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    かけはし2016.年2月22日号

政治モデル刷新への挑戦と挫折


フランス

オリビエ・ブザンスノーへのインタビュー

 以下はフランスNPAの活動家、オリビエ・ブザンスノーとのインタビューで、聞き手は米国の左翼雑誌(季刊)『ジャコバン』誌の編集委員のジョナー・バーチである。このインタビューは一五年夏に行われたもので、その後のパリでのテロ事件や地方選挙には触れていないが、フランスにおける極右の台頭の背景、革命的左翼が直面している課題など示唆に富んでいる。今号から四回に分けて紹介する。(「かけはし」編集部)。

解説


 オリビエ・ブザンスノーは郵便労働者であり、フランス反資本主義新党(NPA)のリーダーの一人である。彼は二〇〇二年に、二八歳の無名の労働組合活動家として革命的共産主義者同盟(LCR)の大統領候補となり、一二〇万票(四・三%)の得票を獲得したことで最初に注目された。青年層の得票では実に一四%だった。
 〇七年に彼は再びLCRの候補として、前回と同様に注目すべき得票を確保した。一五〇万票(四%余)である。〇八年の時点で、彼はフランスでもっとも有名で、もっとも人気のある政治家の一人となっていた。同年に実施されたある世論調査では、回答者の六〇%が彼に対して好意的な意見を表しており、一二年の大統領選挙で誰が左翼を代表するべきかという質問に対して、彼の名前を挙げた回答者は、より穏健な社会党の大部分のリーダーを上回った。
 しかし、一一年五月に、当時NPAのスポークスパーソンだったブザンスノー(LCRは〇九年に解散し、NPAが結成された)は、一二年の大統領選挙に出ないと発表した。その後彼は党の代表としての公式の役割から降りた。それでも彼が今日のフランスの極左の最も重要な人物の一人であることは間違いない。今日の政治的論争における労働者および左翼の信頼できる代弁者であるブザンスノーは、卓越した演説と巧みな論争で知られている。彼はテレビの討論番組によく出演しており、彼の発言はしばしばニュースでも取り上げられている。
 一方、彼が結成に関わったNPAは、結成当初以来、苦闘しつづけている。NPAは広範な基盤を持つ社会主義組織の設立を目指していたLCRの活動家たちによって主導された。彼ら・彼女らはNPAの中に、広範な活動家層を結集でき、伝統的な極左派の基盤を超えて大衆にアピールできる大衆的政党の土台を見た。
 その意味で、新しい党は単にLCRの名称変更ではなく、全く新しい何かを作り出すという意図を持って結成された。NPAは当初、大きな社会的注目を集め、結成時の党員数は九〇〇〇人と、LCRの同盟員数の三倍になった。しかし、それからわずか半年後には、一連の分裂と党員数の漸次的な減少の結果、組織の規模は大幅に縮小し、イデオロギー的な性格が強まった。NPAの結成当時の党員の多くが去り、活動から離れるか、あるいは左翼戦線に参加した。
 NPAは依然として地域的に重要な活動を展開する能力を持つ活動家の基盤を維持しているが、結成当時のような興奮をもたらしてはいない。党員の一部は自分たちよりも右のあらゆる勢力に対して不信あるいはあからさまな敵意を示す傾向がある。内部の分裂はしばしば深刻なものとなる。
 こうした力学は部分的には〇九年以来のNPAの政治的軌跡を反映している。NPAは結成から一二年の大統領選挙までの間に一連の分裂を経験し、最終的には「反資本主義的左翼」(GA)潮流の分裂に至った。これらの分裂はすべて基本的に同じ問題をめぐって起こった。左翼戦線や広範な左翼との関係である。左翼戦線は基本的には共産党(PCF)と左翼党(PG)から成り、PGはカリスマ的な元社会党のアジテーター、ジャン・リュック・メランションによって率いられている。
 メランションは一二年に左翼戦線の大統領候補となり、四〇〇万票(一一%余)を獲得した。これは実際には期待外れの結果だった。事前の世論調査では彼への支持は一六%に近づいていたが、実際には彼が選挙キャンペーンで集中的に批判した国民戦線のマリーヌ・ルペンよりも下位に終わった。この左翼戦線のリーダーはこの小さな敗北の後、数カ月後に行われた国会議員選挙でルペンの地元であるエナン=ボーモンの選挙区で彼女に挑戦し、よりひどい敗北を喫し、打撃を大きくした。
 一方、メランションの一二年における得票はNPAの候補のフィリップ・プトー(自動車労働者、ベテランの労働運動活動家)の得票を大きく上回った。ブザンスノーに代って立候補したプトーの得票は辛うじて一%を超えたにすぎない。このことは多くの人たちに、なぜNPAがメランションと競合する候補を立てたのかという疑問を残した。多くの得票を獲得する可能性が全くなかったにもかかわらずである。
 二〇一二年がNPAにとっての後退であったとすれば、その後このグループが立ち直ったという形跡はない。その間に左翼戦線の状態も悪化してきた。メランションと共産党がどのように相互の違いを解決できるのか、あるいは一七年の大統領選挙の後、左翼戦線の将来はどうなるのかはわからない。左翼党そのものは過去数年間にわたる活動家の激減によって混乱状態にある。
 さらに、一一月のパリでの事件以来、共産党と左翼党の間の政治的違いが一層明確になってきている。たとえば、左翼戦線の国会議員(全員が共産党の党員か元党員)は非常事態の三カ月延長に賛成票を投じた。これは議論を呼ぶ措置であり、メランションはそれに反対しており、左翼戦線内の他のグループの対応は分かれている。
 このようにフランスの極左派の全体的な状況は芳しくない。そこから、次のような問いが投げかけられる。この全体的な解体状況は何に起因するのか? 今日、どこに活路を見出すべきなのか?
 まさにこの問いこそ、ブザンスノーがこの夏に、『ジャコバン』誌の編集委員のジョナー・バーチとの対談の中で取り上げたものである。

政治的閉塞状況と極右の台頭


――あなたは六月のNPAパリのイベントで「フランスの政治生活は現在、閉塞状態である」と述べました。あなたがそれによって何を言おうとしたのか、また、あなたが指摘している力学の背景に何があるのかを説明してください。

 私たちが言っていることは、ラディカリズムと社会的な抵抗闘争の観点から見た時、フランスはヨーロッパの中で遅れた国であるということです。二〇〇〇年代の初頭のことを考えてみましょう。この時期には一連の重要な政治的発展があり、〇五年の欧州憲法条約をめぐる国民投票での反対票の勝利があり、翌年には初期雇用契約法(CPE)を阻止した闘いがありました。CPEは若年労働者の雇用保護を奪うものであり、これを阻止したことは当時、不安定雇用の増大に対する重要な反撃だったと思われていました。また、〇五年秋には、労働者階級の若者による反乱があったことも述べておくべきでしょう(編集者による注:郊外の貧困地区で、警察による残虐な暴力事件をきっかけに、アフリカ系およびアラブ系の若者を中心とする怒りの抗議行動が二カ月にわたって展開された)。
ある意味では、そのころフランスは数年にわたって全ヨーロッパの社会的闘争の震源地でした。後から考えると、それらの運動は長期的な社会的・政治的成果を実現できませんでしたが。しかし、この時期の闘争は一〇年のサルコジの年金改革に反対する運動の敗北によって終わりました。これはストライキよりも大衆的なデモを基礎とする運動でしたが、六八年五月以来最大の規模の動員が見られた重要な運動でした。一〇年の運動は、後のスペインの「怒れる者たち」の運動を特徴づけている力学と共通する要素を組み込んでいました。ただし、フランスでは大衆の自発的な組織化や草の根の活動、民主主義の強調の程度において、スペインで見られたような特徴と比較できるものは何もありませんでした。一〇年の年金改革反対の運動の中で、闘争は一貫して労働運動の古い組織に領導されたままであり、これらの組織は結果的に重大な敗北を喫しました。
明らかにこのことは労働者階級の観点から見れば非常に大きな打撃であり、政治的に見れば、それまでの数年間の勝利が新しい大衆的政治的組織に導くことはありませんでした。一〇年以降、欧州憲法条約に反対して結集した左翼は徐々に、極左派を総結集し、その社会的要求を政治的に表現することができる組織を作るという展望への希望を失いました。
このとき、LCRの中のダニエル・ベンサイドを支持する私たちのグループの中から、新しい政治組織を作るという考えが提起されました。なぜなら、新しい綱領を提案する時は、それを現実化するための新しい政治組織、つまり新しい党を提案するものだからです。
私たちは古いものと新しいもののバランスを取る必要があることを理解していました。つまり、私たちは労働組合や政治組織などの「古い」社会組織を組み込む必要があるし、それらの組織は再編の要素となるでしょうが、同時に、私たちは新しいラディカル化のプロセス、新しい闘争の形態、新しいタイプの政治的帰属に対応する新しいスペースを作り出す必要があります。
しかし、そのような古いものと新しいものの結合は、実現したと思える瞬間はありましたが、結局は実現しませんでした。私は特に、社会運動のことを考えています。そこでは「持たざる者」(何を持っていないかによって定義される種々のグループ)の運動と、労働組合の闘争や資本主義的グローバリゼーションと闘う運動を結合しようとする努力が実際に実を結ぶことはありませんでした。
そして今日、私たちは依然として閉塞状況に置かれているように思われます。そのような状態は思っているほど長くは続かないとしてもです。フランスでは、その結果として非常に醜悪な一連の状態が生まれています。その特徴は右に向けたラディカル化が広範に進んでいることです。誰もが先を争って右へ進み、最後には極右が最大の利益を得ることができました。こうしてマリーヌ・ルペンの国民戦線がこの全状況の中で最大の勝利者となったのです。

左派の分裂の底に戦略的問題

――たしかにこの二年間、社会党政権は右傾化を続け、ますます厳しい緊縮政策を実施しており、左翼の衰退は続いています。その一方でマリーヌ・ルペンは一七年の大統領選挙についての世論調査でトップに躍進しています。この一連の状況の中で極右が最大の利益を得たのはなぜだと考えますか?

 はじめに、これがフランスだけの問題ではないことをはっきりと認識しておくことが重要です。ヨーロッパ全体における力関係を正直な態度で見るなら、実際にはもっと全般的な、ポピュリスト的な運動、極右の運動、さらにはネオファシストの運動の飛躍的な前進が見られます。だから、スペインやギリシャの経験に対して、批判を控えることなく、連帯することが重要です。なぜなら、この二つの国は、資本主義の危機が極右だけではなく、反資本主義的左翼にも有利に作用する可能性があることを証明する最初の例だったからです。
フランスに話を戻すと、私はある政党が衰退する時に別の政党が台頭するという「水圧の政治」の理論を信じません。言い換えれば、伝統的な政党が何らかの左翼的政治を実現するためには右に転換すればよいということではありません。この右転換がある空白を作り出したことは明らかです。しかし、この時点で、私たちはフランスにおいてもヨーロッパ全体においても、ラディカル左翼を分裂させる戦略的問題に直面していました。政治というものは真空を嫌うものです。そして左翼はかつての左翼ではなくなっています。そこでラディカル左翼の一部は、改良主義的左翼が今日の社会自由主義的左翼に変質する以前に主流だった改良主義的左翼に多少ラディカルなパッケージを施すことによって、かつての政治モデルに戻ろうと考えました。
これは左翼の政治制度バージョンですが、破滅的です。私たちにはそれが失敗すること、そしてそれが新しい世代、新しい闘争から生まれてくるものに対応していないことがわかっています。これが第一の問題です。もうひとつの問題は、萌芽的な形態の闘争がある場合でも、それは自動的にはそれ自身の政治を生み出さないことです。

ギリシャとスペインの重要性

 危機の中での右翼の急激な成長に反する二つの例がギリシャとスペインです。しかし、この二つの国で登場した運動は〇八年に新しく生まれたものではありません――そういう見方はメディアの見方を反映しています。実際にはそれらの運動はそれぞれの社会的闘争の歴史と、ラディカルな組織化の独特の経過によって特徴づけられます。もちろんシリザやポデモスには多くの新しい要素があり、これらの二つのグループは他のヨーロッパの左翼組織と比べてはるかに新しいグループですが、それでもその中には経験豊富な活動家がいるし、多くの政治潮流があります。これらのグループの特徴は、新しい社会運動との関係を確立するため、また、相互に影響しあい、相互に政治的に教育しあう関係を確立するために系統的に努力する意志でした。それらは重要な経験です。それは彼ら・彼女らが何をなすべきかという問題を解決したという意味ではありません。今日、ギリシャとスペインでも私たちは状況がいかに複雑であるかを見ています。一つ付け加えておきたいと思います。非常にフランス特有な問題があります。地方主義という問題です。そのために国境を超えた視点で考えることができない傾向があります。特にヨーロッパの周辺国で起こっていることについてです。また、何が起こっているかを理解する時に、プラグマチズムの観点から理解するか、あるいは「すべてわかっている」という態度を取ります。
だから、関心のある人たちの間で――実際には関心のない人もいます――一部の人たちは「これこそフランスでするべきことだ」と言いながら、実際には選挙のために従来の連合を作り直そうとしているだけであり(残念ながら左翼戦線はこの考えに引き込まれている)、他の人たちは、実際に関心がある人たちですが、関心の大部分が教えを垂れることにあります。「赤い教授」のような人たちです。ギリシャやスペインの左翼が理解していないすべてのことを遠くから教授し、決定的な反動を待つ、つまり将来における裏切りを非難しようと待ち構えるという姿勢です。
極左派の中にそのような赤い教授たちがいます。残念ながらすべての組織にです。状況がその方向に向かっているということもあります。しかし、客観的には、もしギリシャの経験が敗北に終わった場合、「黄金の夜明け」が台頭する可能性があります。このグループはネオナチ潮流として広く知られており、このグループが大衆の怒りと結びつくことができた場合の危険は明らかです。
ギリシャでのそのような重大な敗北はヨーロッパでの闘いにとって否定的な例となるでしょう。フランスではそのような後退は力関係の重大な悪化をもたらすでしょう。ギリシャにおける左翼の決定的敗北の結果がそれほど劇的でなかった場合でも、それは最終的にはフランスの左翼に対して、また、フランスでの運動の展望に対して大きな現実的影響を及ぼすでしょう。スペインに対しても同じです。だから、その闘争に賭けられているものは非常に大きいものです。
しかし、ギリシャやスペインとの具体的連帯について言えば、信じられないほど弱いというのが現状です。それは関心がないからではありません。私たちの周囲の一般的な人々の間で、そこで何が起こっているかが話されています。しかし、それは効果的連帯にはあまりつながっていません。それが私たちにとって大きな問題です。特にギリシャではヨーロッパの機構との対決がありました。フランスにいる私たちは、シリザが選挙で掲げて勝利した政策が実施されるよう保証するために、可能なあらゆる貢献を行っていなければなりませんでした。
(つづく)



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