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    かけはし2016.年9月19日号

現体制支持はもはや市民の義務に化した


ロシア

プーチン体制VS左翼(上)

プーチンの「国父」化、聖域化
政策枯渇の中残された支配手法

ロシア社会主義運動
(RSD)


 九月一八日にロシア下院選が行われる。従来であれば大統領選と近接した一連の政治イベントだったが、今回はその二つの選挙が完全に引き離された。そこにはプーチン体制が深部に抱える深刻な矛盾と危機がある。プーチンの行動や今後を考える上で重要な要素である。一般紙で報じられることの少ないこれらの矛盾を含めて、ロシアの左翼による現状分析を二回に分けて紹介する。(「かけはし」編集部)

 以下は、モスクワで今年五月八、九日開催されたロシア社会主義運動(RSD)第六回大会政治決議であり、次の声明と共にRSDウェブサイト上に公表された。ちなみに前述の声明は「これは、プーチン主義の政治システム展開における現在の傾向(愛国主義の総意=j、その社会―経済路線、拡大一方の軍国主義化、社会的反乱を前にしたその怖れ、並びに反政権派の情勢に対するわれわれの分析である」と語っている。

「プーチンなきロシアはない」


ロシアは四分の一世紀近く、歴史的な袋小路に入り込んできた。社会の以前の社会・経済的諸形態が調和的発展を遂げることが不可能であったことは、一九九三年に憲法秩序の破裂に導いた。次の何十年かにわたって結果として強要された眺望は、社会的退化、また何百万人という民衆の生活を組織した諸制度の破壊となった。一九九〇年代後半、プーチン政権は、社会の新たな構築物を保全する目的で、同時にロシアでの社会的動乱を防止する目的で、市場の君臨下での変革深化、および国家の役割強化、この二つの間のいわば和解として自らを押しつけた。

1.二〇一二年三月の大統領選におけるウラジミール・プーチンの勝利は、大統領個人を中心とした総意の内容をあらためて明確にし、この体制の保守的転回を印した。キエフのマイダンに敵対する攻撃的対応、クリミアの併合、政権と社会の諸関係を変えることを狙った東部ウクライナに対する「ハイブリッドな」介入。こうした二〇一四年のできごとはこの意味で、クラウゼヴィッツの古い格言、「戦争は政治の継続(別の手段による)である」、を確証することになった。
その時以後、現存の体制に対する支持は、もはや合理的な選択を意味せず、一つの国に対する愛国的献身に似た、市民の義務を意味している。この新しい思想的内容は、ヴィアチェスラフ・ヴォロディンによって簡潔に定式化された。つまり「プーチンと共にロシアは存在し、プーチンなしにはいかなるロシアもない」と。このような個人化は実際上、象徴的な「父親」としてのプーチンという人物が日々の政治の上に立っている、ということを意味している。
人は、経済の国家統制を支持するか、自由市場の支持者か、あるいは民族主義者かリベラルかとして存在することが可能であり、政府の退陣、一定の閣僚や知事の辞任も要求できる。しかし、プーチン・クリミア・ロシアのつながりを疑問に付すことはできず、その討論も不可能なのだ。それに原理的に同意しない者は、単にロシアの政治的配列の境界外に出、「民族の裏切り者」となるしかない。
この論理の中で、生活基準の急速な下落や新自由主義的な「危機対決」諸措置の逆効果に対する責任は、全員に、お好みの者すべてに――プーチンだけを除いて――負わされている。「クリミアの復帰」に関する宣伝の効果が明らかに衰え始めている中で、今ですら、プーチン個人の支持率は高さを維持している。現存体制に対する支持は討論の対象ではなく、市民の義務となっている。そしてクリミアの地位という問題が、われわれの国を所有している者は誰か、という問題を完全に置き換えている。

下院選の役割りは大統領の免責


2.体制の構造における思想的諸変化というこの背景の中で、九月の下院選準備が進んでいる。プーチン時代を通じて議会選と大統領選は、同じ政治サイクルの一部であり、単一のシナリオにしたがって最後まで演じられた。すなわち、「統一ロシア」の勝利が予測され、ウラジミール・プーチンのより大きな成功を確実にする、ということだった。
しかし二〇一一年一二月、この仕掛けは破綻した。「統一ロシア」を利する大規模な不正が大量のデモに火をつけたのだ。そしてこの参加者たちは、全体としての政治的システムに対する彼らの拒絶を表した。
今日、プーチンの「第三期」がもつ新たな政治的論理は、前述のサイクルを壊すことを狙っている。クレムリンは二〇一五年五月、政府に対する信任が急速に下降しているという背景の中で、下院選を二〇一六年一二月から同九月へと前倒しし、大統領選を二〇一八年三月へと延期する――こうして大統領任期を六年に延ばす――決定を行った。
このような策動の意味は明らかだ。これ以後大統領選と議会選はもはや同じシナリオの二つの面ではあり得ず、二つの全面的に異なる政治的事業とならなければならない。最初の舞台では、「愛国主義の総意」交響楽団を構成する限られた数の政党が、政府と競合相手を批判するだろう。こうして彼らは、住民の不満層の共感を勝ち取ろうと互いに競争するだろう。そして二番目の舞台では、大統領候補としてのプーチンに対する支持が、本質的な愛国的本能から流れ出なければならない。
すでに今日、「公認野党」――ロシア連邦共産党(KPRF)と「公正ロシア」――は、彼らのキャンペーンを政府に対する厳しい批判に焦点を絞り、その退陣までも求めている。クレムリン執行部に統制されたこれら二政党は、許される批判のバロメーターとして役に立っている。
ゲンナジー・ジュガーノフとセルゲイ・ミロノフ(前記両党の各党首)は、クレムリンの重要政治イニシアチブすべてを支持してきた。それは、「外国の手先」に対する新たな弾圧法から、シリアのバシャル・アルアサド体制に対する軍事支援にまで及んでいる。同時に彼らは、政治配列の左翼として発言しつつ、プーチンの意思の枠内で広い範囲の観点をまき散らした。そしてそれらはいくつかの不人気な決定への批判に権威を与えているのだ。高まる社会的不満(ほとんどは依然として受動的な)を条件として、政府を導いているだけではなく地方の知事多数を抱えている「統一ロシア」は、儀式的な「スケープゴート」になるかもしれない。

個人独裁体制への力学も浮上

 しかしながら、クレムリンで開発されているこの予測できるシナリオは、もう一つのもので押しのけられることもあり得る。それは、軍と警察組織の強化、またますます精力的になっている部門間競合と結びついたものだ。国民防護部隊の創立で始まったこの進展は、重要性を増しつつある。各々の権力組織は、その存在を人々に思い出させるためだけではなく、潜在的脅威に対決する自身の戦闘能力、比類のなさ、無比さをそのライバルとなる省庁に見せつけるためにも、自分の売り込みにかかっている。
たとえばアレクサンドル・バストリキンは先頃の綱領的な論文の中で、それが危険すぎるものになる可能性があるとして、選挙の取り消しを提案している。彼はあからさまに、「民主主義という茶番を演じること」をやめるよう呼びかけ、選挙の接近という見通しの中で、諸々の敵に「真剣で、十分かつ対称的な対応(……)」を取るよう呼びかける。これまでは中立的だった人権のための仲裁機構さえもが、タチアナ・モスカルコヴァの指名をもって、陰謀との闘争の、あたらしい砦に変じつつあるように見える。
この身振りは明らかに、経済的、社会的危機の深まりが当面見える形の政治的結果を得ることがないという事実に関係している。実際、自然発生的な大衆的反乱も、産業レベルでのストライキもまったくない(そうであっても、孤立した労働争議の総計量は増大中だ)。
連邦の管理諸機関における被選出機関の役割の、高位執行部局の利益を代表する指名公職者に有利な形での縮小は、政治システム全体の退化に一体化された一部だ。二〇一四年の地方政府改革は、そしてそれはいくつかの地方で市長の直接選挙を取り止め、町と地区の首長をどのように選出するかを確定する自治体議会の権限をその議会から取り上げたのだが、住民に対する地方政府の権力を取り上げ、地方政治エリートたちをビジネス社会と調和する関係に置くことを狙う論理の一部だ。
連邦中央による予算の配置、そしていかなる形でも公衆への説明責任を負わない取り替え不能な地方指導者(「小公子」)の掌中への権力集中、こうしたことを背景に、プーチンの抑圧的政府というモデルは、より広がろうとしつつある。

政府の対生活崩壊策も矢が尽き

3.経済危機の社会的波及が今や、住民多数に悪影響を及ぼしつつある。この状況を西側の陰謀によって正当化する宣伝は、ますます説得力をなくしつつあると感じられている。国際的な経済制裁の導入と二〇一四年に始まった原油価格下落は、二〇一二年に始まった生産の下降を強めるものとなった。
加えてメドヴェージェフ首相は、通貨市場交換比率におけるルーブルの崩壊が頂点を印した二〇一四年に、ロシアは「二〇〇八年の危機から抜け出していない」と認めた。世界的危機はロシア経済の弱点の中に投影されているだけではなく、ポストソビエト資本主義のシステム全体の緩やかな崩壊をも引き起こすことになった。そしてそれが、軍事活動のさらなる強化に導き、この国で体制の強化に導いた。
同様に過去二年、原油収入の激しい下落は、ロシアの銀行が西側で自分自身に資金を手当てする可能性の停止と組になって、政府が策を凝らす余地を縮小した。以前の戦略――経済の穴を政府の巨額にのぼる準備基金の助けを得てふさぐ――は今や使い尽くされた。それでも、現在の危機の規模は、ある種の破局という見通しをより現実的なものにしている。
こうして二〇一五年末、ロシア経済の緩やかな後退が、GDPの三・七%下落という数字によって印された。そしてインフレは一五・五%に達した(二〇一五年三月における一六・九%を最高として)。この短い期間に貧困率は印象的だ。貧困線以下の収入しかない人々の数は、一六一〇万人から一九二〇万人へと増大した(人口の一三・四%)。留意されるべきこととして、昨年末貧困線は政府によって、月額九四五二ルーブル(およそ一二三ユーロ)と公式に設定されている。そして、どれほど多くの人々がこの僅かな額より少し高い所得しか得ていず、公式貧困線をまさに超えていることになっているのだろうか? その上先頃の調査によれば、ロシア人の七三%は「雨の日」用の貯金をまったくもっていず、彼らの俸給すべてをギリギリの必要のために費やしている。
この全体的関係の中で、失業者数はさっと見た場合そう悪くはない。つまり公式統計は五・八%(四四〇万人)を示しているのだ。この数字には、職業紹介所に登録されないまま熱心に職を探している人々も含まれている。同時に統計機関のロススタットによれば、自身を失業者だと言明したものの数は、二〇一六年の最初の三カ月で、七万人増加し、こうして稼動人口の六%に達している。
生活水準の極めて急速な下落という情勢の中における失業率の相対的に低い上昇の持続は、闇ではない雇用を保つための政府の諸方策(低賃金と労働時間削減による)によって説明される。たとえば、無給の長期休暇という実行策は工業大企業では共通になっている。「社会的安定の維持」は、レイオフの場合に別の賃金の低い仕事を見つけることが可能な大都市ではなく、ソビエト時代に重要産業を軸に建設されたいわゆる「単一産業の町」では、重要な大義なのだ。そうした企業で抜本的な職の削減があったとすれば、その都市の人口中重要な部分は自動的に長期失業という類型に入り、これらの都市は社会的爆発の潜在的な場所になると思われる。

所得下支え放棄への踏み込み


この矛盾――雇用の維持(住民の所得の急激な下落を避けるための)と危機の作用に対する緊縮という処方箋の使用との間の――が、過去二年にわたるロシアの財政政策にとっての基礎となってきた。二〇一六年予算の採択の間、メドヴェージェフ首相は次のように発表した。つまり「われわれは費用の合理化なしにはこれを達成することはできない。そしてそれは、まさにわれわれがこれまであまりに度々やってきたような、ビジネスに対する税の賦課の増額によってではなく、非効率な費用の削減によって行われなければならない」と。
メドヴェージェフはそのような費用の中に、たとえば年金を生活コストに応じてスライドさせることを入れている。こうして、今も働いている年金受給者(一四九〇万人)に対しては、先のスライドを完全にやめること、またスライド率全体には四%という天井(インフレ率は公式に少なくとも一〇%にもなると予想されているのに)を設けることが提案されている。退職年齢の六五歳までの後ろ倒しは、予算不足に対し闘うために暗に示されたもっとも重要な方法の一つとして残されている。
それでもこの方策の現実の履行は明白な理由から、議会選後まで、あるいは実際上は大統領選後まで引き延ばされてきた(今日ロシアの年金受給者総数は四一四〇万人を数え、ほぼ全人口の三分の一になる)。
私企業部門の賃金に対するインフレスライドの仕組みは、ロシアの労働法の中では実質的には具体化されていず、事実上一つの「勧告」という性格になっている(それは労働協約の中で決定されなければならず、その協約は最大規模の企業の中にあるにすぎない)。
一方公務部門の労働者は過去二年、賃金スライドから利益を得ることはなかった。意味深長なことは、この部門の賃上げ(インフレが引き起こす単純な損失を埋め合わせることすらできない)は政府によって二〇一六年秋に向け計画され、それが明らかに議会選前夜の宣伝目的に使われるだろう、ということだ。
教育や医療への重要な支出の削減を伴って二〇一六年予算を方向付けたのは緊縮だったとはいえ、その採択の僅か二、三カ月後、その予算はさらに一〇%削減された。政府歳入のまさに構造そのもの――その中では原油と天然ガスの輸出が基本になっている(七〇%にも)――が、将来にも連続的な削減があるだろう、ということを告げている。
(つづく)
▼ロシア社会主義運動(RSD)は、第四インターナショナルロシア支部の社会主義運動フペリョード(前進)とソーシャリスト・レジスタンスの二組織によって、二〇一一年三月創立された。この組織は、二〇一一年と二〇一二年の選挙偽造に反対する抗議行動の中で形成された一つの連合である、左翼戦線の一部。


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