もどる

    かけはし2016.年9月19日号

民族主義からジハーディズムへ


第8回アジア・グローバルジャスティス学校

アジアの民衆が直面する課題


 今年も七月六日から二六日まで三週間の日程でIIRE(International Institute for Research and Education――「研究と教育のための国際研究所」)マニラが主催する、第八回アジア・グローバル・ジャスティス・スクールが開催された。IIREは第四インターナショナルが設立・企画・運営にかかわる、あらゆる面で独立した民衆解放運動のための調査・交流・教育機関である。それは党派・無党派の垣根を越えて、労働運動、民衆運動、さまざまな社会運動の国境を越えた連携をめざし、着実にその地歩を固めてきた。
 一九八〇年代初めにIIREがオランダの首都アムステルダムに設立された後、現在はフィリピンのマニラ、パキスタンのイスラマバードにもIIREの施設が作られ、アジアそしてイスラム圏での活動家の学習・討論にとってなくてはならない機能を果たしている。
 私は、二〇〇九年にIIREマニラが開設されて以来、ほぼ毎年、短期間ではあるが「講師」かつ「生徒」としてこの「アジア・グローバル・ジャスティス・スクール」に参加しており、アジア各国から集う若い仲間たちと、日本やアジアの諸問題を相互に伝えあい、学び、連帯を深める活動を行ってきた。今年も、私以外にもう一人の仲間がこの学校に参加して報告を行った。

宗教的原理主義
とジハーディスト化


今回、私がスクールで報告したテーマは「福島」以後の反原発運動とその社会運動の中での役割だったのだが、ここではこのグローバル・ジャスティス・スクールのプログラムの一部として、しかし他の団体・機関とも共催する形で七月一四日にフィリピン大学マスコミュニケーション学部ホールで開かれた、「アジアにおける民族解放運動のトレンドに関するセミナー」について報告したい。主催の形態は、IIREマニラとフォーカス・オン・ザ・グローバルサウス、ストップ戦争連合・フィリピン、そしてフィリピン大学国際法センターの四者共催だった。
実は同様な枠組みでの企画は、三年前にも行われている。「グローバルパワーとしての中国の勃興 アジア太平洋におけるその影響」というテーマで、フィリピン大学国際法研究所、IIREマニラ、ストップ戦争連合フィリピン、そしてアジア欧州民衆フォーラム・アジア事務局の共催で行われたものだ。この時は、おもに中国の領土拡張主義と周辺諸国との衝突をテーマとして二日間にわたって行われたものであり、私もパネリストの一人として、日本にとっての「尖閣」問題をテーマに報告している(本紙二〇一三年七月二九日号参照)
今年のセミナーのテーマについて焦点となったのは副題にもなっていたのだが「ジハード主義化と原理主義化の傾向は、民族国家の枠組の中での紛争の平和的解決の道を打ち負かしてしまったのか」だった。このテーマ設定自身、「宗教的原理主義」とその「ジハーディスト化」という現象が、アラブ・中東やアフリカの問題だけではなく、アジア諸国においても現実的危機として意識されるにいたっていることを物語っている。インドネシアやバングラデシュは圧倒的にムスリムが人口の多数であり、そして少数派としてイスラム教徒を抱えるミンダナオについてもISなどのジハーディストが影響力を広げる脅威は杞憂に終わるだろうとは言えないのである。

色あせるエスノ
ナショナリズム


メインの報告者は、マルコス独裁体制に反対する闘いの非合法の中心的活動家、現在は筑波大学大学院准教授になっているネイサン・ギルバート・キンポ、ESSF(国境なき欧州連帯)のピエール・ルッセ、そして弁護士のロメロ・バガレスの三人。司会は今年三月に東京・福島で開催された反核世界社会フォーラムにも参加した、日本でもおなじみのストップ戦争連合・フィリピンのコラソン・ファブロスさんだった。
ネイサン・キンポさんの報告は、「エスノ・ナショナリズムVSジハーディズム」。
「エスノナショナリズム」という概念については、要は共通の文化・言語・生活様式を持つ集団が、支配大民族から独立して自らの国家を建設しようとする「冷戦崩壊」以後顕著になった傾向であり、旧ソ連邦解体と各民族国家の分離独立、あるいは旧ユーゴスラビアの分解で露わになった事態を説明する概念である。それに対してジハーディズム(いわゆる「聖戦=ジハード」の概念を基軸に据えたアルカイーダやIS系の勢力)は、言うまでもなく民族性に基づく分離・独立国家ではない、旧来の国家の枠組みを超えて「イスラム教」をベースにした「カリフ国家」の建設を構想する運動、思想である。
キンポさんは「エスノナショナリストのジハーディスト化」(ムスリムの側から「ジハーディスト」という言葉は使用されないことを確認した上で)について、チェチェン、カシミール、中国の新疆を例にして説明した。
こうして内戦が多くの場合エスニック間の分裂によって展開され、「分離」へと結論付けられた歴史(パキスタンからのバングラデシュの分離、東ティモール、さらには南スーダン)が、いま大きく変容しつつあることをキンポさんは説明した。この例はタイ南部のムスリム、アチェ(インドネシア、スマトラ北部)の少数民族においてもあてはまるという。
キンポさんは、この経過を戦後の民族運動の「非宗教化」→「しかし宗教的アイデンティティーは消滅しなかった」→ハンチントン「文明の衝突」論→マーク・ユルゲンスマイヤーの『グローバル時代の宗教とテロリズム』(邦訳:明石書店)→「時代の波」理論等に沿って説明したが、それを紹介することは私のキャパシティーを超えている。
ここに挙げたユルゲンスマイヤーの著作については、興味のある方は取り寄せて読んでみてください。

「新しいタイプの
ファシズム」の特徴

 ピエール・ルッセさんの報告は、武装闘争を含んで展開されたナショナリズム運動が、仏教徒やキリスト教徒の極右運動に示されるきわめて排外主義的な運動に転化している現実を指摘し、社会的アイデンティティーの崩壊を立て直す回路が「民族」ではなく「宗教」として現れていることが、今日の「地政学的カオス」の一つの特徴であることを強調した。
こうした中でシリア内戦でのロシアや、米国の対応はアサド政権との関係でもっぱら「地政学的」観点に終始している。
この中で登場する宗教運動が、「新しいタイプのファシズム」という特徴を持っていることをルッセさんは指摘した。
弁護士のロメロ・パガレスさんは、「先住民族と少数民族」という問題に焦点を合わせて提起。ここでは「先住民族」については「新大陸」への「開拓者」が作った国家にとって「前近代的経済」に基礎を置く、より「脆弱」な存在であるのに対し、少数民族は「近代を共有する」存在として規定される。少数民族に対しては「古いアイデンティティーと個人的自由」を防衛するリベラルな対応が許容されるのに対し、先住民族は文化的伝統を持たないものとして徹底的な「同化政策」が強要されてきた。
これに対して国連では一九九〇年代以後、少数民族の権利、先住民族の権利が相次いで宣言され、先住民族の「自治権」が承認されるに至った経過が改めて確認された。しかし少数民族については「制度的統合」、先住民族については「制度的分離」といった機械的理解も見られ、フィリピンでもバンサモロ(ミンダナオやマレーシアのサバ州に住む、ムスリムの先住民族)について少数民族なのか先住民族なのかという論議もあるようだ。

それぞれの国の
民族問題を報告


今回のIIREマニラのアジア・グローバルジャスティス学校に参加したインドネシアとスリランカの仲間からは、それぞれの国における「内戦」を伴った民族的少数派、あるいは先住民族への弾圧との闘いの事例が報告された。
インドネシアのアンドラ・バラハミンさんは西パプアの自由のための先住民族の闘いについて報告。西パプアは約三二万?の面積に三五〇万人が住み、三七二の異なった言語が使われている。全人口の七九%がスマトラ島やスラウェシ島からの移民であり、キリスト教徒が多数だという。一九六一年、スカルノ時代にインドネシアに併合された西パプアでは二〇一四年にULMWP(西パプワ統一解放運動)という連合組織が形成され、さらに幾つかの連合組織も形成されている。現在西パプワは国際法の観点から、独立の権利を持つ地域として上げられているという。
スリランカのアヌカ・ヴィムクチ・デシルバさんはタミール民族の自決のための闘いと、一九六〇年代のバンダラナイケ政権以来の弾圧、タミール民族の権利の防衛について熱っぽくアピールした。
今回、パキスタンの同志はビザが下りずに参加できなかった。バングラデシュの同志も参加できなかった。パキスタンやバングラデシュの同志が参加できたなら、「ジハーディスト」との闘いのよりリアルな現実が報告されただろう。いずれにせよ、こうした論議は、われわれ自身にとっても「遠い世界」の話ではない。

ドゥテルテ政権
に対する評価


最後に、本紙でも紹介した南シナ海をめぐる中国とフィリピン、ベトナムとの領有権をめぐる紛争について、ならびにドゥテルテ新政権に対するフィリピン左翼の立場について簡単に紹介したい。
ハーグの国際仲裁裁判所で七月一二日に南シナ海の大部分の海域について、自らの管轄権を主張し、岩礁を埋め立てて「領土」としての既成事実化を進める中国を批判する決定が出た。中国の拡張主義について、私たちははっきりと批判すべきである。このことは日本政府の「尖閣」領有に反対する立場と、全く矛盾するものではないことをわれわれは繰り返し確認している。われわれは、この中国の動きを自らの戦争国家体制構築・改憲の動きに利用しようとする安倍政権の狙いをきっぱりと批判する。
必要なことは、中国の軍事的拡張主義に反対するとともに、それを口実に米日そしてオーストラリアの主導の下でベトナム、フィリピンを巻き込んで対中国の実戦体制を築き上げようとする動きに反対する、アジアの民衆の国際的な共同行動を発展させていくことである。
今回のアジア・グローバルジャスティス学校の最中に、フィリピンの仲間が起草した「平和を築き、戦争を止めよう」の声明(本紙七月二五日号五面掲載)は、何よりもアジアの民衆運動自身による、そうした挑戦への一歩である。
なお新しく成立したフィリピンのドゥテルテ政権に対するフィリピン左翼の立場については「アンビバレント」(両面的)としか言いようがない姿勢が見える。ジョマ・シソン率いるフィリピン共産党(CPP)は、新人民軍(NPA)の解体を前提にドゥテルテ新政権がシソンの帰国を認めて閣僚の座につける意向を持っていることから、ドゥテルテに対して最も親和的である。またミンダナオのMNLF(モロ民族解放戦線)、MILF(モロ・イスラム解放戦線)の両組織も、ドゥテルテ政権がモロ民族の自治権・自治政府を認める姿勢を取っていることから、基本的にドゥテルテに好意的であるようだ。
私は、大統領選挙の結果についてどう考えるか、フィリピンの同志に聞いたところ、ドゥテルテは大統領候補の中では「よりまし」な存在だった、という評価だった。しかし彼の政策が、新自由主義的な枠組みの中にあることは間違いなく、その意味でフィリピンの仲間たちはドゥテルテとの関係では当然にも「野党」である、と自己規定している。しかし意識的に「野党」であろうとすることはフィリピン左翼の中では少数派らしい。
いずれにせよ「フィリピンのトランプ」と言われ、対外的には中国とアメリカとの関係で独自の立場を打ち出し、麻薬などの犯罪対策では「超法規的」な強権政治を進めているドゥテルテに対していかなる闘いを作り出すことができるか、新しい試練に直面していることをフィリピンの同志たちは自覚している。この難しい課題を共有し、共に討論していくことが必要だろう。    (国富建治)

コラム

茗荷の香りただよう日に


 八月一一日。夏空に入道雲が立ち、蝉時雨が降り注ぐなか墓参りに行った。
 テレビでは、毎年恒例の空港、新幹線、高速道路等の「帰省ラッシュ」による混雑状況を映し出している。都市へ、都市へと地方から「労働力」として若者が狩りだされ過疎化が拡がる「地方」と言う名の「故郷」に、僅かばかりの安息の時を求める人々の大移動だ。
 二〇一一年三月一一日に発生した東日本大震災。東北・関東に跨る太平洋側沿岸は巨大な津波に襲われたくさんの命が奪われた。「安否」を知らせる電話に、安堵と辛さが重なる日々であった。避難先に叔父を訪ねたのは「あの日」から数カ月後だった。再会の喜びと共に、堰を切ったよう吐きだされる「あの日」の出来事。「地獄だ……」、涙を流し話す叔父の姿。消え去ることのないあの日の記憶が今も彼を苦しめている。小さな部屋に充満した何とも表現のしようがない空気のなかで「墓に行ってみっか?」と、突然叔父が誘った。
 地震で陥没し大きな水たまりになった道路を慎重に運転しながら津波で破壊された街を進む。壊された家々の瓦礫や泥出し等の復旧作業をする住民やボランティアの泥だらけの姿がそこにあった。
 津波の跡も生々しいお寺と墓地。巨大な保冷車やトラック、乗用車が墓の上に押し上げられ、加工場の倉庫などから流れつき腐敗した夥しい魚が放つ強烈な「腐臭」が全身を覆った。
 還る場所が悲しみに包まれていた二〇一一年夏のお盆。
 六六回目の「月命日」の日。津波で荒れ果てていた土地に一〇〇戸程の平屋建ての復興住宅が立ち並び、集合型住宅も何棟も建っている。立ち寄った大きなスーパーは、お盆飾り、お供え、ご馳走を準備し、帰省する人を待つ地元の人々で賑わっていた。生花を買い、線香を手にお墓に向かった。花が添えられ線香の匂いが流れるこの墓地から、あの日の姿を想像することはできない。学校の二階部分に設置された津波到達点の表示板三m程の高さから当時を想い浮かべるしかない。
 車から集合型住宅を眺め「浜はみんな違う。やり方も気性も違うんだ。一緒の所に入れたってうまくいくわけね」。浜の集落ごとに生活してきた漁民が「コミュニティ」を無視し入居させた後に起きている様々な問題を叔父は語る。仮設住宅と復興住宅の狭間で起きている「孤立」と「不安」。
 「あの日」から事あるごとに発信される「復興の加速化」によって被災者・被害者の心をも「コンクリート」で固め、何もなかったかのようにオブラートに包み込もうとする。
 巨大堤防に登り、遠くまで拡がる青い海を眺めながら少年時代の楽しかった想い出を話す。
 広い砂浜が遠くまで続き、地元の人たちの生活と憩いの場だった海岸も潮が変わり、砂浜がどこかに流されていく。わずかばかり残った砂地におびただしいクサフグが打ち上げられていた。
 七・八メートルの巨大堤防が横一文字に空を切り裂き、壁の向こうに海が閉じ込められた。だが、本当に閉じ込められたのは「海」ではなく「人」。何事も作られた「安心」に取りこまれないように目を凝らしたい。
 いつもと違う天気を抱え、そこっと「秋分の日」が近づいてくる。お盆の節、茗荷の香り漂う「お葛かけ」を食す。 (朝田)


もどる

Back