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    かけはし2017.年1月1日号

民主主義が新自由主義に反撃


イタリア

国民投票でのノー勝利を歓迎

正面対決の政治への回帰を

チンツィア・アルッツァ


連綿と続く改憲
企図を再び粉砕

 イタリアのレンツィ首相が自らの政治生命を賭けて臨んだ改憲国民投票は、民衆から圧倒的に否認され、レンツィは辞任に追い込まれた。イタリアは金融不安の高まりと一体的に政治の混乱局面に入ったが、それは同時にEUのさらなる不透明化につながっている。以下では、この国民投票結果をどう評価すべきか、またそれを生み出した基本要因、が論じられ、それに基づき、今後の左翼の任務が提起されている。(「かけはし」編集部)
マッテオ・レンツィの憲法改訂は、手法において政治的に正統性がなく、内容において反民主的だ。われわれはその拒否を祝うべきだろう。
メディアの言うことを聞けば、昨日のイタリアの国民投票結果は民主主義に反する右翼ポピュリズムのもう一つの勝利、と人は考えるだろう。しかしながら情勢は、これよりもはるかに複雑だ。そしてノーの勝利は、民主主義にとっての、また祝う価値のある社会的諸権利の防衛にとっての、勝利なのだ。
マッテオ・レンツィが提案した憲法改訂は、その手法において政治的に正統性がなく、内容において反民主的だ。現在の議会は、憲法裁判所により違憲と裁定された選挙法に基づき選出された。その上レンツィ政権は、彼が、民主党(PD)指導部が押し出した大統領候補――ロマノ・プロディ――に反対するノー投票を秘密裏に組織することにより、党の左派と元多数派を周辺化しつつ、何とかPDをハイジャックした後で生み出された。
最後にレンツィは、改憲を進める点で、解任された元首相のシルヴィオ・ベルルスコーニのスタイルを取り入れた。それは、議会の諸部分を横断する大きな一致に達するよう挑むことすらせずに、むしろ議会での討論を阻止する制度的なトリックを使うことによるものであり、それは、野党が抗議の中改憲票決に参加しないことを決めるにいたるほどのものだった。
内容について言うと、この改憲は、より強い執行権力をめざし、民主的代表性を犠牲にした憲法改訂という、長い一連の企図における最後のものだった。
イタリアの民衆は、二〇〇六年のベルルスコーニによる以前の企図を拒絶した。その時中道右派政権は、大統領制的な改憲を通そうと試みたのだった。しかしこれは、戦後期にすでに始まっていた、はるかに古くからのストーリーだ。一九四八年憲法は、反ファシストレジスタンス主要三勢力間の、つまりキリスト教民主党、イタリア共産党、そして自由主義者―社会主義者の行動党間で成立した妥協の産物だった。
しかしながら、イタリアの政治的階級の一部分は、一九四八年憲法によって支持された諸々の民主的自由も、平等主義的諸原則も決して受け入れてこなかった。この憲法に関する諸攻撃のこうした物語は、憲法変更をめざすさまざまな企図として、また中道左派諸勢力の支持を基に議会で通過させられた選挙法のますます反民主的となる改革として、二〇世紀後半の何十年間にわたり続いてきた。

多様な諸勢力の
さまざまな理由


六七%という高い投票率、そして投じられた票のおよそ六〇%をノーが獲得したのを見た今回の国民投票を説明するためには、人は、多様な要素の合流をよく見なければならない。政治的諸部分を横断した諸勢力が、異なった理由からこの改憲に反対したのだ。
左翼では、その手法がこの国で最大の労組ナショナルセンターであるCGIL(イタリア労働総同盟)から異議を突き付けられた。さらに、その元書記長を含むPD左派、イタリアパルチザン全国協会(ANPI)、また左翼諸労組、諸々の社会連合、学生諸組織、さらに諸々の占拠空間の様ざまなネットワークを含んだ急進左翼全体、そしてグスタヴォ・ザグレベルスキーのような左翼傾向の著名な憲法専門家も反対に連なった。主張は、民主的代表性の防衛や統治能力論に反対する民衆主権の防衛から、レンツィの新自由主義的政治構想への反対まで広がっていた。そして最後にあげたレンツィの構想の中では、改憲はその一部にすぎなかった。
右翼では、改憲は機会主義的に反対された。そこには、排外主義の北部同盟、右翼民族主義政党であるフラテッリド・イタリア、カサ・パウンドやフォルッツァ・ヌオヴァのようなネオファシスト、さらにベルルスコーニ――渋々とだが――が連なった。主流右翼の反対はむしろはっきりしていた。つまり、レンツィが改憲に関する投票を高度に個人化し、国民投票結果を彼の政権の運命に結び付けたがゆえに、現在分解し断片化した右翼はそれを、この政権を取り除き、彼らが再編し再度競争力をもつようになることに余地を与える可能性をはらんだ歩みを始める好機と見たのだ。
最後に、高度に矛盾した様々な立場を一体にすべてを飲み込んだポピュリズム運動である五つ星運動は、もっとも基礎的な議会規則の政府による侵犯に反対してあらゆる成り行きで抵抗しつつ、議会討論を通じてずっと改憲に抵抗した。彼らの場合の理由は、議会制民主主義支配の防衛、そしてイタリアの主要政党としてPDをしのぐという野心、この両者を組みにしたものだった。

新自由主義貫徹
体制が不安定に


レンツィ構想の印象に残る大敗は、ほとんどありそうなこととして、混乱と不安定という一時期の幕を開けるだろう。しかしながらこれに関する自由主義派の怖れは、重要な点を見落としている。つまり、政治諸勢力は五年という時の流れにわたって、もっぱらEUの利害とその構想に結びつき、社会的諸権利へのある種気を失うような攻撃を続けてきた、ということだ。
中道左派に支えられたテクノラート的マリオ・モンティ政権は、EU諸条約に忠実に、均衡予算の義務を憲法に導入し、公共支出というケインジアン政策の穏健とさえ言えるものを違憲にした。この同じ政権はさらに、破壊的な年金改革をも通したが、その一部は憲法裁判所によって違憲と裁定されたのだ。
しかし、ベルルスコーニすらできなかったところを超えたのはレンツィ政権だった。彼の政権が通した最悪の改革には、ジョブ法のような方策が含まれているが、これは、正当性のない労働者の解雇を雇用主に不可能にしていた、労働基準法第一八条を廃止したのだ。そしてこの政権は、労働の臨時化のさらに進んだ諸形態、また公立学校システムの改革も導入した。この後者は、諸々の学校の企業スタイル管理を相当に強化し、教員の労働条件と学生のカリキュラムの性格に由々しいほどに悪影響を与えた。
その最後にレンツィは、相対多数派にボーナス議席を与える(過半数確保を保証するために:訳者)システムを下院に制度化すると思われる新たな選挙法と組にして、反民主的な改憲を通そうとの希望を抱いた。つまり結果として政権は、議会に対する全面的な支配を達成するだろう、というわけだ。そこには、政権の綱領の一部だと見なされる諸法律に関する、議会討論に対する審議時間の統制も含まれている。

イエス勝利では
何が起きえたか


もしイエスが勝利していたならば何が起こることになったか、をよく考えることには価値がある。われわれはおそらく、特にまともな職を見つける機会すらゼロである若者たちを苦しめつつ、イタリアの住民の生活条件を重大に悪化させてきた緊縮政策と新自由主義諸政策を間断なく推し進めてきた中道左派政権からエネルギーを得る形で、ポピュリストにして極右の勢力が継続的に台頭することを見ることになったと思われる(一八歳から三四歳の間の有権者ではその八一%がノーに票を投じ、イエスが多数だったのは、五三歳以上の高齢者層だけだったということは、偶然ではない)。
もしイエスが勝利していたならばわれわれは、憲法によって許されている現在のそれよりもはるかに大きな執行権力を備えた、五つ星運動の政府か右翼の政府に帰結する危険を犯すことになっただろう。相対多数派に対するボーナス議席効果にふれるまでもなくだ。
そしてレンツィが次回総選挙で中道左派への多数を何とか確保できた場合でさえも、われわれが結局直面するものは、有効な反対のための空間がまったくないより強くすらある政府と、さらに多くの新自由主義となっただろう。

右翼への回答は
社会的抵抗の道


ノー投票の背後にあった主要な動機は、政府に対する反対だった。しかし、ノー投票の背後にある放射状に広がる諸々の動機にもかかわらず、国民投票結果は民主主義と民衆主権を守り、安定性というものが民主的自由と社会的諸権利に対するさらなる諸攻撃しか意味しない局面の中で政治システムを不安定化し、様々な社会運動のあり得る再生に向けて一つの政治的空間を開いた。
一一月二六日、一つの急進的政綱に基づき、男の暴力反対を掲げ一五万人の女性がローマを行進した。そして翌日、緊縮、社会サービスと医療サービス切り下げ、そして労働の臨時化への反対と暴力反対の闘いを統一する、三月八日の女性ストライキを呼びかけた会合とワークショップには、数千人が結集した。
この三月行動準備のために、全国で諸々の女性会合が生み出されている最中だ。右翼が、PDのかなりの部分すら改憲に反対して投票したという事実を隠しながら、この国民投票結果を利用しようとすでに試みつつあるからには、われわれの前途に控える闘争はもちろん厳しい。
しかしこれに対する回答が怖れであったり、より小さな悪主義であったりしてはならない。こうした対応は、ただ右翼強化として効果をもつだけだからだ。回答は、社会的抵抗に向かう道を今開きつつある、三月八日の女性ストライキへの参加を起点に、正面対決としての政治への回帰でなければならない。

▼筆者はイタリアのシニストラ・クリティカ(批判的左翼)の指導的メンバーだった。フェミニスト並びに社会主義の活動家であり、現在は、ニューヨークの社会研究ニュースクールで助教授を務めている。


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