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    かけはし2016.年10月31日号

脱核は可能だとの信念だけ


「核マフィア」第8回DMZ国際ドキュメンタリー映画祭上映作

キム・ファンテ監督インタビュー


 キム・ファンテ監督は探偵団を切り盛りし、丸3年間「核マフィア」を追いかけた。マイケル・ムーアのようにユーモア的ではなく、「イエスマン・プロジェクト」のように痛快でもないけれども、我々すべてが核マフィアを追っている探偵団だというずっしりと重い宿題を投げかける。

 原子力発電所14基が集中している慶尚北道慶州と釜山の近くで発生した地震は、韓国社会を支えてきた長きにわたる信念を根底から揺るがした。「日本とは違う、韓(朝鮮)半島は地震から比較的安全だ」という主張は、今や活性断層の下に消え去った。政府は相次ぐ余震に「国内の原発はM7・0規模の地震にまで耐えることができるように設計された」と抗弁するけれども、蔚山断層の場合は地震が発生すればその規模はM5・8から最大M8・3に達し得るとの警告が既に数年前に公式の報告書として提出されていたし、政府はこれさえも無視したことが明らかになった。
この世の中のことで、ある問題を仮に可能と不可能とに分けるとするなら、「核のない世の中」は可能の領域なのだろうか、それとも永遠の不可能な問題なのだろうか。国内の電力生産の30%を原子力が担っている状況にあって、核の安全性についての信念がすべて崩壊した「原発ルネサンス」を積みあげてきた体系やシステムの堅固さは、おいそれとは壊れはしない。
記録映画製作所「ダキュイャギ(ドキュメンタリー物語)」のキム・ファンテ監督は、言わば確信犯だ。「核のない世の中」は当然にも可能だと信じる。既に来ていて然るべき未来を何者かたちが巧妙に「猶予」していると確信している。彼はこの3年間、私設探偵団を切り盛りして「核マフィア」の実体を確認し、その「頭目」が誰なのかを確認したのだろうか。9月22日〜29日に開かれる第8回DMZ国際ドキュメンタリー映画祭での、映画「核マフィア」上映を前にして奔走していた彼に9月21日に、会った。

事件に直接飛び込んだ


「核マフィア」は9人の探偵団が核マフィアを追いかけるという設定だ。だから核マフィアを追ったのか。
核マフィアは象徴だと見なければならないようだ。核関連の政策を決定するのは国家権力だ。マフィアは変わり続ける。(笑)原発政策を決定する国家権力の頂点が核マフィアだ。映画の中でずっとイ・ミョンバク前大統領を追いかけていた理由でもある。パク・クネ大統領も当然にも延長線上にある。その下では財閥を初めとする行動隊長らがいる。そうして討論の対象を作っていく教授や原子力学会が存在する。
結局、探しあてられなかった、という話ではないのか。(笑)だとすればプロジェクトは失敗したということではないのか。
そうではない。もどかしさが残ったのは事実だけれども、失敗したと見ることはできない。探偵団を作るということは、一種のパフォーマンス・ドキュメンタリーをやってみようというものだった。探偵団に参加した方々は実に多くのことを出してくれた。各自の生き方の中に問題意識が残った。ドキュメンタリー作業を通じて、我々すべては核マフィアの探偵だ、こういう質問を投じたかった。
真剣な作業をやってきたのに、パフォーマンス・ドキュメンタリーというスタイルを使おうと考えた理由は何か。
前作「残忍な血筋―遺伝」の上映会をしていて、済州の高レベル廃棄物問題を知ることとなった。その時、このドキュメンタリーを思いたった。もともと重いテーマだから、いっそ面白くやってみようと考えた。アンディ・ビクルバウムの「イエスマン・プロジェクト」やマイケル・ムーアの「キャピタリズム」のような作品がモチーフとなった。ある種のフェイク・ドキュメンタリーのように、核のマフィアたちの素顔を面白くはいでみようという趣旨だ。
探偵団は簡単に集まったのか。
募集もしたし、紹介もされたり、あるいは交渉をしたりもした。もともとは探偵団と詐欺劇をやってみたかった。「イエスマン・プロジェクト」のように、探偵団を作って核マフィアたちを1カ所に呼び集め、そこで痛快にひと泡ふかせてやろうというコンセプトだった。ところがいざ取り組んで準備してみると、うまくできなかったのだ。我々が用意している場に奴らが入ってくるのか、絶対に入って来ないのに、どうやって引っ張り出すことができるのか。ペーパーカンパニーを作って準備してみよう、こんなアイディアもあったけれども結局できなかった。欲と行きあたりばったりが多かったけれども、結局はできるかぎりの最善を尽くしたと思う。
探偵団の活動や流れにそっていくのが作品のコンセプトではあるけれども、むしろ探偵団の活動に重きを置いていて、映画的完成度としてはマイナスに作用していると感じた。
当初から水平的で参加型のドキュメンタリーとして考えた。事件を自ら作っていく新しいスタイルの作品だった。それが映画的完成度と衝突するとは思わない。映画的にも新しいスタイルを作ったという側面がある。もちろんもっと手際よく上手にやれたならば、マイケル・ムーアのように奇抜で暴露的で、おまけにユーモアまで込みのものをお見せすることができただろうけれども。

「マフィア・ゲーム」の昼か夜か


映画で最も印象深かった場面は、いわゆる「原子力業界が仕事をするやり方」を説明するものだった。
核マフィアに接しようとするなら、そのカルテルにより深く入っていかなければならないが、そうすることのできない状況だった。それでも朝晩となく韓国水力原子力社長への訪問を通じて、原子力業界が仕事をするやり方を説明することができた。原子力業界が仕事をするやり方は、まずカネを突っ込んで、「これが許可されなければ一大事だ」と言い張るのだ。以前から、そして今日までずっと広まっている論理だ。核マフィアたちが最も望んでいるのは原発の話や情報が知られないことだ。人々がこの問題に関心を持たないことが最も重要だ。核を日常とはかけ離れた問題として、遠くにあって実体のないものとして感じさせることが彼らの目標だ。

 誰もが1回ぐらいはやってみたであろう「マフィア・ゲーム」は、参加者たちを少数のマフィアと多数の一般市民とに分け、互いの生存を選ぶ心理ゲームだ。単純に見えるが、モスクワ大学の心理学教授ドミトリー・ダビドフが1986年に創案した教育用ゲームだ。ソ連をはじめ当時、共産圏諸国で爆発的に流行した。
ルールは簡単だ。マフィアの数が市民の数よりも大きいか同数であればマフィアが勝ち、すべてのマフィアを処刑すれば市民の勝ちだ。マフィアは夜にのみ市民を殺すことができ、市民は昼に投票を通じてマフィアの容疑者を処刑することができる。この過程を媒介するのは「宣伝」と「煽動」だ。自分がマフィアでないことを強弁しつつ、罪なき人をマフィアとして追い立てなければマフィアは勝利することができない。
マフィア同士は互いの存在を知り協力することができるが、マフィアが誰なのかを知らない市民たちは分裂して疑心暗鬼になる。情報を独占した少数のマフィアたちが実体を隠したまま、脱核を叫んでいる人々をイデオロギー的過激主義者として追い込み排斥する現在の韓国原発の状況は、マフィア・ゲームのその「夜」なのか。それとも地震によって宣伝や煽動によって亀裂が生じ始めた「昼」なのか。仮に昼ならば投票によってマフィアの容疑者たちを追い出すことができるのだろうか。

 慶州の地震によって、映画の封切り前に核問題に対する関心が極めて高くなった。
3年間、根気強く作業をしてきたけれども、実際のところ大きく考えていた問題ではなかった。むしろ作業を始めた頃、日本の大地震の余波があった時、原発に対する関心がもっと高かったようだ。地震の問題に関連して印象深かった場面は、原子力安全委員会の会議を傍聴した時だった。会議のたびごとに地震の話がいっぱい出てきた。いま問題になっている梁山断層や、その地域の活性断層の問題も既に論議がなされていたと記憶している。そのたびに、驚くべきことに各委員は断定的態度で、原発はM7・0以上の耐震設計がされているから安全だという話ばかりを繰り返した。そのようなことは起きないという態度が前提とされていなかったなら口にしがたい断定だった。
原子力「推進」委員会ではなく「安全」委員会なのにもかかわらず、そうなのか。
会議の構造がそうだ。賛成・反対がいつも7:2の構造だ。賛核論者7人と反核論者2人の構造だ。この構造をアリバイとして核関連政策の安全性を語っているのはギマンだ。この構造を変えなければならないし、変えることのできる方法はあまりにも常套的だが政治権力を交替する以外にない。

日常の平和が壊れる社会

 それでも地震以降は原発に対する法制度的論議や政治圏の発言が始まった。
慶南地域の住民480万人が日常的恐怖や不安に置かれた現実にあって、原発の安全性を再検討していくという発言こそは、リップサービスのように当然のことではないだろうか。セヌリ党のユ・スンミン、チョ・ギョンテ議員らも原発再検討の発言をしていたが、むしろそれは今の時点での人気迎合主義ではないのかと思う。以前はそれを知らなくて、今になって話しているのか。日常の恐怖を抱えて生きていく人々、日常の恐怖がなお続いている状況で発言をしようとするのなら、もっと急進的でなければならないと思う。グリーンピース側の主張のように「ソウルに核発電所を建てよう、そうすることができないのならどこにであれ作るのはやめよう」というのが明確だと思う。
原発のない世の中は可能だと思うか。
構造を変えれば充分に可能な問題だ。どこに向かうべきかは既に出ているし、政府関係者たちも知っている。脱核論者と市民社会は既に歩みだしている。問題は決定の構造なのだ。電力発電体系の構造を変えるという意志を持っている政治権力が重要だ。前の大統領選挙でムン・ジェインに投票した。具体的な理由からだった。パク・クネ候補は原子力自体にあまりにも無知だった。ムン・ジェイン候補は脱核の意味や内容を分かっていたし、だから可能性があると考えた。今でも大統領が決心さえすれば再生エネルギー体系に進む準備を始めることができる。もちろん、やらないだろうが。
映画を見ると脱核の活動家のように見えもする。次回の作品はどんなものを準備しているのか。
継続的な関心は日常の平和だ。日常の平和が本人の意志とは関係なしに破られている状況が基本的な関心事だ。原発も結局は日常の平和と生存が損なわれる問題だ。軍事主義、兵役拒否問題もそうだ。次の作品では軍事主義の歴史や兵役拒否の現在と未来についての話を悩みながら検討している。元気よりスタスタと歩んでいく人生、大変でつらいながらもそうやって歩んで行き道を作る人々、その歩みの価値を受け入れる人々の生き方、そういうことが関心事だ。

カルテルを崩すのは市民の力のみ


キム・ファンテ監督は脱核へと進む糸口を語ってくれという注文に、「それは本当に可能だ、という信念だけ」だと強調した。原子力がなくとも充分に電気を生産し循環させることのできる状況にあって、依然として原発が神話のように残っているのは、原発が利害関係者たちに天文学的カネを抱かせる金の卵を生む事業だという理由以外にない、という指摘だ。その強固なカルテルをうち崩すのは、まどろっこしく見えたとしても、ただただ市民の力だけだ。
原発1基を建設するのには大ざっぱに2兆5千億〜3兆ウォンがかかる。このような工事をやることのできる企業は現代建設、大宇建設、斗山重工業、サムスン物産、大林産業など5社程度にすぎない。これらの企業と韓国電力、韓水原など幾つかの公企業などの利害関係の中に寄生しつつ「トッコムル(きなこモチ、転じて汚いカネ)」をもらっている専門家たちに我々の未来をまかせているのは、ぞっとすることだ。使用した核燃料の放射能が人体に深刻な被害を与えないほどに数値が低くなるためには10万年かかると言う。10万年だ。たかだか生きても100年、地球に滞在するだけの我々には到底この問題を解決することはできない。誰も。なんぴとたりとも。(「ハンギョレ21」第1130号、16年10月3日付、キム・ワン記者)



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