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    かけはし2016.年2月22日号

独立労組の必要性に関する議論もすでに


中国

時を合わせ拘留された米国人活動家へのインタビュー

労働者の経験蓄積と活動急進化
に対する深い警戒が弾圧の背景



 本紙一月一八日号で伝えた中国での労働運動活動家弾圧に関して、当地での労働運動支援活動に従事してきた米国の活動家が、その背景事情や自らが一時拘束されたことを含めていくつかの興味深い情報を伝えている。以下に紹介する。(「かけはし」編集部)
 昨年一二月三日、中国政権は、広東省のさまざまな労働者連帯組織とつながっている二〇人以上の人びとを拘束した。この拘束者たちは、さまざまなサービスや訓練を提供する形で、当地方における労働運動で活動してきた。政府の弾圧は、広東におけるストライキや抗議活動が波を高めているその真ん中で現れている。
 米国バーモント州の全国教育協会を足場として長く活動してきたオルガナイザーであり、レイバーノーツ政策委員会メンバーでこの州の進歩主義党創立メンバーでもあるエレン・デイビッド・フリードマンはこの一〇年、香港と本土の労働者や労組活動家と共に活動を続けてきた。彼女は、先頃中国に滞在していた時、一時的に拘束され当局の尋問を受けた。彼女は、弾圧、その原因、さらに中国の活動家たちが自由と正義を勝ち取ることを助ける上で米国の活動家が何ができるか、について語った。

習近平政権成立と共に抑圧強化

――先頃の旅の中であなたは、労働NGOに対する弾圧の最中に拘束された。何が起きていたのかを話すことは可能か?

 私はこれまで中国でおよそ一〇年間、労働問題に関する諸研究を教え、労働運動のさまざまなところに参加して活動を続けていた。私は前から数多くの警告を受けてきた。しかしそれらは常に間接的なものであり、同僚たちを介して伝えられた。警察が私に直接質問するために現れたのは今回がはじめてだった。
彼らは私のホテルに現れ、約二時間私を尋問した――極めて礼儀正しく――が、「人びとと会う」ことや法的手続きの危険を犯すことをやめるよう警告した。彼らは、私が私のビザの滞在条件を侵犯していると言った。
活動家たちへの弾圧の一部として私が拘束されたのかどうか、それを知ることは難しい。それは同じ時期に起きたのだが、人は、中国で起きているものごとの理由は決してわからない。確かに私は拘束されたのだが、彼らは私にその説明をまったくしなかった。したがって私は、できることは最善でも推測だけ、と考えている。
この背景は以下のようなことだ。つまり、三年前の習近平政権成立以後国家は、ある種の市民社会における組織化と活動に対する寛容から身を離す形で、極めて決定的に方向を変えてきた、ということだ。胡錦涛前政権では、諸々のNGOの発展と批判的な議論や研究に対して、かなり大きな空間があったように見えた。習近平政権の下ではこれらすべてが非常に厳しく狭められてきた。
習が権力を握って以後、国家は労働NGOに嫌がらせを仕掛け、労働者の抵抗を犯罪視し、そして活動家を拘束し起訴してきた。政府はさらに「外国の影響反対」キャンペーンの指揮まで行ってきた。それゆえ、この時期に私が中国の労働運動で活動してきた以上、さらに私が外国人である以上、私が言えることは、それが彼らの政策と符合している、ということだけだ。

活動家の拘留理由は今も不明


――その弾圧の規模は? 標的になっている者たちは?

 最新のできごととしては、一二月三日の、その全員が中国では最大規模の都市の一つである広州市にいる、活動家約二〇人のむきだしの拘留があった。この都市は、香港の対岸にある南東沿岸に位置し、一九八〇年代に始まる資本市場と労働力市場の誕生地である広東省省都だ。
この地はその時以来、巨大な規模の発展を経験してきた。何千万人という農民工が職を得るためにここにやってきた。この地域はまた、労働者の抵抗の爆発をも経験してきた。この労働者の活動性のど真ん中で、およそ一ダース内外の労働NGOが活動を続けてきた。
政府が標的にしたのは、こうした労働NGOの四つと連携している活動家だ。これらのNGOのいくつかは、非常に気配りのきいたサービスを提供する組織であり、仕事で負傷した労働者が補償請求を提出することを支援するようなものごとを行っている。彼らの何人かは、ストライキなどの先頭に立ってきた者たちの間で、指導性や団体交渉のためのスキル向上に向け労働者を援助することに、より精力的に関わっている。
こうした人びとのほとんどは尋問を受けただけで一日のうちに釈放された。しかし七人は依然拘留され、訴追を前にしている。この一掃作戦の中でとらわれた者の中でもっとも知られた人物の名は曽飛洋(シェン・フェイヤン)だ。彼は、中国ではもっとも歴史が古く名前を知られた労働NGOである番愚(パンユー)労働者センターの代表であるとともに創設者だ。
政府は、この拘留者たちのほとんどを公共の秩序の攪乱として告発したが、この罪状は労働者活動家に対して行われる通常の申し立てだ。政府は一人に対しては横領として起訴した。これらの拘束者に連帯する活動家たちは彼らのために弁護士を手配した――事実として今、彼らの代理人となることを自発的に申し出た六〇人の弁護団がある――。しかしここまでのところ彼らは、交流された活動家たちと接触できていない。それゆえわれわれは、彼らに対しつけられている確定的罪状が何であるかが今なおわかっていない。

労働者の活動の成長への対処


――この弾圧は、中国におけるストライキの高まりへの対応なのか?

 そう思う。確実に言えることとして、ストライキ活動の注目に値する高まりがここまでに起きてきた。そしてそれは、大きくは中国経済の減速に対応しているかもしれない。この減速は高い件数の工場閉鎖や移転に導いたが、それは労働者にとっては職の喪失を意味している。しかも経営者たちは、工場が閉鎖された際の雇用契約解除手当支払いという法的義務を逃れてもきた。
職を失った労働者たちはまた、彼らの経営者たちが彼らの社会保険――すなわち、社会保障や年金――への拠出を行ってこなかった、ということをも知りつつある。こうした労働者の多くは三〇代や四〇代であり、彼らは今や、彼らの故郷である省や町や村々に年金もまったくないままに戻るという見通しに直面しつつあるのだ。このすべてが、大量にのぼる近年のストライキや抗議活動の原因だ。
しかしそれは、過去一五年にわたる労働者の戦闘性の高まりを刻んだ長期的パターンの一部でもある。こうしたストライキや抗議行動のすべては、相対的に細分化されたままにとどまってきた。労働者たちは、彼らの諸々の闘争につながりをつけることができずにきた。しかし人びとはもちろん、こうした経験すべてから学び始めることになった。
一つの結果としてストライキは性格を変えた。彼らはより自信を深め、より戦略的になった。労働者たちは、団体交渉についてより多くを学びつつある。彼らは、資本並びに国家といかにして応酬を交わすべきかに関しより多くを学びつつある。それが国家に対し、一つの脅威を決定的に突き付けることになった。
それは同時に、この国家の公式的労組、中華全国総工会(ACFTU)にも影響を及ぼすことにもなった。この組織は本物の労組ではまったくなく、労働者統制に向け政府が主に使う一つの道具だ。それは労働者ではなく主に雇用主を代表している。労働者はそれをまったく信用していない。それゆえ労働者は、特に農民工は今、彼ら自身の組織を建設しなければならない、ということを本当に理解している。
その中で、独立労組のような何ものかの必要性に関して、私が過去に経験してきた以上の議論が今ある。それはもちろん、中国では一線を越えることだ。政権はそれを許すつもりはない。それゆえこれもまた、よりひどい抑圧の理由になっているかもしれない。

中国経済を蝕む深刻な病


――中国経済の情勢はどういうものか? それは労働者の闘争と意識の形成にどう作用するのだろうか?

 この国の経済は極めて大きく複雑だ。二〇〇八年の輸出崩落がいわば直接の非常に、まさにきわめて鋭い経済後退に結果したことに、疑問の余地はない。二〇〇八年の二ヵ月間に――広東省だけで――七万五〇〇〇の工場などが閉鎖された、などと言われた。
しかし中国経済には、政府の巨額な刺激計画に基づく回復が見られた。国家は、インフラ開発に、特に内陸諸省に巨額を注ぎ込んだ。こうして、道路、ダム、発電所、港湾、流通トラックターミナル、その他の山と積み上がる建設事業が現れた。
このすべては、国の輸出部門は回復するだろう、との期待に基礎を置いたものだった。しかしこの回復は起きなかった。それゆえ今や、継続的輸出品製造という考え方を基礎としたこのインフラ建設のすべては、まさしく過剰能力となっている。中国にはすでに、過剰投資、過剰生産、過剰能力という問題があったのだ。この刺激策の後、この問題は以前よりもはるかに悪化している。
その頂点で国家は大部分のところで、輸出の落ち込みを埋め合わせる、国内消費需要というタイプの刺激策をとることができずにきた。中産階級は発展し、自動車や贅沢なアパートを買い続けている。しかしそれは大きな拡がりをもつ層ではなく、国際的需要における落ち込みを確実に埋め合わせることはできない。
こうして経済減速に伴って人びとは、中産階級の多くですら、それをもっているとしてもカネを費消することを怖がっている。代わりに彼らは、国家が提供していない年金や医療や住宅のような必要物への支払いのために、カネの節約に努めつつある。結果として国家は、輸出の落ち込みの代わりとなる国内消費を刺激することができずにきたのだ。
最後に国家は、多くの農民工が故郷の家に帰るだろうとの期待の下、東部沿岸の諸都市から内陸へと投資と開発を進める長期計画を展開していた。
しかし、政府は同時に世帯登録要件を緩めつつもあるがゆえに、農民工の多くは故郷に戻るつもりがない。彼らは沿岸の諸都市にとどまり続けている。結果として内陸開発押し上げは、空室のまま使われずに立っている巨大な住宅複合施設を備えた幽霊都市を築き上げた。

抵抗の細分化克服努力への弾圧


――減速と景気後退のど真ん中で、労働者たちは抵抗を準備するために新しい組織を建設し始めたのか?

 そうだ。しかしそれはその歩みとしてはまったくの初期段階だ。労働者たちが、活動家たちが、学生たちがつながりを編み上げることは極めて、まさに非常に困難だ。国家はそのような努力を粉砕することに警戒を怠っていない。
一例がある。私は、スン・ヤット――過去一〇年広州の大学評議員――と提携してきた。胡錦涛下の相対的な自由主義の時代、われわれは国立学校の内部で国際労働センターを何とか発足させることができた。われわれは、労働問題研究者、労組活動家、エコノミスト、歴史家、中国と海外の弁護士双方を含む労働法律家を巻き込む調査研究を指揮した。これは、多くの真にすばらしい調査研究、教室、ワークショップをつくり出した。
しかし当局は昨年それを閉鎖した。彼らは理由を一切告げなかった。それをまったく突然に閉鎖した。この事業を通して互いに知り合った研究者、学生、活動家たちは、連絡を保ち、われわれの仕事を続けようと努めてきた。しかしわれわれは、もはや公式的なやり方でそれを行うことはできない。
この労働センターは明白に当局者たちの中に懸念を引き起こした。私が拘束され、尋問されたとき、彼らは、まるでそれがまだ続いているかのように労働センターについて私に問いかけた。「去年それが閉鎖されたことをあなた方はわかっている。もはや労働センターはない」と私は彼らに語った。しかし彼らは食い下がった。「あなたが広州にいたとき、あなたはだれと話したか? あなたはあなたの同僚と会ったか? あなたはなぜ元学生と会ったのか?」、彼らは私にそう質問した。
これはあなたに、活動家たちが置かれている調査の規模に関し一つの感覚を提供するものだ。人びとのEメール、電話、集会すべては監視されている。民衆が利用するソーシャルメディアですら、人びとはそれを大量に利用しているのだが、ほとんど即時の検閲を被っている。それゆえ、この拘留された活動家たちのための力強い国際的連帯キャンペーンがある一方で、中国自身内部でこれに近いものが進んでいるなどということは全然ない。そこでは、この拘留に関して情報を得ることすら事実上不可能だ。

――この防衛キャンペーンを手伝う上で、米国内の活動家ができることは何か?

 人びとは一定数のことができる。より多くの情報のためにはいくつかの健全なウェブサイトがあり、Free Labour Acrivists、Red Balloon SolidarityあるいはChuang上で連帯活動を追うことができる。香港職工会連盟が始めた諸個人と諸組織向けの一つを含んで、回されている請願署名もいくつかある。中国との結びつきをもつ大学や基金にいる人びとのためには、それらを通して拘留に関する問題を提起するために努力する機会がいくつかある。さまざまな都市にはいくつか鍵を握る組織がある。(一部割愛)

▼出典は
socialistsworker.org.(「インターナショナルビューポイント」二〇一六年一月号)  


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