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    かけはし2016.年3月14日号

無視された抗日抵抗戦の死者


天皇・皇后のフィリピン「慰霊」訪問

改めて問われる私たちの「歴史観」

敗戦70年談話
と天皇・皇后


 天皇・皇后は、一月二六日から三〇日までの日程で、天皇としての初のフィリピン訪問を行った。二〇一〇年のサイパン、二〇一五年のパラオ共和国につづく、三回目の「戦死者への慰霊」海外訪問となった。
この天皇・皇后の慰霊訪問については「訪問に同行した私は、自らの行動によって忘れ去られつつある戦争の記憶を喚起し、平和を願う両陛下の真摯な姿を垣間見た」という毎日新聞東京社会部・高島博之の「記者の目」欄の記事(二月一〇日朝刊「記者の目」欄)あたりが、最も平均的なマスコミの評価だったと思う。
同記事は「歴史と向き合う真摯な姿勢発信」という見出しで「天皇陛下が、自らの発言や行動を通じて、時代とともに忘れ去られつつある戦争の記憶が、正しく伝えられていくことを願っているのではないかと感じている」と語り、三回の海外「慰霊訪問」を通じて、「国籍を問わず戦没者への追悼の思いを示してきた」ことを特記した。そして「両陛下が示した戦争の歴史と正面から向き合う姿勢こそ、『友好親善』の深化につながるものであると強く感じる」と締めくくっている。
この明仁・美智子天皇制の相対的な「護憲・リベラル的」姿勢を安倍「戦争国家・改憲」政権との対比で、期待をかけるメディア言説に対して、私たちもその一員である反天皇制運動の側は厳しく批判してきた。
「安倍をたたくために天皇の権威に頼ること自体、民主主義とはほど遠い心性であるが、何よりも天皇制は国家の一つの機関であり、天皇の『おことば』とは国家のことばであることが、繰り返し強調されなければならない」「確かに、象徴天皇制を柱とする戦後秩序に立脚しようとするかに見える天皇の言動と、安倍個人のイデオロギーとの間に、事実として齟齬はあるかもしれない。けれども、そうであったとしても、それは全体としての政治のなかで調整され、結果としてそれぞれに役割を果たすものだと考えられなければならない」(安倍戦争国家と天皇制を問う2・11反紀元節行動 集会基調)。
この基本に立った上で、私は別の角度から、天皇がフィリピンで繰り返し語った「慰霊」のことばの中の重要な文脈の一つを問題として取り上げてみたい。

フィリピン人
死者の意味


私がここで敢えて問題にしたいのは、一月二七日にマニラのマラカニアン宮殿(大統領官邸)で天皇が「おことば」として語った次のような内容である。
「昨年私どもは、先の大戦が終わって七〇年の年を迎えました。この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、このことにより、貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私どもが決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます」。
フィリピンで戦死した日本人は五一万八〇〇〇人、それに対してフィリピン人の死者は一一〇万人に達するとされる。しかし戦争は日米間のものであり、日本人を倍する一〇〇万人以上のフィリピン人の死者は、日米間の戦闘に「巻き込まれた」結果だったのだろうか。天皇の「おことば」や報道ではフィリピン人の死者は、日米両軍の戦闘に「巻き込まれた犠牲者」という存在として扱われている。
しかしそうではない。ここでは明らかに侵略した日本軍とフィリピン民衆との間での「戦争」が存在したのである。たとえば「死の行進」として知られるバタアン半島での米比軍捕虜八万人のうち、米国兵が一万人以上いたが、残りはフィリピン人兵士だったという。
日本軍は米国との戦争を背景に、フィリピンに対する侵略戦争を行った。この日本軍の侵略に対して、米国の植民地支配に抗する独立のための闘いを展開していたフィリピン民衆は、新たな侵略者として現れた「天皇の軍隊」に対するさまざまな形態でのレジスタンスを通じて、独立運動を継続した。当時のフィリピン共産党は占領日本軍による「対日協力」の誘いを拒否し、一九四二年三月「抗日人民軍」(フクバラハップ、略称フク団)を発足させた。
「天皇の軍隊」は、フィリピン人による抗日レジスタンスを徹底的に弾圧した。占領日本軍によるこの抗日レジスタンス勢力との闘いは、ルパング島における小野田寛郎少尉の、一九七四年まで戦後二九年間にわたる「戦争」につながっている。
他方、現ベニグノ・アキノ大統領の祖父に当たるベニグノ・アキノ・シニアは、日本軍のフィリピン占領当時、日本軍と協力した行政府の幹部であり、彼は日本軍との協力と「独立」をセットで考えていたと言われる。しかし日本の軍政当局にとって「独立」は禁句だった。
「フク団は(一九)四二年末に完全武装勢力約一万五〇〇〇人、最大約二万人の常備軍を持っていたといわれる。普段は農耕に従事しているが、常備軍と交代可能な予備兵も五万人から七万人を数えたとタルク(フク団司令官)は言う。中部ルソンが、フク団領(フクランディア)と呼ばれたわけである。日本軍に対する最初の攻撃は、フク団が結成される前の四二年三月一三日、カンダバ湿地帯(ブラカン州)で行われた。指揮官はダヤンダヤンという女性で、日本軍と国警隊に約一〇〇人の死傷者がでる大戦果をあげたといわれる」(鈴木静夫『物語フィリピンの歴史 「盗まれた楽園」と抵抗の500年』中公新書)。

レジスタンス
から見た歴史


フク団は中部ルソンの農村地域で、地域住民と協力して日本軍から村落を防衛するために村落統一防衛隊(BUDC)を組織し、地主勢力を追放して広範な自治を作り出していった。
フク団による日本軍へのレジスタンス運動の拡大は、フィリピン反攻を準備していた米軍にとっても望ましいことではなかった。
「米軍の反攻作戦が始まると、無数のゲリラが雨後のタケノコのように生まれた。……皮肉なことにゲリラ間の統合が進み、強大化することは、米軍にとって好ましいことではなかった。第一に、それでは、『米軍によるマニラ解放』ではなくなり、マッカーサーの『私は必ず帰ってくる』という声明も茶番になる。戦後政治を考えれば、解放はどうしてもマッカーサー軍によらねばならなかった。したがって、日本軍との交戦を禁じた“Lie Low”(待機せよ)命令が、直接マッカーサーから出されたのである」(鈴木、前掲書)。

今日につながる
抵抗運動の伝統


私たちは天皇の「おことば」に示された、フィリピンでの戦争をもっぱら米日間の枠組みで捉え、フィリピン民衆の戦前・戦中・戦後から現在に至る現実の中にどう位置づけて理解するかを排除する歴史観を批判する必要がある。たとえば今回のマスメディアの報道の中では、日本軍の侵略戦争がフィリピンの戦後史にとって何をもたらしたのかについての大枠での整理や、フィリピンの日本軍「慰安婦」問題についての言及も欠けていた。
二〇〇九年にフィリピン・ミンダナオ島西北部の海辺の町を訪れたとき、現地の若い仲間が遠くに見える美しい姿の山を指さしながら、「あそこで今年九〇歳になる僕のおじいさんが戦争中に抗日ゲリラに従事していたんだ」と私に教えてくれたことがある。その地域は、今も仲間たちの闘争の拠点だ。
過去は現在と複雑にもつれたり、ほどけたりしながらつながっている。私たちはそのことに思いをはせる努力を怠ってはならない。        (純)

2.28

あきた立憲ネット結成

秋田からも統一候補を

参院選に向けて始動

 【秋田】二月二八日、協働社大町ビルにおいて、一五〇人を結集して「安保法制(戦争法)廃止・立憲主義を求める秋田ネット(略称:あきた立憲ネット)結成総会が開催された。
司会からは結成の経過と趣旨が提案され、当面の活動内容として参院選で野党(無所属)の統一候補を擁立することを求め協力・共同していく中から安倍自民党政治を許さない闘いを秋田の地からもつくり上げていこうと提案された。

シールズ
からアピール
集会ではシールズの本間さんから「一二月二〇日の『市民連合』の結成は歴史的なできごとであり、当面する参院選も楽な闘いではないと思うがその後もみすえて闘っていきたい」と報告があった。
政党からは、初めに社民党より「三党(民主、共産、社民)協議のテーブルを呼びかけた」こと、共産党からは「これまで昨年一二月から三度の三党協議を行ってきた」こと、民主党は「本日結成される『あきた立憲ネット』の皆さんの意見を最大限生かしていきたい」との発言があった。
秋田においてまだ野党統一候補者名は具体的に出ていない状況の中で、会場からは「『あきた立憲ネット』から積極的に候補者名を上げていくべきだ」との声が上がった。
なお二月二五日現在二九団体八一人の個人が賛同している。主催者の「想像以上の結集を得た、この勢いを参院選につなげていこう」とのまとめを受けて『あきた立憲ネット』は出発した。        (H)

投書

映画 「天皇と軍隊」
   (フランス映画)を観て

SM

 「天皇と軍隊」(渡辺謙一監督作品/二〇〇九年/フランス映画)を観た。
 本野義雄(もとの・よしお)氏(『市民の意見』編集委員)は、述べる。「当時、ソ連やオーストラリアをはじめ、連合国の間でも裕仁の戦争犯罪を裁くべきだという声が高かったにも拘わらず、なぜ天皇の地位は新憲法で保障され、天皇制は存続させられたか。映画「天皇と軍隊」はこのような疑問から出発する」。
 「象徴としての天皇の地位を定めた憲法第1条と、国際紛争解決の手段としての戦争を放棄した第9条は、いわば引き換えの条件だった、というのが渡辺謙一監督の主張である」。「一九七五年の記者会見で、広島への原爆投下について記者に訊かれた裕仁が、口ごもりながら「広島市民にはまことに気の毒だったが、(戦争終結のためには)やむを得なかった」と述べる場面が出て来る。画面は変わって、一九四七年、広島「巡幸」のさいのニュース映像。
 「二万人の大群衆が歓声をあげ、裕仁は帽子を振って応えている。背景に、紛れもなく原爆ドームがはっきり映っている。日本の戦後史を象徴するような映像だった」(『市民の意見』第151号、28ページ)。
 市場淳子氏(在韓被爆者支援活動家)は、述べる。「一九八九年一月の昭和天皇の死去に際し、韓国原爆被害者協会(現在の会員は二六〇〇人)は声明文を発表した。韓国人原爆被害者が受けた被害に対する昭和天皇と日本政府の責任を追及するものである。「昭和天皇の長い統治時代において、もっとも不幸であったことは、いうまでもなく第二次世界大戦であったと言えよう。彼が日本帝国を統治しながら開戦の詔勅を下し、三〇〇万名の日本人戦没者たちが『天皇陛下万歳』を叫びながら死んでいった事実を想起すれば、彼が戦争責任を免れる術はないものと思うのである。大戦を終結させた広島・長崎の原爆投下においても、数十万の非戦闘員が犠牲にされ、両都市が瞬間に壊滅され、特に罪なき韓国人の被害が全体の一割を越えるということなど、人類史上最大の惨事であったにもかかわらず、裕仁天皇は『戦争だからしかたなかった』と答えるほど、無責任な態度を固守したということを、私達は忘れることができない。被爆四五年を迎える今日まで、裕仁天皇と日本政府は脈絡を同じくしながら、私達に一言の謝罪も、一文の補償も行わなかった。私達は、こうした現実を、呪いと痛憤の心情をもって歴史の前に明らかにするものである。日本政府は裁判に敗訴して、法的にも道義的な立場からも窮地に追い込まれるや、韓国人被爆者の渡日治療とかの弥縫策をもって現実を隠ぺいしようとするなど、終始一貫冷酷な態度を捨てずにいるのである。私達は少なくとも生存権が認められなければならない。また、この間の被害補償金として二三億ドルを請求しているのだが、今日まで責任ある当局者からの回答はないのである。裕仁天皇はすでに逝ったが、その代を受け継いだ明仁天皇の即位を契機として、日本政府は心機一転して過去の残虐であった植民地統治と日本韓国アジア全体で二〇〇〇余万名を犠牲にした第二次大戦の傷跡をきれいにいやすことに最大の誠意をみせることを促してやまないのである。 一九八九年一月一〇日 社団法人・韓国原爆被害者協会」(『反天皇制運動カーニバル』33号、4ページ)
 広島への原爆投下は「やむを得なかった」と言ったヒロヒトは許せない。天皇制は許せない。天皇制は廃止するべきだ。私は、そう思う。
(2016年2月28日)


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