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    かけはし2016.年3月7日号

学生運動ではなく人生の選択


追悼

川出勝君の闘いとその経過

宮本 明

第一印象は
「哲学青年」


 その死は余りにも突然で、私たちは今なおその死を信じることができないし、受け入れることはむつかしい。川出君は、最近、新しい団地に引越し、現代世界の諸問題の考察や分析、安保法制などの活動への取組、出版活動への意欲を新たにしていたばかりのところであった。深刻な病に長年、悩まされているわけでもなかった。少し血圧が高く降圧剤を飲み続けていたが、普段はいたって元気に過ごしていた。その彼を、予期せぬ形で突然の心臓発作が襲い、われわれに別れを告げぬまま、突然、逝ってしまった。それは余りにも唐突であり、今も、国会前や日比谷公園で、アジア連帯講座やアタック・カフェで、また東京東部のさまざまな催しで、いつもと変わりない彼に会えるような気がしてならない
 彼との最初の出会いは一九六五年にさかのぼる。入学したばかりの彼は文学部の教養課程の自分のクラスで何人かのクラスメートとサルトルなどの読書会をしていた。そうしたこともあって、第一印象はおとなしい「哲学青年」というものだった。その彼は、学生の政治組織に入るということについても、すぐには決断せず、慎重だった。当時の大学の政治的雰囲気では、左翼の学生組織に入ることにそれほど大きな抵抗感は存在していなかった。だが彼は違った。そうしたこともあって、正直に言うと、少なくとも私は、そこに後の「活動家 川出君」の面影を見ることはできなかったのである。川出君は自らのその後の活動を通じてわれわれのこの第一印象を見事に「裏切って」くれることになる。実は、彼は左翼の学生組織に入ることをためらっていたのではなく、その間、どの組織に加盟するかをじっくりと考え抜いていたのである。

トロツキストの
道を選択する

 彼の前には、当時の大学の主流派のブント(社学同)、中核派、トロツキスト(社学同レフト)という三つの選択肢があった。彼にとって、この学生組織への加盟は単なる学生時代にどうするかという選択ではなくて、世界の変革に向けた生涯にわたる活動をどのような道を通じて行うのかという根本的な選択であった。まずその当時、京都の学生運動の主流派であった社学同はどうだったのか? このような彼の眼に映った社学同の活動家は、そのすべてではないがかなりの活動家が、とてもそのようなものとは見えなかった。それは生涯をかけて世界の変革を目指す活動家から成る組織には、彼にはとうてい思えなかったのである。
次に中核派である。そこで、川出君がその決定的な選択基準とみなしたのは、植民地革命の問題であった。一九六〇年代後半の全世界的な青年の急進化は突発的に出現したわけではなく、それを準備する政治的前段階があったという点を忘れてはならない。フランスのLCR(革命的共産主義者同盟)の中核をなしたのは、フランス共産党系のフランス共産主義学生同盟から一九六六年に追放された約二〇〇名の学生活動家たちだった。これらの学生たちは、アルジェリア革命に連帯していたがゆえに、大統領選挙で社会党のミッテランとの連合のために、アルジェリア革命に背を向けていたフランス共産党の隊列から追放されたのだった。
キューバ革命の勝利と一九六六年の三大陸人民連帯会議に代表されるこの革命の国際的急進化は、アメリカの青年の政治的覚醒を呼び起こし、その後の、大衆的なベトナム反戦闘争を政治的に準備することとなった。アメリカのトロツキスト組織SWP(社会主義労働者党)もまた、独自にキューバ革命との連帯の運動を積極的に組織し、青年を結集しつつあった。
川出君の感性は、正しくも、キューバ革命、アルジェリア革命、新たな前進を勝ち取りつつあったベトナム革命が、世界革命の有機的一環であり、それらの革命に連帯することはまったく当然のことである、とみなしたのであった。この意味で、これらの革命を基本的にスターリニズムの影響下にある運動として切り捨てるものでしかない「反帝・反スタ」の中核派の綱領的立場は到底受け入れがたいものであった。このような政治的熟慮を経て、彼は少数派でしかなかったトロツキストの道を選択した。

「旧路線」から転換
と労働者活動家

 活動を開始した彼は、その能力と精力的な活動によって、ほどなくして京大にみならず関西におけるわれわれの学生活動家の中心的存在となった。そのような彼が直面したのは、その当時なお関西に根強く残っていた「旧路線」からの転換を図るという困難で長い闘いであった。それは第二次世界大戦後にトロツキストが直面した根本的問題でもあった。すなわち、それは、第二次大戦に向かう世界情勢の今後の展望を示したトロツキーの「過渡的綱領」をどのように位置づけるか、その展望は果たして第二次大戦後の世界でも基本的に有効であるのか、という問題であった。それは依然として有効であるとするのがアメリカのSWP(社会主義労働者党)を中心とするキャノン派の立場であった。
しかし、この立場にたつかぎり、戦後世界の生きた現実に根をおろし、その中で活動することは不可能である。労働者大衆は、社会民主主義とスターリニズムを乗り越えるほど十分に政治的な意識的準備ができていて、そのの意欲を示しているのであって、後はこの二つの指導部を乗り越えるだけだ、というわけである。極端に言えば、そこから出て来る主要な任務は、社会民主主義とスターリニズムの指導部がいかに間違っており、裏切っているかを暴露し、それに代わる指導部の形成を訴え続けるという宣伝主義的なものに切り縮められざるを得ない。
だが、戦後世界の現実は、戦後、過渡的綱領に示された展望がそのまま実現されたのではないことを示していた。アメリカ帝国主義の資本主義世界に対する絶対的優位が確立され、このアメリカ帝国主義の力こそが、戦後世界の反革命の力の根本的源泉として世界革命の全面的な発展を阻止したし、現に阻止しているのであって、この力によって社会民主主義とスターリニズムも生き延びることができていたのである。戦後世界の生きた運動の中に現実に参加し、そこに根を下ろそうとするとき、このような認識の転換が不可欠だったのである。
関西のわれわれの間で根強く残っているこの「旧体系」からの転換は容易ではなかった。そのためにはまずは、駆け出しの「学生活動家」が「古参労働者」の同志から信頼を得なければならなかったからである。彼は、持ち前の忍耐強さと誠実さをもって、時間をかけて、電通労組の結成や三里塚闘争を通じて、大阪中電を中心とする労働者活動家との固い信頼関係を築き上げたのであった。それだけではなく、関西の郵政労働者の中に共青同に結集する若い戦闘的労働者活動家を形成する上でも大きな役割を果たした。こうした力をテコに関西における転換が成し遂げられたのであり、その中で彼が果した役割は大きい。

歴史の過渡期
と新しい挑戦

 一九七七年に上京した後、とりわけ七八年三・二六闘争の後、彼は事業活動や広島地区での活動で重要な役割を果たすのだが、ここではそれらは割愛し、最後にこの間の彼の活動について、彼がどのような問題意識で活動していたのかについて紹介しておきたい。
その間、ベルリンの壁とソ連邦の崩壊、新自由主義のクローバリゼーションの席巻によって、われわれが必死になって捉え、その中で活動してきた戦後世界(日本ではそれは五五年体制として表現されていた)もまた崩壊した。戦後世界の構造とそれに対抗する旧来の運動は崩壊したが、それに代わる新しい構造と運動はまだ形成されていない。これまでの運動は「もはやない」が、それに代わる新しい運動は「まだない」という過渡期の中にわれわれはいる。この過渡期がどれだけ続くのか、今なおその出口は見えない。旧来の運動の勢力や世代と新しく登場してくる運動の勢力や世代との間のギャップと溝は余りにも深いように思われる。
この二一世紀の世界の中で、川出君は絶望することもあきらめることもなく、不屈に一貫して闘い続けた。東部における地区の活動を担い、反原発、反安保法制の闘い、沖縄闘争に参加し、編集者としてこの新しい現代世界の問題を取り上げる出版活動を展開した。彼はどのような問題意識をもってこの活動を続けていたのだろうか? それは次のようにまとめることができるかもしれない。
@第二次大戦後を支配したこれまでの運動は基本的に崩壊した。Aこのことは旧来の運動の歴史的な経験から導き出されるさまざまな教訓や歴史的な理論的遺産を清算することを意味するものではない。B今日出現しつつある新しい運動の萌芽となるものに対して、旧来の運動のあり方に立ってアプリオリに、あるいは「教条主義的」にそれを切り捨ててしまうのではなく、そうした新しい運動が何を意味し、どのような問題提起をしているかを真剣に受け止め、その可能性を真剣に検討する。Cこのようにして、これまでの運動と始まりつつある新しい運動との間の相互の経験の交流と討論を建設的相互批判を通じて、二つの運動の間にかけ橋を架ける。Dこのようなかけ橋を構築しようとする試みは、けっして容易ではなく、先が見えないほどの長期にわたるものとなろう。だが、その脱出口は、闘いと無関係にいつか出現するというものではなく、現に展開されている運動に参加し、闘い抜くことによって手繰り寄せることを通じてはじめて切り拓かれる。
このような問題意識をもって、彼はさまざまな運動に参加しながら、反原発運動、安保法制に反対する運動の中における新しい可能性、新しい世代の可能性を探求・分析し、それらを共同の討論のために一貫して提起し続けた。同じく、現代世界における中国の新しい位置をどう捉えるべきかを検討する試みを開始した。

現代世界を把握
するための模索


こうした問題意識は彼が中心的役割を果たした出版活動の中にも明確に反映されている。一九九〇年代以降、フランスの新しい社会運動の中で大きな役割を果たしたLCR(革命的共産主義者同盟)とダニエル・ベンサイドによるNPA(反資本主義新党)の大胆な新しい挑戦を取り上げた一連の出版活動は、まさに彼が二一世紀の新しい世界の探求と変革に挑戦するというベンサイドと共通の問題意識に立っていたからであろう。川出君自身が、柔軟で開かれた批判的マルクス主義というベンサイドの問題意識の最良の理解者の一人であった。
また、現代世界の重要問題のひとつアラブ世界についても、出版活動を通じて有益な問題提起を行って来た。彼は、「アラブの春」のもつ新しい運動の可能性と積極的意義を評価していた。だが同時に、その過程が一直線に進まず、長い困難な過程をたどらざるを得ないという点についても十分に認識していた。この立場から彼は、日本の「中東専門家」の中では酒井啓子氏の分析を評価していたし、ジルベール・アシュカルの著作の日本への紹介に意欲を燃やして、「アラブの春」五周年を期して今春に出版予定のアシュカルの近著の出版を準備していた。
また、彼は中国については大きな関心を寄せていた。台頭する中国は現代世界で今日、どのような位置を占めているのか、その脆弱性と内部矛盾はどこにあるのかという問題を取り上げたのが『台頭する中国 その強靭性と脆弱性』(區龍宇著、柘植書房新社)である。この本は、超高度成長を遂げてきた中国経済にかげりが見え始めた今こそ、読まれるべき好著である
展望が見えなくなり挫折感を味わったかなりの数の仲間が闘いの場から去っていったが、川出君は、大学一年生の時に決断した道を最後まで歩み続けた。自らも予測し得なかった突然の病で逝ってしまった彼は、われわれにはメッセージを残していない。しかし、その晩年の活動を通じてわれわれに次のようなメッセージを送っていたのではないだろうか? 「われわれの時代のパレットにはバラ色の絵の具も空色の絵の具もない。われわれは自らの願望からではなく、事実から結論を引き出さなければならない。老スピノザは正しくもこう教えてくれている。泣くな、笑うな、ただ理解せよ」(トロツキー『新たな世界戦争を前にして』)。

コラム

アインシュタインの予言

 一昨年のヒッグス粒子(質量の起源=素粒子を動かしにくくする粒子)の発見に続いて、重力波初観測のニュースが世界を駆けめぐった。重力波は空間のひずみ(時間の進み方や空間の曲がり方)が波のように伝わってくるもので、それを光の波のずれとして観測することができる。最新の観測装置では陽子の直径の百万分の一程度のひずみまで測定できると言われている。
 強い重力波を出すケースは連星系の衝突や超新星爆発だ。それらが中性子星やブラックホールになるとき、空間を大きくかき乱すので強い重力波が出る。今回観測された重力波は、地球から一三億光年の所にあるブラックホールの連星系(太陽質量の二九倍と三六倍)が合体して、太陽三個分のエネルギーが重力波となって広がったとされている。
 この宇宙の歴史の中での最大級の重力波は、ビックバン直後の空間の急膨張(インフレーション)による重力波の発生だった。宇宙の初期状態では、いま宇宙にある物質・エネルギーのすべてが無の一点の「時空」に想像できないほどの超高温・超高圧状態で凝縮されていた。それが光の速さをはるかに超える速さで爆発的に膨張したのである。時空は一気に広がり、その時に発生した重力波を原始重力波という。この重力波の痕跡は、二年前に米国の工科大などのチームが南極に設置した特殊望遠鏡で観測・分析し検出することに成功している。
 アインシュタインはいまから一〇〇年前に一般相対性理論の方程式で重力波を予言していた。しかし彼の生きた時代では観測することはほとんど不可能であった。それどころか、当時は特殊相対性理論(超高速の物体の移動と時間の関係)を証明する技術もなく、一般相対性理論(天体などの巨大重力と時空の関係)の証明も一九一九年の皆既日食時の太陽周囲の観測(重力レンズ効果)ただ一回のみであった。
 そういった事情もあったのだろう。アインシュタインが一九二一年にノーベル物理学賞を受賞したのは「相対性理論」ではなくて「光電効果理論」だった。
 光電効果理論とは何か。アインシュタインは「真空中の金属に紫外線を当てると電子が飛び出す」(電子線研究でノーベル物理学賞を受賞したレーナルトの発見)ことから、それまで波であると考えられてきた光は粒子であると考えた。そして「光の粒子が金属中の電子にぶつかって、電子を弾き飛ばす現象」だとして、放出される光電子エネルギーの値を数式化した(アインシュタインの関係式・一九〇五年)。そしてそれはミリカンの実験(一九一六年)によって証明された。
 巨大な重力が時空を揺るがす広大な宇宙は、また素粒子の世界でもある。人類はその宇宙の実態をよくわかってはいない。宇宙質量の二三%を占める暗黒物質も七三%を占める暗黒エネルギーの正体も不明だ。四%の見える物質を知るにしても、宇宙は大きすぎる。だからおもしろいのかもしれない。      (星)



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