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    かけはし2017.年1月16日号

複雑にからみ合う歴史と現実


ベトナムの風景・文化・政治――歴史といま(下)

ベトナム―カンボジア関係を捉えかえす

中越戦争とは何だったか


――一九七八年暮れにベトナムがポル・ポト派打倒のためにカンボジアに進攻しましたが、それに対して中国・ケ小平は懲罰と称してベトナムへ軍事侵攻した。ベトナム人は万単位で死者が出ているだろう。ベトナム人はどう思っているのだろうか。

 今回バイクで北部の中国との国境沿いを回りました。カオバンでタバコを栽培している農家の方に中越戦争時の様子を聞いたところ、近くの岩山に登って一カ月間も隠れていたとのこと。食べ物がなくて苦労したそうです。国境問題もあるので中国軍の撤退後も砲撃は数年間続いたとも聞きました。
それでも今は中国との国境貿易は盛んで、特にラオカイやモンカイは活況を呈し、中国人観光客の姿も多く、私も中国語で話しかけられました。

――今は中国との経済的つながりが深いと聞いているが。

 やはり北部はつながりが深いようです。中国企業では中国人労働者の雇用が多いので問題にされたりもしています。ここ数年、ラオスやカンボジアに対して中国の影響力は急激に高まっている印象を受けます。以前はカンボジアでの道路工事の機械は日本の中古やヨーロッパ製でしたが、最近は中国製ばかり目に付きます。カンボジアからラオスへ旅行した時にはメコン川に架ける橋が工事中でした。中国の援助だと漢字で書いてあるので知ることができます。中国の今回のフィリピンへの援助も巨額です。明の永楽帝の時代、鄭和の遠征やベトナム支配を試みた時代を彷彿させるものがあります。
中越関係については、インド人のジャーナリスト、ナヤン・チャンダが書いた『ブラザーエネミー』(めこん社)という本が理解の参考になりました。ベトナム・カンボジア戦争の内実とその背景について詳細に調べて書いた本です。当時のアメリカ、ソ連、中国との外交関係についても整理されています。
その同時代には日本に伝わる情報は少なかったし、また自分自身の意識も向いていませんでした。今から振り返るとベトナムのカンボジア侵攻と中越戦争が日本の左翼運動に与えた衝撃と亀裂は深く、勝利したベトナム革命に対して世界は一斉に背を向けることとなりました。

ポル・ポトの下のカンボジア


――ポル・ポト派はプノンペン解放をすると貨幣をなくしたり、知識人を虐殺したりし、都市を放棄し、農村で強制的な集団化を行った。なぜそんなことをしたのか。

 『ブラザーエネミー』を読むと貨幣をなくしたのは内戦時の「解放区」に部分的に始めていたようです。七〇年、ロン・ノルのクーデターの後、ポル・ポト派とベトナム軍およびベトナム派勢力の統一戦線が形成され内戦が展開されたわけですが、その当時からポル・ポト派によるベトナム軍への攻撃があったそうです。
村民がベトナム軍に食糧を売ることを禁止するために、貨幣そのものを廃止して物々交換経済にしたのが始まりなのだとか。ポル・ポト派のベトナムへの敵対心は強烈で、それは七五年直後からの国境を越えてのベトナム村落への虐殺行為を見ただけでも信じられないほどのものです。
一九五四年のジュネーブ協定はベトナム・カンボジアの解放勢力に不利な条件を中国の圧力によって飲まされたものです。カンボジア内の解放勢力はその存在を承認されず、ベトナムの影響下にある勢力はベトナム北部に引き上げてしまいました。ポル・ポトは後にこれを「ベトナムの裏切り」と非難しました。カンボジアを犠牲にしてフランスと取引したわけですから。
当時の中国がソ連を「覇権主義」として主要な敵と位置付けたように、ポル・ポト派はベトナムを第一の敵と位置付け「ベトナム民族の絶滅」を訴えるまでエスカレートさせていたわけです。

民族的反感の根っこ

――フランス統治時代に、フランスはベトナム人をカンボジア人を支配する手先として使った。それが反ベトナム感情を作り出していると言われているが。

 反ベトナム感情は、一七世紀以降の広南阮氏や阮朝によるカンボジアへの浸食や支配の歴史に遡るものだと思います。フランスはカンボジアに対する宗主権を継承して保護国化し、下級官吏にベトナム人を登用しました。メコンデルタはカンボジアでは「カンプチア・クロム」(低地カンボジア)と呼ばれ、ベトナムに奪われたカンボジアの土地であるとの認識は想像以上に強いものです。野党は、この反ベトナム感情に依拠してフン・セン政権を攻撃します。ベトナム・カンボジア国境問題はいまだにナイーブな問題であり続けており、またベトナム人の店が暴徒に襲撃される事件も起きています。
シアヌーク国王の死去から四年になりました。当時、外資系縫製工場で争議が頻発していました。米・EUへの輸出向けに中国資本の縫製工場も増え、中国人管理職と労働者間の軋轢も新聞に掲載されていました。民族的・文化的な差異への理解と配慮を欠如させれば、どのような国・民族であろうと摩擦を引き起こします。民族的な反感は過去の歴史の中だけでなく日々生み出されていくものでもあり、ベトナムやカンボジアで暮らしているとナショナリズムについては日々肌で感じる問題です。

ペン・ソバンの
波乱のあゆみ
一九七八年一二月、ポル・ポトによる粛清が激化してカンボジア国内の反ポル・ポト勢力が壊滅状態となり、ベトナムに逃れたヘン・サムリンらを組織してベトナムはカンボジアに進攻しました。当時は報道された事実に衝撃を受けました。そこに至った経過や背景について一般的にはまったく知らされていなかったからです。「ベトナムに支援されたヘン・サムリン軍」という表現だったかと思いますが、残念ながら私自身は新聞を丹念に読むこともありませんでした。
その時に「カンボジア人民革命党」も再建され、書記長になったのがぺン・ソバンです。一九五四年ジュネーブ協定後にハノイに戻った一〇〇〇人のカンボジア人武装勢力の一人です。ジュネーブ協定で南北に分断されたベトナムでは北部のクリスチャンが大量に南部に移住しましたが、南部から北部に移った人々も少なくはなく、協定で「解放区」が認められなかったカンボジアの勢力も北部ベトナムで維持されることになりました。それから一六年後、一九七〇年のロン・ノルのクーデターによってカンボジア情勢は直接ベトナム戦争に結びつけられることとなります。
ぺン・ソバンらはカンボジアに戻り、ポル・ポト派と共に米軍やロン・ノル政府軍との戦闘に参加することになりました。その内戦の最中の一九七四年、ぺン・ソバンはポル・ポト派と対立し、ハノイに戻ります。そして一九七八年の情勢の中で再び国境を越えることとなりました。しかし、人民革命党書記長、人民共和国初代首相となったもののベトナム人最高顧問レ・ドゥク・トと対立し、一九八一年一二月には戦車一二台と七〇〇人の部隊に自宅を包囲・逮捕され、ハノイに移送されて刑務所生活を送ることになりました。ベトナムの外交政策が変更された八八年にようやく出獄、以後軟禁生活となり、カンボジア和平パリ協定締結の一九九二年にようやくカンボジア帰国が許されました。このぺン・ソバンが歩んだ人生そのものが、ベトナム・カンボジア問題の複雑さを体現しているようにも感じられます。

中国・カンボジ
ア関係の現在
フン・セン首相は、いまや明確に南シナ海問題で「中国」の立場を支持しています。一九九七年に当時国会第一政党だったフンシンペック党軍隊との衝突が西側諸国によって問題視され、孤立したフン・センに手を差し伸べたのが中国でした。経済援助に加え、「親」ベトナム政権との野党の攻撃材料もかわすことができます。私は二〇一三年国会議員選挙の時にプノンペンにいましたが、その前年に合同結成された野党「救国党」が躍進し四五%の議席を占めました。救国党はサムレンシー党と人権党が合同したもので、その前回選挙では二六議席と三議席しかありませんでした。計二九議席から五五議席に急増したことになります。その新議席の一つが旧人権党副党首のぺン・ソバンでした。この選挙結果に野党は選挙不正を訴え、フン・セン首相は野党がボイコットした国会で再任されましたが、地方での行政組織を動員しての与党選挙活動が公平性を欠くものであることは明らかでした。
この野党の躍進を支えたものの一つが縫製労働者の運動の高揚でした。特に縫製労働者の女性労働者たちの家庭は農村にあり、村々をトラックが巡回して工場への往復が行われています。個々の工場における劣悪な労働条件に対する闘いと共に最低賃金の引き上げを要求し、野党はこの要求を支持しました。その結果最低賃金は八〇ドルから翌年一〇〇ドルに、二〇一六年一四〇ドルへと引き上げられました。地域によって最低賃金が異なるベトナムではこれを下回る場合もあります。

「民族のるつぼ」


――中国がポル・ポト派を支援していたので、カンボジア人は中国を良く思っていないのでは?

 インドシナ半島は民族の坩堝と言われていますが、カンボジアの華僑の歴史も古いようです。元朝末期に周達観が訪れた「真臘風土記」には、既に中国人がカンボジアに渡りカンボジア人の妻を得て商売をしている様子が語られています。その後の明・清の時代には更に急増したわけです。米が年二回、三回採れるというのは周達観ならずとも魅力的だったでしょうし、中国王朝との朝貢貿易の際には漢字で外交文書を書く必要もありました。
ポル・ポトの家系も中国系のクメール人だし、ロン・ノルやフン・センも父親か祖父は中国系のクメール人です。フン・センは妻も海南島出身です。旧正月にはシャッターを閉める商店が圧倒的です。周達観は王宮の女性たちの肌の色が白いことを書き残しましたが、現代のプノンペンの大学生たちも農村の若者たちとは顔立ちが異なります。近世に鎖国を続けた島国日本とインドシナの国々では「民族」の概念にズレがあるからなのでしょうけど、特にベトナムの社会で暮らしてからカンボジアに行くと自分の先入観が歪んだものであったことを思い知らされました。
ポル・ポト時代には高原部の少数民族も平野部に追い遣られ、慣れない稲作を強制されたと聞きました。「われわれが食べるためではなく武器と引き換えに中国に輸出するためだった」と憤慨しつつ話してくれました。その記憶が薄れることはないようです。しかし、国境を接している国とそうでない国とでは緊張感に違いがあります。
二〇一六年一〇月末、ぺン・ソバンが八〇歳で死去したとのニュースがありました。一九五〇年、フランス植民地支配下でクメール・イサラク(独立クメール)運動に一四歳で身を投じてから波乱の人生に幕が下りたことになります。数年前のインタビューでは、「人々は本当の実際の権利を必要としている。それが実現するのを見るのが私の唯一の希望だ」と語っていました。

同時代的現実の中で


――最後に、ベトナムについて思うことは。

 ホーチミン市の中心に位置するベンタイン市場は、フランス植民地下の一九一四年に「濱と城」の近くにあった市場が移設されたものなのでその名を留めています。市場の南側にレロイ通りとロータリーがあり、東西はファンボイチャウ(潘佩珠)とファンチューチン(潘周驕j、二〇世紀初頭の反植民地独立運動の英雄の名が付けられています。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に描かれた時代の日本に「東遊運動」を組織し、二人とも訪日した人物ですが、近代日本国家は日仏協約の締結で彼らを追放する道を選択したわけです。
一九二〇年代には植民地下での近代教育制度によって学生らの運動が高揚し、その象徴となるのがグエン・アン・ニン(Nguyen An Ninh)です。この名が市場西門に至る道に付けられ、そして東門に至る道には一九七五年以前はトロツキスト、タ・トゥ・タウ(Ta Thu Thau)の名が付けられていました。一九三〇年代のサイゴンにおける「民族の英雄」として刻まれた名です。ベトナム革命史が一九世紀後半の「勤王攘夷」から「国際共産主義運動」に連なる連続した闘いとしてあったことの反映なのでしょう。
タ・トゥ・タウの名は一九七五年以降消され、ベトナム銀行の創設者の一人である技師ルーヴァンランに変更されました。街の通りの名に歴史上の人名が多く使われているのはフランス文化の影響でもあるわけですが、ベトナムの歴史を知る切っ掛けになります。
一昨年五月のスプラトリー(南沙)諸島をめぐる緊張時には、千年にも及ぶ中越領土問題の深刻さをベトナムの人々は再び突き付けられ、ハイバチュン(徴氏姉妹)の名が再びよみがえることになりました。そして、西南国境に接するカンボジアのナショナリズムはフンセン政権をして南沙諸島問題において中国の立場を支持する状況にあります。
民族主義的な契機が今日にいたるベトナムの歴史の原動力であったと同時にカンボジアとの関係が示すようにそれが東南アジアで普遍的な価値を持つ「民族性」ではなかったということです。一九三〇年代のコーシチナにおけるグエン・アン・ニンやタ・トゥ・タウの苦闘の中にはそれを超克するような契機があったのでしょうか。
外資導入による経済発展によって「最貧国」を脱したベトナム経済は、そのぶん資本主義世界経済に深く組み込まれました。ホーチミン市のオフィスビルで働く人々が使うアップルの携帯端末価格は、メコンデルタ産のコメ輸出価格の二トンに相当します。
タイの軍事クーデターをもたらした都市と農村との対立構造、日本で拡大する非正規労働や社会的格差とも共通する課題があります。問題は同時代的、世界的な普遍性を持つものでありながら解決に向けた世界的な視点を持ちえないのが現状なのではないかと思います。そのような意味でも自分自身とベトナムとの距離や日本とベトナムを往復して感じる落差が少なくなっています。(おわり)


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