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    かけはし2016.年9月5日号

今なお明らかにならない済州島事件


1948年4月3日は終わっていない

4年を超えた「村落別調査」で真実が

 1949年早春。6歳の子どもはうれしくなった。マウル(村)に戻りアボジ(父)、オモニ(母)と一緒に以前のように暮らすという思いに胸がふくらんだ。それほどにハルラ山・中山間の洞窟で過ごした冬は寒く、ひもじくて心細かった。だが1シーズンぶりに戻ってきたマウルは洞窟よりも危険だった。両手を挙げて降服するアボジや村内の青年たちの頭に、胸に銃弾が容赦なく飛び込んだ。軍人なのか、警官なのかも分からなかった。子どもは「アボジを助けてくれ」と泣き伏した。それが31歳のアボジの最後の姿だった。

67年間父の死を認められず


ひどい鞭打ちを受けたアボジをはじめとする青年たちは「東拓会社」(1945年の解放後、収容施設として使われていた東洋拓殖株式会社)に収容された。子どもとオモニはそこの別の部屋に閉じ込められた。20日後に子どもとオモニは釈放されたものの、アボジは軍事裁判に引き渡された。罪名はスパイ罪と内乱罪。懲役7年を宣告されたアボジは大田刑務所に移送された。だがアボジは今日まで済州の家族のもとに戻って来てはいない。
済州道済州市吾羅3洞に暮らしているヤン・ナムホさん(73)は済州4・3事件の行方不明者「ヤン・ホンスンの息子」としてその後の67年間を生きてきた。1948年5月、吾羅里ヨンミ・マウルで右翼各団体が勝手気ままにしでかした「吾羅里放火事件」以後、全家族が山に身を隠して冬を耐えなければならなかった幼い時節…。カネを稼ごうとして日本に密航した後で捕まり、日本と釜山で1年余りの受刑生活をしていた青年時代…。穏和な表情のヤンさんも「2度と思い出したくない」と時々身をふるわせる、そのような歳月だ。
その苦しい時間の中でもヤンさんはアボジのやりきれない死を受け入れることができなかった。行方不明になってから23年目の1972年、木浦刑務所で独中暮らしをして戻ってきた人から「6・25事変(朝鮮戦争を指す)の際に大田刑務所の人々は皆殺しにされた」という話を聞き、初めてアボジとの別れに覚悟を決めた。家の近所の畑に封墳(墳墓)なしの墓を建てた。「陰暦6月20日頃、出他未還(出かけたまま帰っていない)」。
去る7月25日、ヤンさんは4・3追加真相調査団の調査員と会い、苦しかった歳月を淡々と披露した。キム・ウンヒ委員はヤンさんの言葉をじっと聞き時折、尋ねた。ヤンさんの証言は動映像に録画され、ヤンさんが取り出したアボジの写真や関連書類は写真に収められた。犠牲者やその家族の証言を記録しながら4・3事件の真実に迫る「口述調査」の過程だった。ヤンさんはキム調査委員が「吾羅洞の被害実態調査」で出会った最初の遺家族犠牲者だった。
4・3事件の真相調査は今回が初めてではない。道民の粘り強い要求によって2000年に制定された済州4・3特別法によって、2003年に政府レベルの「済州4・3事件真相調査報告書」が作られた。だがそれは4・3事件の悲劇をすべて盛り込むことのできなかった「未完の報告書」だった。
4・3事件は実に7年7カ月にわたって勝手気ままにしでかされた人権蹂りんと不法の総合版だった。1947年3月1日、警察の発砲によって住民18人が死んだり負傷するという事件が導火線になった。当時、組織の露出によって守勢に追い込まれていた南朝鮮労働党(南労党)済州道党は1948年4月3日、「警察・西北青年団(注)の弾圧中止、南韓単独選挙・単独政府反対」を掲げて支署と右翼団体を攻撃しつつ武装蜂起を始めた。それ以降1954年9月21日まで武装隊と討伐隊間の武力衝突・討伐隊の鎮圧過程で数多くの住民が犠牲となった。
4・3事件での死亡者1万245人、行方不明者3578人、後遺障害者163人、受刑者245人(公式決定現況)が発生した。まだ申告されていない件数を含めれば犠牲者は2万5千から3万人に達するだろうとの推定も出ている。2〜3年間の真相調査では真実の糾明が不可能なことだったのだ。

発見されていない集団犠牲の跡

 これについて済州4・3平和財団は2012年3月から「マウル別の被害実態調査」を繰り広げている。道内マウルの件数調査をするのに、調査期間を「2014年末」から「2016末」へと2年、増やした。
なぜマウルが重要なのだろうか。「犠牲者の1人1人がなぜ、どのようにして死に至ったのかを鮮明に明らかにするために」だとキム・ウンヒ調査委員は説明した。今日まで犠牲者の数によって大まかに明らかになった4・3の残酷性を、個人の悲劇的な生として、くまなく探ってみる過程だ。
この過程で新たな事実が明らかになったりもした。1950年当時、表善国民学校(小学校)で爆発物の事故によって国民学生30余人が死傷することが発生した。事故原因は60年を超えてなお埋もれていた。だが追加真相調査団の調査結果、当時の事故は4・3討伐隊としてやってきた軍人らが軍事訓練をした後、ほったらかしのままで去っていった爆発物によって発生したという事実が明らかになった。無念にも亡くなった子どもらの霊魂が4・3事件の犠牲者として認定される道が開けたのだ。
「マウルごとに調査する過程で、我々が知らなかった犠牲の場所が発掘され、申告されていなかった犠牲者のケースも出てきている」。キム・ウンヒ調査委員の説明だ。
だが真相調査は終わりではない。追加として表れた犠牲者や遺家族が政府に公式に申告しようとしても、しばらくの間、待たなければならない。4・3特別法の施行令を改正して追加申告期間を明示しなければならないからだ。2013年2月を最後に犠牲者の申告は中断された状態であり、パク・クネ政府において追加で実現される計画もない。

消えて行かない黒い歳月

 むしろパク・クネ政府は、以前の政府において適法に決定された犠牲者の再審査を押し付けている。ファン・ギョアン国務総理(首相)は去る2月「4・3犠牲者の中の1人、2人であっても大韓民国のアイデンティティーや自由民主的基本秩序を損なった人物がいるならば、審議を通じて犠牲者から除外しなければならないのではないのか」として「犠牲者の再検証」の意志を明らかにし、4・3遺族の強い反発を買った。2003年、ノ・ムヒョン大統領が国家権力の乱用を公式謝罪したにもかかわらず、この9年間の保守政権の下で、4・3事件を「暴徒たちがひき起こした反乱」として歪曲しようとする極右勢力の試図が続けられた結果だ。
このような雰囲気の中で、犠牲者の無念の死を悼み、名誉を回復する措置である国家賠償の問題は論議さえできずにいる。済州のホ・ヨンソン詩人の詩「真鍮の匙(しんちゅうのさじ)」は4・3事件によって27歳で夫と生き別れになった、ヤン・ナムホさんのオモニ、ムン・イムセンさんの一生を描いている。
「毎朝あったかいご飯をひと椀、差し上げた/食器からはいつもほっかほかの湯気/夫の目から流れる風が流れ落ちた/何も知らないことが罪だった/生きるということ1つで耐えぬいた/黒い歳月/朝げ夕げに真鍮の匙1つを磨いた/ピカピカにピカピカに磨いた」。
黒い歳月は、まだ過ぎ去ってはいない。(「ハンギョレ21」第1123、1124合併号、文ソ・ボミ記者、写真チョン・ヨンイル記者)
注 北での民主改革で追われた越南民。極右反共集団。済州島にあって警察官の手を縛っていた最小限度の法的制約もなく、「アカ狩り」を名分とするテロ行為はもとより、ゆすり、脅迫、婦女暴行など非道の限りを尽くした。(岩波新書『韓国現代史』より)

ヤン・ナムホさん(73)が7月25日、済州市吾羅3洞の自宅で父ヤン・ホンスンさんの若い頃の写真を見せている。済州4・3事件によって、無念さの中で大田刑務所に収監されていたヤン・ホンスンさんは朝鮮戦争の際、軍警に殺された。昨年、大法院(最高裁)はヤンさんを「朝鮮戦争における良民虐殺」の被害者と認定した。

時代が変わっても5・16はクーデター

対談形式で5・16を緻密に分析
〈ソ・ジュンソクの現代史物語3〜6〉

 軍事独裁勢力が数十年間、大韓民国の権力を掌握した過去がある。その始まりはパク・チョンヒの1961年5・16クーデターだった。
パク・チョンヒ勢力は当時の民主的合憲政府を軍事クーデターによってうち壊し、憲政を2年以上も中止した。彼らは1961年のクーデターから1週間後、一切の政党や社会団体を解散すると発表した。いわゆる「布告令6号」だ。労働組合も解散された。定期刊行物1200余種を廃刊した。批判的言論に、くつわをかませた「現代版の焚書坑儒」だ。

哲学なき軍人の
反革命クーデター
パク・チョンヒは、その年7月の定例記者会見で「韓国言論は怖いからなのか、キチンとした批判や論評をしていない」という外信記者の質問に、「革命後1週間で新聞に対する統制を解除したし、言論人たちが恐がっているだとか、おじけづいているがゆえに論評や批判をキチンとしていないということは初めて耳にすることだ。それが事実であるならば、言論人たちの気概が足りないからだ」だと語った。その年の12月には「民族日報」チョ・ヨンス社長など抵抗勢力を処刑した。
パク・チョンヒ勢力は1962年に国家保安法を改正し、政府批判勢力を最高死刑にまですることができるようにした。統一運動や反政府運動は「特殊反国家行為」として取り扱われた。「反共」を国是とし、南北関係の自主性のようなことは、はなから求めようもないことだった。韓国(朝鮮)戦争当時の民間人虐殺事件のような現代史は、学界でさえ扱うことができなくなった。軍人たちが「革命裁判」を通じて司法権を握りしめ法治主義さえ裁ち切りねじまげていた。地方自治も事実上、この時から完全に崩壊した。
「ソ・ジュンソクの現代史物語3〜6」でソ・ジュンソク成均館大名誉教授(歴史学)は対談形式を借りて、パク・チョンヒが主導した5・16クーデターの性格を緻密に記録した。5・16は「反革命軍事クーデター」だ。ソ教授は「革命か、反革命かという問題に関連して幾つかの基準を考えることができる。自由または民主主義との関連でクーデター勢力がいかなる役割を果たしていたのか、また社会的革命や経済的革命をしようとしていたのかどうかなどが主たる焦点となるだろう。分断の固着化なのか統一志向なのか、この問題も重要だ。このような点から5・16クーデターの基本的な性格をうかがい知ることができる」と語った。
合わせてソ教授はパク・チョンヒは哲学を基盤にした政治思想を持った人物ではない、と指摘する。パク・チョンヒは韓国人たちの民族性が低劣だと信じこんでいたし、植民地の奴隷根性を改造しなければならないという思考も持っていた。議会主義や政党政治に対する反感、極端な反共政策がパク・チョンヒ思想の本質だった。「独裁者の娘」が再び権力を握るとともに、5・16の反革命的性格を歪曲しようとする意図が引き継がれる。極右性向のある歴史団体が最近、5・16について自問自答した強引な結論は、こうだ。「5・16はクーデターなのか。クーデターではない。軍の命令を拒否して威化島回軍をしたイ・ソンゲ(注)のようなケースがクーデターだ。軍人も民衆の一部分であり、パク・チョンヒ少将以外に軍人や民間人たちが参加していたし、軍人たちは軍の命令を受けてそれを拒否したという事実はなかったがゆえに、クーデターではなく革命だ」。

ハム・ソッコン
の正確な予言
だが、本で引用したハム・ソッコン先生の5・16に対する評価は、こうだ。「1960年の4・19革命が信じたのは正義の法則、良心の権威と道理だったけれども、5・16クーデターが信じたのは弾丸と火薬だ。それぐらいに劣る。革命は民衆のものだ。軍人は革命をすることができない。必ずや時が至れば民衆とのすきまができる日が来るのは当然のことだ」。(「ハンギョレ21」第1122号、16年8月1日付、ホン・ソッチェ記者)
注 李朝初代の国王(在位1392〜98年)。1388年、満州を占領した明軍を攻撃する高麗の指揮官となったイ・ソンゲは遼陽遠征の途上、鴨緑江下流の威化島から全軍を引き返し、政治・軍事の最高権力を掌握した。(「朝鮮を知る事典」平凡社、より)

朝鮮半島通信

▲韓国与党・セヌリ党の国会議員一〇人が八月一五日、日韓が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)を訪れた。議員一〇人は同日午前、現地の韓国警備隊を激励したほか、同地を訪れた市民団体などと交流した。
▲韓国統一省報道官は八月一七日、朝鮮民主主義人民共和国(以下、「朝鮮」)のテ・ヨンホ駐英公使が最近、夫人や子どもと共に韓国に亡命したと発表した。同省は「過去に脱北した朝鮮の外交官の中では最高位級だ」としている。
▲日本と韓国両政府は八月一二日、慰安婦問題に関する昨年末の日韓合意に基づき、韓国政府が先月に設立した「和解・癒やし財団」の事業内容について大筋で合意した。岸田文雄外相が韓国の尹炳世外相と同日夕に電話で協議した後、外務省で記者団に明らかにした。
▲米国と韓国による合同軍事演習「乙支フリーダムガーディアン(UFG)」が八月二二日、韓国各地で始まった。九月二日まで行われ、韓国軍約五万人、米軍は増援勢力二五〇〇人を含む約二万五〇〇〇人がそれぞれ参加する。
▲「朝鮮」によるSLBM=潜水艦発射弾道ミサイルの発射を受けて、対応を協議していた国連の安全保障理事会は、八月二六日、朝鮮による一連のミサイル発射を厳しく非難するとともに、朝鮮に対して、安保理決議を確実に順守するよう求める報道機関向けの声明を発表した。
▲韓国の朴槿恵大統領は八月二四日、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を発射した北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長について「性格が予測困難で、脅威が現実化する危険性が非常に高い」「独裁で非常識的な意思決定体制だ」と批判した。


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