もどる

    かけはし2016.年2月29日号

ナチ強制労働に補償と謝罪を尽くす


ドイツは日本のようにはしなかった

被害と苦痛に向きあってこそ未来は開かれる


 「私にとっての本当の報償は、講演の際に出会う青年たちです」。フィロメナ・フランツおばあさんは、自分の講演に耳をそば立てている高校生や大学生に自らの生涯史を聞かせてやるのが好きだ。
 フィロメナは1922年にドイツ南西部ビバラフで「ロマ」一家の娘として生まれた。父はチェロの演奏者、母は歌手だった。夫婦は7人の子どもに囲まれ、裕福だった。街角の楽団ではなく、シュツットガルトやベルリンの素敵な公演の舞台に招かれる有名な音楽家の家族だった。

記憶、責任、未来

 鳩のようなフィロメナ・フランツの一家にナチの暴圧が襲った。1938年、フィロメナは通っていたシュツットガルトの高校から追い出された。人種的理由のせいだった。1939年、ナチはロマ弾圧を強化した。フィロメナの両親は楽器と車を奪われ、すぐさま家族全体が強制収容所や労働テントに追い払われた。
17歳のフィロメナはシュツットガルトの軍需工場に引っ張って行かれ労働しなければならなかった。1943年、彼女はアウシュビッツ・ビルケナウ収容所に送られた。幸いにもある親戚の助力によって、彼女はその絶滅収容所からラベンスブリュック労働収容所に移された。労働収容所は絶滅収容所とは違って、ともかくも労働することによって死を避けることができた。
だがフィロメナは、その弾薬工場の重労働に耐えることができず脱出を試みた。発覚し満身創痍となるほどに殴られて拷問された後、再びアウシュビッツに送られた。ガス室に送られる直前に幸いにも生き残ったフィロメナはライプチヒ近くのビッテンベルクの、ある工場に送られ、そこで働いていて脱出した後、1945年に「解放」を迎えた。
10人の家族のうち、ナチの暴圧から生き残ったのは彼女を含め3人にすぎなかった。破壊された暮らしと人生の廃墟を前にフィロメナは再び立ちあがることが容易ではなかった。特にフィロメナはアウシュビッツで医療実験の対象となり、何週間も定期的に注射を打たれたが、戦後もその後遺症によってマヒ症状を味わい長い間、苦しみを拭えなかった。
フィロメナの強制労働に対する補償が実現したのは、2000年8月2日にドイツで「記憶、責任、未来連邦財団」が設立された後のことだった。フィロメナは強制労働について7000ユーロ、生体実験について6700ユーロの報奨金を、それぞれ受領した。
フィロメナは自らが被った犠牲や労役に比して報償金は余りにも少ないと不満を吐露した。高齢にもかかわらず彼女は講演を通して歴史を証言する。講演の際に出会う青年たちを通じて、むしろもっと大きな報償を受けている、と語る。
「記憶、責任、未来連邦財団」は、ナチの時代に強制労役に追い込まれた人々のための物質的補償のために設立された。もちろん戦後の西ドイツはナチドイツの占領や犯罪によって被害に遭った国々に数回にわたって賠償した。1952年9月10日、当時のロンラット・アデナウアー西独首相は「ルクセンブルク協定」に署名し、イスラエルに30億マルクの現物を賠償金として支給し、ユダヤ人犠牲者の諸団体を代表する「対独ユダヤ人請求権会議」に4億5千マルクの賠償金を支給することを約束した。西独は10余年にわたって約束を履行した。
また1959年から1964年まで西独は11の西側諸国とそれぞれ協定を締結して賠償金を支給するとともに、1975年にはポーランドと協約を結び、ナチドイツに請求権を持っていたポーランド人に対する年金や事故保険寄託金13億マルクを支給した。ソ連は既に東独から戦争賠償金の代わりに工場や資本設備を移転していった。けれども統一の局面において、ドイツは再びソ連に180億マルクを補償金として支給した。
さらに、西独に居住しているナチの犠牲者集団、特にユダヤ人をはじめとして政治や宗教を理由として迫害を受けた人々に対しても物質的被害に対する補償措置が続けられた。1953年10月1日の連邦補償法と1956年6月23日の連邦補償法は、ナチドイツから迫害を受けた犠牲者に物質的補償と社会保障の恵沢を受けることができるように措置を行い、その範囲をしだいに広げた。

戦後企業も分担した社会的責任

 このようなドイツの賠償政策にもかかわらず、ロマや同性愛者、脱営者、強制労働者は長い間、受恵者になることができなかった。1980年代後半になって、やっとこれらの人々に対する学問的関心が増大し、被害の補償についての主張が提起された。
ドイツの各企業も個別的に自分たちのナチ過去史についての歴史的整理作業に乗り出した。その過程で一部の企業は既に1988年、「対独ユダヤ人請求権会議」側に賠償金を支給した。だがそれは全体のごく一部だったにすぎない。なぜならばナチ時代の強制労働者の大多数は当時の東ヨーロッパに居住していたからだ。一方、「強制労働」の前歴は東欧共産主義国家においては長い間、祖国に対する背信やナチに対する同調の証票とみなされていたがゆえに、それについての言及は事実上タブー事項だった。
ドイツの統一と冷戦解体後の1990年代、ドイツでは強制労働者問題に対する政治的関心が増大し、物質的補償が要求され始まった。それにもかかわらず、この問題解決に決定的刺激を与えたのは米国内の動きだった。米国のユダヤ人被害者団体は米国政府の支援によってドイツの各企業に対する集団補償訴訟を準備した。ドイツの各企業はその法的紛争をためらった。ナチ時代の強制労働者に対する補償問題は、とりもなおさずドイツと米国だけではなく東欧でも政治的イシューとして登場した。
時間がもういくらも残されていないという事実も、この問題の急迫性を告げた。ナチ時代の強制労働者のうちの大多数、すなわち10人中9人は既に死亡したからだ。このような国内外の圧力に直面して、1998年秋に執権した社会民主党と緑の党の左派連立政府は問題を解決するために積極的に乗り出した。
既にその年の総選挙期に両党は強制労働者に対する補償を選挙綱領として掲げた。社民党のゲルハルト・シュレーダー首相は総理室傘下に直属部署を作り、歴史研究に基づいて補償規模と方式を準備するようにし、各企業と交渉しはじめた。
その後、2年にわたってドイツ政府と企業、米国や東欧国家の政府代表ばかりではなく、さまざまな被害者団体が集まって激しい論争や集中した交渉を進めた。それ自体が1つの新しい歴史だった。国際的次元の、歴史の正義と規範をうちたてる過程だったのだ。
やがて財団の設立や活動の方向、補償の基準や規模が定められた。2001年6月15日、初めて補償金が支給され、2007年6月12日に公式的に支給の完了が宣言された。230万人以上が補償金支給の審査を申請し、そのうちの約165万人に支給決定が下された。
ドイツ連邦政府と各企業はそれぞれ半分を負担し、100億マルク(50億ユーロ、約7兆9700億ウォン)の基金を用意した。ドイツの各企業は納付を強要されなかったけれども、社会的責任に基づいて自発的に基金を寄付した。特に、ナチの時代にはまだ存在してもいなかった戦後の新生諸企業が基金を納付したりもした。その比率は全体で6544企業中の約40%に達した。1970〜80年代以来、本格化した過去史に対する集団的学習の過程は、企業家や経営人たちにも大きな影響を及ぼしていたのだ。

「最終的、不可逆的」でない

 補償金の受恵対象は大別すれば2つに分けられる。まず、ゲットーや収容所に引っぱられて行き、そこで拘禁された強制労働に従事しなければならなかった人々をAグループと規定した。彼らには1万5千マルク(7670ユーロ、約1千万ウォン)まで支給するようにした。反面、自国でドイツやドイツの占領地に引っぱられて行き、そこで自由が制限された状態で強制労働に従事しなければならなかった人々はBグループと定めた。彼らには最大限5千マルク(2550ユーロ、約330万ウォン)までの支給が可能だった。歴史学者たちは前者を奴隷労働者、後者を強制労働者と区分して呼ぶ。
165万7千人の受給権者に総額43億1600万ユーロ(約6兆3070億ウォン)が支給された。それによって今やドイツはナチ犯罪に対する賠償にケリをつけた。ナチの強制労働に関しては、いかなる個別的法的訴訟も、これ以上できないように国際的合意がなされた。
そうだからといってドイツは、この補償を「最終的で不可逆的」だとみなしてはいない。法的拘束力をもった補償は完了したけれども、政治的責任に基づいた財政支援は持続している。ドイツはナチによる抑圧の犠牲者の範ちゅうを自ら拡げて、さまざまな和解財団を通じて被害者とその家族たちを多様なやり方で支援している。
併せてドイツは各種の歴史財団や関連諸組織を通じて物質的補償とともに記憶の文化と歴史教育とによってこの強制労働者の問題を多様に拡散している。例えば、「記憶、責任、未来連邦財団」は「記憶と未来」基金を別に策定し、青少年のための討論と交流ならび奨学事業を進めている。
ドイツがナチの過去史について補償しつつ、過去の清算を続けている理由は、それを既に「過ぎ去った遺憾なこと」ぐらいに考えてはいないからだ。戦犯国家として加害行為に対する反省も重要だけれども、それが因習的政治儀礼や外交的責任逃れにとどまらないためには犠牲や被害の苦痛に対する記憶を共有することが重要だと考えているからだ。ドイツの過去史補償政策や過去の清算事業は被害国家やその住人たちだけのものではない。それは、むしろドイツ人自らの民主的政治文化の発展のために、さらに大きな意味を帯びる。
政治暴力の被害者とその末えいの苦痛や傷痕を記憶することは、歴史の中の不義を集団的に認める過程だ。記憶こそは正義の始まりであり、責任の根幹だ。歴史的責任の最も重要な形式は共同体の記憶の文化だ。
歴史の中の被害者たちの苦痛は、「時間の止揚(アウフヘーベン)」(ジャン・アメリー)が必要だ。苦痛の時間を中断させ歴史的時間として保存しつつ(「記憶」)、それを現在の政治文化に連関させつつ(「責任」)、共同体の展望(「未来」)を求めることが必要だ。
「時間の止揚」は、記憶と責任という集団的行為の過程を通じてのみ実現される。歴史的責任を持とうとするなら、まず記憶の文化を通じて過去の破壊的痕跡を維持し、その建設的意味を伝承する必要がある。集団的記憶を通じて苦痛は、正義と責任とによって止揚される。被害と苦痛に対する集団的記憶の作業のない物質的補償は、すべてを再び無責任と不義の渦へと追いたてることだ。そうなれば未来が開かられるのではなく、閉じられる。ドイツの、その財団の名称が「記憶」と「責任」に始まり「未来」へと続いているのは極めて含蓄的だ。

世紀末、大統領の謝罪


20世紀前半のナチの時代の強制労働に対する補償をめぐる国際的論議は、その世紀が終わる数日前に1次の合意に到達した。政治指導者の時間がやってきた。1999年12月17日、当時のドイツ大統領ニハネス・ラウは公式声明で以下のように発表した。
「財団を発意したドイツ国家と企業は、過去の犯罪によって発生した共同の責任と道徳的義務を尽くすことを宣言します。奴隷労働や強制労働は、単に受けるべき賃金を奪われたということだけを意味しているのではありません。それは拉致、根拠地の喪失、権利のはく奪および残忍な人権蹂りんを意味します。…多くの人々にとっておカネはそう重要なことではないことを私は分かっています。強制労働者たちは、自分たちの苦痛が苦痛として認められることを望み、自分たちに加えられた不義が不義と呼ばれることを望んでいます。きょう私はドイツの支配下にあって奴隷労働や強制労働を遂行しなければならなかったすべての人々を記憶しつつ、ドイツ民族名において赦しを乞います」。
これが、まさに政治指導者の言葉だ。(「ハンギョレ21」、16年1月25日付、イ・ドンギの現代史スチール・カット/江陵原州大・史学科教授)


もどる

Back