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    かけはし2016.年7月11日号

一層進む混迷を前に
対応可能なオルタナティブとは



スペイン

総選挙結果と残された課題

ハイメ・パストル


 六月二六日のスペイン総選挙は、事前予想をくつがえし、現(少数)政権党のPPの伸長、ポデモスの第二党未達成(現状維持)となった。直前の英国でのEU離脱国民投票結果が影響したとも評されている。しかし今回の結果でも、過半数政党がなく安定政権が困難という事情に変わりはない。英国から波及するEUのさらなる混迷を含め、新しい発想による左翼の対応が求められる中、そのひとつの挑戦として注目されたのポデモスの問題を含め、現地の同志による速報的評価を紹介する。(「かけはし」編集部)

変革ではなく
反動への傾き

 「二回戦」と呼ぶことも可能なものは、昨年一二月二〇日の前回総選挙から棄権率が四%上昇した。その結果は以下のようになった。
国民党(PP)は、得票数を増大させ(六〇万票増、得票率三三%)、議席数も一三七(前回一二三に対し)となった。社会労働党(PSOE)は、一〇万票減(得票率二二・七%)並びに五議席減ながら、この国での第二党にとどまった。ウニドス・ポデモス(UP)は、一〇〇万票以上減らし、変革の政治的表現として現れることができなかった。UPの圧力に対処を迫られていた体制には、安堵が生まれている。
グッドニュースとしては、シウダダノスの実質的後退であり、この党は、「死票にしない」という問題を利用できたPPを利す形で、四〇万票と八議席の減となった。カタルーニャでは、自治/親独立諸政党に向かった五六・六%をもって、自立支持多数の頑強な持続に言及できる。
ほとんどの世論調査が予測したことからはまったく異なったこの結果を分析し、特に右翼支持を決めていたわけではなかった有権者の動きに対する、ブレグジット(英国のEUからの離脱:訳者)の影響を検討するには時間がかかるだろう。そうであってもわれわれは今や、この結果がバランスを変革へではなく、逆に保守主義と反動へと傾けるものとなるだろう、と理解することができる。

不確実性深まる
情勢が問うもの


いずれにしろ、政府を元通りに戻すことは簡単ではないだろう。つまりPPは政府の形成に当たって、シウダダノス(三二議席)と「コアリション・カナリア」(一議席)の支持だけではなく、バスクPNV(右翼自治主義派―五議席)とPSOE(八二議席)の棄権にも頼らざるを得ない。そしてシウダダノスとPSOEは圧力の下に、選挙キャンペーン中はこの仮説を除外してきたにもかかわらず、今回の選挙を通して強化されて現れたラホイ(PP)にこの政府が指導されるだろう、ということを受け入れることを迫られている。
特にPSOEに対しこの圧力はすでに動き始めている。エル・パイス紙(スペイン最大の日刊紙)の今日の論説に注目すれば、それは、PSOEは棄権をもって、投票箱が決定したことを支持する者たちによる政権確立を「容認」することが必要だ、と語っている。
ブレグジットが、EU構想の破綻、およびユーロ圏がなおのこと債権者と債務者の間で分極化しているということを明らかにする中で、われわれが見出していることは、確実なただ一つのことは不平等の成長と緊縮に反対する社会的かつ政治的運動の成長である、というような不確実な情勢の中に自身がいることだ。
挑戦課題は、どのような勢力がこの実体的な沈滞に対応できるか、を知ることとして残っている。つまり、経済グローバリゼーションに順応するネオファシズム再建のために難民と移民を敵視する「立腹の政治」で波乗りをもてあそぶ勢力か、それとも、欧州南部を始点に民衆間の連帯の回復のために、また債権による独裁と外国人嫌悪に反対し力を尽くす、新たな社会的・政治的オルタナティブか、ということだ。

異なった主張併置
一定の混乱導く


UPに関しては、カタルーニャ、バスク国、ナバラで初めて現れたにもかかわらず、ポデモスと統一左翼(IU、共産党を中心とする左翼連合)の連合によって高められた希望が投票箱で満たされることはなかったということは明白であり、この連合は、世論調査が予測したようには、PSOEを票数で上回ることはなかった。
われわれはもちろんその理由を、またわれわれが失った一〇〇万人を超える有権者の選択を分析する必要があるだろう。一つの理由として考えられる可能性のあるものは、異なった主張の短期的な併置だろう。それは確かに、IUとポデモス双方の潜在的な支持者を混乱させた。
こうして、昨年九月二七日のカタルーニャ議会選でその限界を諸々示すこととなった「民族主義ポピュリズム」的主張を経て、最終的に「ホームランド」という新しい考え方に戻る前に、ある種のより「多民族」的取り組み方が採用された。そしてその最後の考え方は、われわれが知るように、逆効果を招いた。
同時にわれわれは、昨年一二月二〇日以後、「カーストに対決する民衆」という主張から、より型にはまった「左翼」的主張へと進んできた。そこには、PSOEを左翼の一部と分類することも含まれている。これは、IUの強い求めへの対応だ。彼らは、いわゆる決裂の左翼が占めている空間を再獲得したいと思っていた。そしてこの考え方は最終的に、カリスマ的指導者としてのさび付きが今や明白となっているパブロ・イグレシアスの、幾分混乱した主張によって取り込まれた。

協働への新しい
枠組み再創出へ


この主張の様々な限界と矛盾は、原理的な諸問題をめぐる綱領的な曖昧さから、むしろもっとはなはだしいものとなっている。原理的な諸問題としてはたとえば、もっとも明白と言えるのだが、トロイカや債務、あるいはあらためてシリザの経験に対する批判的評価に対して取られるべき姿勢、などがある。これらの諸限界は、他の諸政党とは区別されたある種の組織をもって、地域的支えを獲得するという目標に達しなかったがゆえに、なおのこと重要になっている。
選挙戦機構としてのこの「モデル」は、結局のところ全く型にはまり、トップダウン型であり、大して多元的でもないということが分かった。そしてこれは、数知れない内部的な危機を作り出し、諸分野に水を注ぎ込むために必要な、また必要性が非常に高いものの不十分なテレビとインターネットのキャンペーンを仕上げるために必要な、そうした組織を建設する努力を搾り取った。
しかしながら問題は、極端な自責や清算ということではまったくない。「イエス・ウィー・キャン」(ポデモス:訳者)であるからには、問題になっているものは、共に活動する総意の新しい枠組みを追求するために、連帯、友愛、多元性の尊重という空気の再建だ。
これに向けてわれわれは、あらゆる戦線でより多くの「立場の戦争」を必要としている。緊縮およびそれらを実行する体制との決裂と変革を支える社会的諸組織との結びつきを再建するために、われわれを統一するものを再定式化し、首尾一貫したやり方で政治的に提案することは、今や一反対派としてのわれわれの役割だ。

▼筆者は、政治学の教授であると共に、アンティカピタリスタス(スペインの第四インターナショナル支部)メンバー、またビエント・スル誌の編集責任者。彼は、彼もその一員であるポデモスを発進させることになる二〇一四年一月の最初のアピール、「ギアチェンジを:憤りを政治的変革へ」に対する署名者だった。(「インターナショナルビューポイント」二〇一六年六月号)

フィリピン

新たな強権的政治指導者 B

混合と合同による選挙

アレックス・デヤング

経済政策はより
進んだ自由化へ

 ドゥテルテは自身を、社会主義者であり、フィリピンで初めての左翼大統領であると公言した。しかし、これがデマゴギー以上の何かであると信ずべき理由はほとんどない。彼の大統領期の諸政策は、前任者と同じものがより多くなるように見える。
ドゥテルテは、勝者となることが確実になってやっと、アキノの経済政策の主要線にしたがうつもりだ、とはっきりさせた。資本は好意的に応じることになった。選挙から二、三日後、ブルームバーグ(米国を本拠とする経済通信社:訳者)は、ドゥテルテは「ビジネスに友好的な指導者への彼の転換によって、フィリピンの金融市場を再び活性化中」と報じた。
彼の最初の経済に関する諸言明は、彼の内閣としてほのめかされたいくつかの名前(ほとんどが既成エリートの人物であり、その多くは前政権で統治をになった者たち)共々、金融界の巨人であるJPモルガンから賞賛を引き出した。この巨人は、「金融市場は現マクロ経済政策を維持することに関する次期政権の明白な約束を歓迎するだろう」と宣言した。
事実として見えていることは、ドゥテルテが、アキノあるいはロクサスがやると思われたものよりはるかに深くフィリピン経済を自由化するだろう、ということだ。彼は、より多くの特別経済圏を組織し、企業課税を引き下げるために、フィリピン内企業に対する外国人所有権に関する憲法上の制限を外したいと思っている。

票買い取り選挙
の中左翼は苦闘

 左翼は、恩恵供与による支持固めと腐敗が支配する選挙の戦場に足場を得ることがほとんどできないまま、上に述べた動きに反対することがうまくできてこなかった。
マルコス独裁体制の倒壊後、民族民主派は、パルティド・バヤン(人民党)を組織したが、二回の選挙が失望を呼ぶものに終わった後、この党は「事実上自ら解散した」。その間にあった年月で、状況はさして改善されなかった。
二〇一〇年、二人のよく知られた民族民主派の候補者、サトゥル・オカンポとリザ・マザが上院選に立候補した。しかし彼らも、勝者となる一二人に入ることはできなかった。マサは、三六〇万票で二五位、一方オカンポは、三三〇万票で二六位だった。二〇一六年、ただ一人の民族民主派上院候補、ネリ・コルメナレスは、六五〇万票を集めた。しかしそれでも二〇位であり、議席には届かなかった(フィリピン上院選は一二人連記制)。

党リスト選挙に
も既成支配層が


フィリピン左翼は、いわゆる党リスト選挙でもっと多くの成果を残してきた。フィリピン下院の五七議席(全体の二〇%)は、党リストのために割り当てられている。そしてその議席部分は、他のやり方では代表をもてないと思われる部分、つまり地理的に分散し周辺化されているグループ、を代表するものとして想定されている。フィリピン人は、選挙区候補に加えて党リストの一つにも投票できる。
最初の党リスト選挙は一九九八年に行われ、フィリピン議会への左翼の復帰が実現した。サンラカスやアクバヤンといった何人かの社会主義者、社会民主主義者のグループが議席獲得に成功した。
二〇〇一年、民族民主派はバヤン・ムナ(国民第一)という組織をもって選挙政治に戻った。その時以来彼らは、党リスト選挙で他の左翼諸勢力をしのぐこととなり、異なった層に狙いを絞ったさまざまなリストを組織してきた。
しかし左翼はここでも同じような闘争を続けている。略奪者的性格をもつエリートは、この制度が政府資源に近づくために利用できることを発見した。そして自分自身のリストを組織したのだ。
事実として、もっとも成功を収めているリストのいくつかは、それが代表するものと想定している周辺化されたグループとはほとんど関係ない。代わりに、ビジネスマン、政府高官、そして政治的家族メンバーが議席を得るためにこのリストを利用している。

アクバヤンの選
択に民衆の不信


左翼が寡頭支配層が設けた諸々の障害を克服しようと挑戦してきた一つの道は、既成のブルジョア政党との連携を通すものだ。しかしこれらの連携は、左翼が広範囲にわたる政治的譲歩を行うことを必要とする。
これが、アクバヤンが選択した道だった。ちなみにアクバヤンは、元々はさまざまな社会主義グループと社会民主主義グループ間の一つの連合として創出された。そしてその連合は、より成功を見た左翼の選挙陣形の一つとなっていた。
しかし二一〇一〇年、この連合はベニグノ・アキノと彼の自由党と連携した。アキノ政権を通じてアクバヤンは、次々に政府に近づき、自身を二〇一六年の政権候補者に――それが誰になろうと問題にすることなく――関与させた。
アクバヤンの連携策は、少なくともその上院候補者、アナ・セレシアにとっては、成功したように見える。彼女は、左翼としての全体像を後景に引き下げ、自由主義的改革者とほとんど区別できなくなりながら、最終的に、この策を一二位の獲得に結果させた。しかしアクバヤンそれ自身は、今回の党リスト選挙で五位(二〇一三年)から一三位に後退した。
アクバヤンのもっとも知られている議員であるウォルデン・ベローは、アキノと彼の自由党に対する無条件的支持に満足せず、二〇一五年に下院議員を辞任した。ベローは、今年彼の党が示した貧弱な結果を評して、「この点で党に触れたくはないが、しかし問われた以上は、二〇一三年からの二〇万票以上の喪失と五位から一三位への滑り落ちは、〔党に対する〕自由党との同一視〔におそらく原因があった〕、と考えている」と語った。

ブルジョア政党
への左翼の従属


民族民主派、バヤン・ムナの結果もまた、失望を呼ぶものだった。この党は二〇〇一年に、当時の大統領、グロリア・マカパガル・アロヨの支持を得て出発した。ドミニク・カオケッテはCPP(シソン派のフィリピン共産党)に対する二〇〇四年の彼の研究で「CPPは明白に、マカパガル・アロヨ一派から支援を確保できた。この一派はバヤン・ムナを助け、この党リストに対する最大票数と可能な最大の議席を受けさせた」と書いた。しかし今年バヤン・ムナは、一四位に後退した(二〇一三年の三位から)。
民族民主派陣営は規則的に、文書化された政治協定を基礎に、ブルジョア諸政党との連合を創出している。
問題となることは、この協定の商取引的性格だ。つまり民族民主派は、キャンペーン諸資源および宣伝と引き換えに、彼らの草の根の支持者票を提供しているのだ。こうした諸々の連合は、下院議席を勝ち取るが、しかしそれは左翼をブルジョア政党の従属的なパートナーに結び付けているがゆえに、独立した左翼運動の建設に向けてはほとんど何も役立っていない。
それはまた、二〇一〇年の時のように、予想外の連携にも導いてきた。その時民族民主派は、上院に向けて運動中だった(その後判明したように成功を見た)、故人となった独裁者の高慢な息子、フェルディナンド・ロムアルデス・マルコスジュニアと政綱を共にしたのだ。    (つづく)

 


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