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    かけはし2016.年10月3日号

民衆の相互交流を深めよう


2016平和の海国際キャンプin台湾に参加して(下)


環境破壊・人権侵害に抗して

2016年9月4日     沖縄K・S

各地の闘いの交流

〈各島の状況報告〉カンジョン生命平和文化村宣言

 報告・討論は三回にわたって行われた。一つは、各島の状況報告をテーマとした、台湾、沖縄、チェジュ、ルソン島、海南島、石垣島の報告と意見交換。そのうち、「平和の海、遥かな距離を超えた連帯」と題したチェジュからの報告要旨は次の通り。今年二月の海軍基地の竣工式と同じ日に、カンジョン生命平和文化村宣言式を行った。海軍は反対運動による工事の遅れを理由として、三五億ウォンの賠償請求を住民と活動家一二〇人に対し行っている。厚顔無恥とはこのことだ。現地では毎日、早朝の百拝行動、午前のカトリックミサ、昼のゲート前での人間の鎖を続けている。カンジョンは決して屈しない。

フィリピン先住民族の苦闘

 「フィリピン先住民族の苦闘」と題するルソン島からの報告要旨は次のとおり。主に戦後先住民族が直面することとして、金・銅など天然資源の略奪や強制移住、ダム建設による先住民族コミュニティの破壊、殺虫剤製造会社による企業侵略などをあげることができる。さらに南沙諸島での中国との緊張関係の高まりが海辺周辺の先住民族の生活を圧迫している。一九九二年に撤退させられた米軍が現在フィリピン内の五つの基地に駐屯し存在感を増していることも問題だ。先住民族の主張の核心は、「その文化、環境、信仰とともに平和的かつ調和的に生きる」という人間としての生得の権利の尊重にある。

〈先住民族の自決と平和〉核廃棄物に反対する蘭嶼(ランユー)島の闘い

 二つ目は、原住民族、住民の自決と平和をテーマとして、フィリピン、台湾・蘭嶼(ランユー)島、台湾島から報告が行われた。そのうち、「一体希望は見えないのか。核廃棄物を蘭嶼島から搬出せよ」と題した台湾・蘭嶼島からの報告は、台湾南部の小さな離島の蘭嶼島の歴史と核廃棄物保存所に対する地元の達悟(タオ)民族の闘いを詳しく紹介した。日本植民地時代、日本語と日本名が強制され、住民は日本海軍に徴用され従軍した。戦後は国民党政府により、土地はすべて国有化され、達悟民族の主権は取り上げられた。
さらに軍隊が投入され、殺人犯の刑務所と政治犯が収容された。一九八二年核廃棄物のドラム缶が持ち込まれた。一九九六年核廃棄物保存所の拡張工事が始まったとき、住民は港に岩を投げ込んで船が接岸できないようにして、工事を阻止した。核廃棄物の管理はずさん。核廃棄物の地元調査員のうち、四人は死亡した。魚、犬の奇形も多い。子供のガンも目立つ。核廃棄物とはいったい何なのか。「悪霊」だ。島から追い出したい。この島は誰のものか。国家のものではない。島に住む住民のものだ。タオ民族はランユー島にしか住んでいない。ランユーの漁師は追い込み漁をする。沖縄のサバニとよく似た船だ。

〈越境する戦争経験と平和実践〉東アジア非武装平和三角地帯

 三つめは、越境する戦争経験と平和実践をテーマとしたシンポジウムで、フィリピン、台湾、チェジュ、沖縄から報告と意見交換が行われた。その中で、チェジュのソン・ガンホさんの「戦争と紛争の世界でどのように平和の道をつくっていくか」と題した提起は次のとおり。一九九一年来、キリスト教牧師として「フロンティア(開拓者たち)」という活動家集団を組織し、フィリピン、ルワンダ、ボスニア、東チモール、アフガニスタン、インドネシア・アチェなど各地で、平和学校、平和村、平和図書館をつくり、戦争に反対し戦争の犠牲者を支える活動を進めてきた。そして、戦争を防ぐためにチェジュ島の海軍基地建設反対闘争に身を挺して参加してきた。台湾―チェジュ―琉球諸島を結ぶ「東アジア非武装平和三角地帯」を創出し、東シナ海をすべての軍事基地のない「共存」と「平和」の海にしていきたい。
沖縄の報告には、辺野古の島袋文子さんも登場し、米軍の火炎放射で負傷し血の水を飲んで生き延びた自身の戦争体験を語り、絶対に戦争を起こしてはいけないと訴えた。
〈島袋文子さんの戦争体験は、森住卓『沖縄戦 最後の証言』(二〇一六年、新日本出版社)に詳しい〉

 最後に、英語、中国語、韓国語、日本語の四カ国語で書かれた「次世代に真の平和と非軍事化を教える責任がある」との宣言を採択し、四泊五日の国際平和キャンプを終えた。

アジア諸国・諸地域の連帯


今回の台湾国際平和キャンプの参加者は韓国、台湾、沖縄のほか、フィリピン、ドイツ、カナダなどから五〇人以上が集まった。会議やシンポジウム、移動中のバスの中で使用される言語は、韓国語、中国語、日本語、英語の四カ国語、時に先住民族の言葉が紹介されることもある。会場では常に言語圏ごとにかたまり通訳を通じて会議に参加する。韓国からの参加者では英語ができるメンバーが結構いる。沖縄に留学しているメンバーは日本語を通訳する。台湾には日本語、英語をバイリンガルのレベルで話す若者が目立つ。韓国の活動家層は若いなと思っていたが、台湾はそれ以上だ。民主化闘争の歴史的蓄積と反核、反政府運動の中で、伸び伸びとして活気にあふれた若者たちが平和キャンプのスタッフの中心を担っていた。
アジア諸国・諸地域の交流・連帯の動きは今後もっと進んでいくだろう。毎年開催場所を移しながら開かれるこの国際キャンプ、沖縄の5・15平和行進、チェジュの8月平和行進、その他、国境と言語の違いを超えて発展する交流と連帯の活動を通じて、支配者のアジアに対抗する住民の自己決定権と平和を求める闘いを担う人々の結束と団結が強まっていくという確信を持った。
かけはし読者のみなさん、人権と民主主義、自己決定権に基づくアジアをつくり出す動きに加わろう。意識と行動をアジアへと向けよう。そして、アジア諸国の言葉をなんでもいいから最低一つ学ぼう。言葉を通じて必ずつながりが広がっていく筈だ。

台北で訪れた現場


夜行で台北に移動した翌日は、台湾側スタッフの若者から、日本の植民地時代にハンセン病隔離政策で造られ現在も運営されている楽生(ラーシォン)療養院、国民党政府に反対する「ひまわり運動」の現場となった立法院・行政院、蒋介石の国民党勢力が台湾にわたり暴力支配を始めた一九四七年の2・28事件の現場を案内してもらった。

楽生療養院の長老から話を聞く

 楽生療養院が建てられた一九三〇年代、日本全国でハンセン病隔離政策が実行され、沖縄島に愛楽園が、宮古島に南静園がつくられた。隔離の目的は何より、兵隊を感染から隔離しようとする戦争政策だった。一九五〇年、二三歳の時に入所し六六年間楽生療養院で生活してきた張文賓さんは現在八九歳。この間の出来事を詳しく語った。
戦争を始めるとき日本軍が療養院入り口付近に植えたという四本のガジマルの木は大きく育った。2・28事件の時には、国民党軍がトラックでコメを奪いいくるなど、影響は療養院にもおよんだ。蒋介石の軍人が療養院院長になって患者の生活が圧迫され、自殺者も出るなど苦しい時代が続いた。一時入所者は一二〇〇人いたが、今は一三七人。アジア太平洋戦争で台湾も戦場になったが、大きな煙突のあるところは療養院なので爆撃しないようにと、カナダの伝道者がアメリカのニミッツ海軍司令官に要請してくれたおかげで、楽生療養院は無事だった。

ひまわり運動の現場を訪れる

 二年前、台中間のサービス分野の市場開放を目指す「サービス貿易協定」の批准をめぐって、国民党政府の強硬な政策に反発して学生たちが立法院を占拠した運動は「ひまわり運動」と呼ばれ、全国に大きな影響をもたらした。その現場となった立法院と行政院を案内してくれた若者は、当時ひまわり運動をすすめた当事者たちで、「垣根を乗り越えて構内に入り立法院を占拠した」「行政院の占拠は警察の規制が厳しくできなかった。けが人もたくさん出た」などの話は詳細でリアルだった。運動の結果、国民党や民進党など伝統政党が中心を占める立法院の中にひまわり運動を進めた若者たちの中から「時代力量」の五人(一一三議席中)が当選したという。選挙には勝ち、民進党の新総統も誕生した。しかし運動は下火になった。それ故、運動の草の根からの再建が課題だ、と語った。

道路に静かに立つ2・28事件の碑

 一九四七年2・28事件は、国民党の中華民国政府から台湾省行政長官に任命された陳儀による暴力支配の始まりとなった。きっかけは、台北市の一角で闇たばこを売って生計を立てていた四〇歳の女性に対する取り締まりだった。銃を携帯した六人の調査官は女性が所持していた現金と品物をすべて没収し、銃で女性を殴りつけた。台湾の人々の中国大陸からの国民党勢力に対する反発が爆発し、民主化を求める台湾全国での大抗議運動となったが、米軍の支援を得た蒋介石の国民党は無慈悲に鎮圧した。死者は二万人以上だといわれる。その後中国大陸での国共内戦に敗れた蒋介石は台湾に白色テロの支配を行った。四〇年にわたって続いた軍事独裁は李登輝総統が登場した一九八七年から弱体化し、民主化が始まった。2・28事件の碑は道路の一角に立っていた。
〈2・28事件を知る資料としては,阮美妹『台湾2・28の真実―消えた父を探して』(まどか出版、二〇〇六年)〉



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