している。この機能は皇太子の即位に伴って危機に瀕する可能性がある。プミポン・アドゥンドゥラヤデート国王の死が公式に発表されたのは二〇一六年一〇月一三日だった。彼は長期にわたって病床に伏し、発言することや、おそらくそれ以外のこともできなかった。この事態は、政治を支配する軍部がその政治的決定を「聖化」する、王による公的署名を停止させるものではなかった。
 ラマ九世という王名で知られたプミポンは八八歳だった。彼は七〇年にわたって統治し、比類のない人気と尊敬を受けていたと言われる。しかし王としての統治の歴史は、決して完全に幸福であったわけではない。一九三二年以来、タイ王制はもはや絶対主義的なものではなく、立憲王政となっていた。ごくわずかな期間を除けば実権を持っていたのは陸軍だった。
 プミポンが彼の兄を継承して王となったのは一九四六年だった。彼の兄は、決して明らかにされない状況で頭に銃弾を受けたのである(調査委員会の結論は、兄の死は事故ではないが、他殺なのか自殺なのか結論づけることはできない、というものだった)。しかし即位したのは一九五〇年になってからであり、その間、王国は摂政が統治していた。この情勢は当時、彼の統治の開始にあたって好都合だった。
 第二次世界大戦の期間、当初、タイ政府当局は占領日本軍を同盟者であるとしていた。日本の降伏後、タイ軍部はその政権に新しい正統性を付与することを望んだ――そして最終的に一九三二年の反王制クーデターの左派と決裂したのである。左派の頭目はプリーディ・パノムヨンであり、社会主義思想と非マルクス主義的な欧州リベラル的概念に影響を受けた知識人だった。一九三五年以後、新国防相のピブン将軍(後に陸軍元帥となったピブン・ソンクラム)は独裁体制を樹立し、戒厳令を敷いた。しかし亡命したプリーディは、セニ・プラモイとともに二つの反日レジスタンス運動の一つである自由タイ運動(セリ・タイ)を代表した(もう一つの反日勢力は共産党が構成した)。一九四五年、セニ・プラモイは連合国と交渉するために首相となった。翌年、プリーディは新憲法を提案した。一九四七年、ピブンはクーデターを主導した。一九五〇年、タイは米軍部隊とともに朝鮮半島に軍を派遣した。こうして王国は、「米国陣営」についたのである。

王制の再建と
軍部レジーム
タイの共産主義運動は依然としてきわめて弱体だったが、根拠地を持っていた。中国革命は勝利し、ベトナムではベトミンが成長していた。米国は東南アジアで巨大な後見的役割を果たす国家となっていた。こうした状況において軍部は反共主義の名分で王制と同盟関係を樹立する用意を整えたのである。
一九三〇年代、四〇年代には不人気であり、一九三二年にはその聖なる地位を公式にはぎとられたチャクリー王朝(訳注:一七九二年以後、現在まで続いているタイの王朝)は、それにもかかわらず歴史的に植民地として征服されたことはなかった。タイは、ドイツに支援されてイギリスとフランスの領有争いの緩衝地帯となり、直接には植民地化されなかった。したがって、王制の輝きとその聖なる地位を維持することが可能だった。
「宮廷の儀式と言葉づかいが再発明され、『デバ・ライ』(ヒンズーの伝統における神なる王)と仏教的モラルの諸原則にしたがって統治する寛大な王制のイコン(聖像)が作られ、再導入された。しかし王が二〇世紀の男のふるまいを維持するためには、現代化が必要とされた。彼はカメラを首にかけて歩き、宮廷の晩さん会でトランペットを吹いた……。彼は前の王よりも神として崇められたが、彼が国内を旅する時に絶える間もなく会う民衆に対して、より身近に接した」(「ルモンド」2016年10月13日、ブルーノ・フィリップの論評)。
王制のこうした再建は、相次ぐ反乱に続く軍部レジームによって体系的に継続されることになった。サリット・タナラット将軍(後に元帥)は宮廷と陸軍最高司令部をつなぐ熟達者の一人だった。一部の歴史家は次のように述べている。プミポンは「実際には、かつて彼が『外国から輸入された原則』と位置づけた民主主義的なシステムを、彼の王制に適用できるよう説き伏せることなどなかった。啓蒙主義的で情け深い王制は、タイの政治ゲームの現代的形態である永続的クーデターを正当化することが可能な主権と共存できるものだった」(ブルーノ・フィリップ、「ルモンド」2016年10月13日)。

王室の権威と
プミポン国王
一九七三年と一九九二年、支配体制を確保するための例外的措置として、王室の権威とプミポン国王による政治的介入が、憎しみの対象だった独裁者を辞任させるという形で軍部の一時的後退を強制することとなり、抜け出しがたい危機の解決を助けるものとなった。歴史は、その「正常な」歩みを再開し、一九七三年から七六年にかけた劇的な事件(訳注:一九七三年の「学生革命」による民主化の過程とその粉砕)に示されるように、軍部は王室の祝意を受けて権力の座に復帰する。
ラマ九世(プミポン)の下での王室の最初の大きな危機は、米国によるベトナム戦争のエスカレーションの下で発展した。タイは米国の巨大な陸軍用航空機基地となり、GI御用達の売春宿に覆われた。青年たち、とりわけ学生たちが決起し、広範な民衆的支持を受けた。一九七三年一〇月、国王が介入し軍部支配は打倒された。同時に、国王は極右の民間武装勢力の拡大を認めたが、それは国家への統制・支配を準備するものとなった。それは一九七六年一〇月六日の流血のクーデターとして実現された。軍部は王室の祝福を受けて、権力の座に復帰した。
再び王室の権威は急落した。この権威を再建するためには、「文化的伝統」では不十分だった。したがって本物の個人崇拝が、米国とその宣伝機関の助けで押しつけられた。王の肖像が至るところに掲げられ、それを尊敬することが義務となり、厳しい刑事罰が適用された(現在、最低限の犯罪でも一五年の懲役を科すことができる)。
不敬罪はあらゆる類の批判を抑圧し、体制に対するあらゆる批判を禁止する恐るべき武器である。それは冒涜の罪だとか、他の諸国において国家安全保障を危険にさらす行為だとして告発されるのだ。プミポン・アドゥンドゥラヤデートは彼の役割を完全に果たした。彼は権力の保持者に対して競い合っている者が誰であろうとも、自らを神として崇めることを認めた。距離を置いた、厳粛な見かけの下で、「専制的父権主義」と特徴づけられた国民に愛されるというポーズの下に、彼は「保護者」の化身となった。王室による莫大な土地の所有――都市と農村の双方で――によって、民衆保護のネットワークを配置することが可能になった。
プミポンの下でタイの王室は、三五〇億ドル(三一七億ユーロ)の資産を持つ地球で一番の富豪となった。しかしその力の実効性はどうなのか。この疑問は、論争の対象となっている。イギリスのエリザベス女王も大土地所有者であるが、彼女はそれを完全に管理できているわけではない。原則的にはそれはタイでもあてはまる。現実はどうなっているのか

アジア革命の終焉
とタイ共産党
分析家たちによれば、タイは一九九〇年代に歴史の一章を閉じた。アジア革命の波の終わり、タイ共産党の敗北、タイの社会・経済的現代化、そして新しいブルジョアジーの登場は、軍部レジームを時代遅れにさせた。「周辺地域」の比重は北東部と北部における農業経済の上昇によって強化された。クーデターは、時代に取り残された、アナクロで後衛的な戦闘だと考えられた。軍は兵営に戻り、再登場することはないとされた。
そこで民主化が時代の秩序だとされた。一九九二年には、この国では比較的に進歩的な憲法が採択された――しかし二〇〇六年の騒動の後、それは軍の指示で書かれた別のものに置き換わった。相次いだ選挙では、民衆の大多数が構造的変革を望んでいることが確認された。それは、数十年にわたってこの国の政治的・経済的生活を支配してきた寡頭支配層への厳しい一撃をあらわしていた。彼ら寡頭支配層は立法と行政への直接支配を失った。一九九五年に創設された「民衆集会」のような大きな社会運動が、この時期に創設された。こうした多数の運動が、コミュニティーから住民の死活的資源へのアクセスを奪い取る略奪的な開発様式に抵抗した。
不幸なことに、王室も、伝統的寡頭支配層も、軍部も、あらゆる民主主義的プロセスを望んではいなかった。シナワトラ一族(タクシンと彼の妹のインラック)が、この「新しいブルジョアジー」を代表して民主的選挙で勝利するたびごとに、多かれ少なかれ合法的なクーデターによって転覆させられた。「赤シャツ」(タクシンと彼のビジネス上の、あるいは民衆的支持層)と「黄シャツ」(王室支持者と保守的反動層)との激突は、ブルジョア民主主義的議会レジームを設立する可能性そのものを焦点の一つとしていた。支配的権力の回答は、なんのあいまいさもなく否定的であり、憲法裁判所は、大衆的反乱(二〇〇六年と二〇一四年)、二〇一〇年のバンコクでの虐殺、赤シャツ部隊への系統的弾圧に見られるように伝統的秩序の側についた。
タクシンは共和派ではなく王制支持者であることがますます明白になっている、ということが教訓である。彼は民主派でもなかった。彼は「麻薬をめぐる戦争」で、超法規的殺人に関与し、南部のムスリム運動を弾圧しつつ、軍との間でもうけの多い契約を結んだ。しかし彼は、貧しい人びとに有利な真の社会的プログラム(たとえば保険の分野で)を実施した。それは伝統的な寡頭支配の権力ネットワークと昔からの軍部エリートを迂回し、自らを「民衆の保護者」として登場させることで、王室の影を薄くさせるものだった。

「赤シャツ」と
「黄シャツ」
一九九七〜九八年のアジア金融危機は、軍の権力への復帰の前提条件を作り出した。タイは全面的にその影響を受けた。エリートたちと「都市中産階級」は、公然たる反民主主義的姿勢をあらわにさせ、無責任な貧民の投票権を拒否した。仏教徒組織は政治化し、尼僧たちやブッダ・イサラ(訳注:反政府運動の先頭に立っている仏僧)が二〇一四年の赤シャツに反対する運動の先頭に立った。この年五月のクーデターは、永続的基盤の上で軍が権力に復帰することを許容し、王位継承を準備するものとなった。
タイ王制のあり方は国家的異変事態というわけではない。世界の新自由主義的秩序は、民主主義に向けた勝利の行進をもたらすのではなく、ますます権威主義的となる体制、右翼ポピュリズム、新しい極右の展開に有利なものである。タイでは、イデオロギー的レベルにおいて体制の柱となっているのは、王制(正統化原理)、軍部(栄光)、そして仏教僧侶のサンガである(サンガは国家宗教の表現であり、体制ときわめて密接な連携をとっている)。もしプミポン国王の深刻な健康状態が、これほど長く隠されてきたのだとしたら、それは王位継承の、問題ぶくみの性格のためである。

王位継承と
皇太子問題
皇太子にマハ・ワチラロンコンがいる(六四歳 訳注:彼は一二月一日に新国王として即位した)。
タイよりもミュンヘンで暮らしていたほうが長い彼はプレイボーイで「パーティー・アニマル」という評判の持ち主だ。彼の奔放な振る舞いのビデオが出回っており、タイトなクロップ・トップ(短いシャツ)を着てスリムなジーンズをはき、肌にテンポラリー・タトゥーを施した姿で飛行機を降りる写真も広がっている。戦闘機のパイロットである彼は、彼のプードルであるフーフーの死後四日間の服喪を宣言し、フーフーを陸軍元帥に任命した。この型にはまらない、尋常ではない行動は、彼の人柄がそれほどお騒がせではなかったならば面白かっただろう。執念深い性格の彼は父親に近い人びとを傷つけ、しつこく追い回している。
前の妻と彼女の子どもたちを追い出した彼は、「暴君」という性格を持っている。最高レベルの犯罪とは? 彼がタクシンとつながりを持っていることだ。
プミポンによって正当にも皇太子に任命されたワチラロンコンは、彼の父が亡くなった日に王位につくべきであった。実際には首相のプラユット・チャンオチャは即位が延期されると発表した。悪いうわさが広がっていることがその理由だ。当面のところ王室の運営は、九六歳になるプレム・チンスラーノンが引き受けることになった。プレムは元陸軍司令官(一九七八年)、首相(一九八〇年〜八八年)、国王枢密院代表(一九九八年)だった。彼は影響力のある保守派の人物として幾度かのクーデターを組織した。タクシンは不倶戴天の敵である。
今や王位継承はとりわけデリケートなものになっている。学者のパビン・チャチャバルポンプンによれば「とりわけ『赤シャツ』(タクシン派)の間で共和制の運動が存在する」からである。多くのタイ人は依然として国王を愛し、尊敬している。ほとんどのタイ人は王制に賛成だが、宮廷による政治的介入に対しては、国民の一部はきわめて悪いものとして受け止めている。われわれはタイにとって決定的な時期を迎えている。その主要な原因は王位継承だが、金持ちと貧者、都市と農村の分岐もまた重要な役割を果たしている。

タイ支配体制
と「不敬罪」
当面のところ、軍部体制は国に鎖をかけている。一年間の服喪が宣告された。違反への制裁を受けるという状況の中で、すべてのネットワークは、購読者を積極的に監視し、王制や軍事評議会を攻撃する言葉を非難しなければならない。法相は「ビジランテ(自警団)」の形成を呼びかけた。それは異論派に脅しをかける道徳的秩序の守護者である。「不敬罪」で告発された人びと(あるいは黒服を着ない人びと)は、攻撃を受け、亡き国王の肖像に頭を下げるよう強制される。ヒステリアの気分が人為的に作りだされた。
ヒステリアには国境がない。二〇一六年一〇月六日、ウルトラ王制派のリエントン・ナンナはフェースブックを使ってパリに住むタイ人を非難し、一部の人びとの名前と住所を明らかにし、王制の支持者に攻撃を呼びかけた。不敬罪はフランスには存在しないにも関わらず、である。こうした言葉は、明らかにきわめて深刻な結果を招き得る。
もしタイの住民が国王の宮廷を本当に崇拝しているのだとしたら、軍部体制は秩序を確保するためにそんな手段を取る必要などない。プミポンからの王位継承は、将来においていまなお不確かなのである。(「インターナショナルビューポイント」二〇一六年一〇月号)




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