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    かけはし2016.年2月15日号

「諸制度への猛攻」をさらに進めよう


スペイン

ポデモスの二年、変革の任務は不変

ミゲル・ウルバン・クレスポ/テレサ・ロドリゲス

 昨年末のスペイン総選挙でポデモスは第三政党となり、二大政党体制を崩壊させ、スペインの今後を左右する重大な社会・政治勢力となった。この中でポデモス自体今後の行動が厳しく問われ、内部的な論争も注目されている。その方向に関し二人の同志が連名で発表した見解を紹介する。この見解は、「ビエント・スル」誌にスペイン語で掲載され、ソリダリティ向けに英訳された。注は、原文のものではなく英訳者による。(「かけはし」編集部)

今、あらためて原点の確認を


 われわれはこの日曜日(二〇一六年一月一七日)、われわれの最初の公開出し物、幸運なことにわれわれもそこに参加したマドリードでの記者会見の記念日を祝っている。われわれは、一つの大きな組織を築き上げた。それは二年の歴史の中で、変革を求める嵐のような熱気を何とか生み出すことに成功し、信頼性をもつ選挙上のツールとなっている。われわれは、公的な生活がもはや二つに分かれることのない新しいサイクルに道を開くことを助け、中でも、民衆の苦しみへのあり得る反応があきらめ、しらけ、あるいは憎悪とすらなっていたかもしれないその時に、社会を再政治化した。そしてわれわれはそれを、物質的な表現(諸々の危機とその効果)および主体的表現(社会・経済的現実と政府の腐敗に対する憤り)で現実の新たなまた恐るべき意味をはっきり声に出すことによって、原則的にやり遂げた。
 この点で、われわれの元々の意図をよく考えることには価値がある。その意図とは、緊縮という列車を逆行させること、そしてわれわれの元々のスローガンではっきり言明したように、「民衆的かつ市民的な指導性」がこもった一つのツールを設計することだ。こうすることは、懐古趣味のためではなく必要のためだ。二年経った今、懐古や気取りにふける余地などほとんどない。そうでなければわれわれは、新たな決起のサイクルに対する封殺を生み出し、そしてそれは、われわれのもっとも貴重なしかし脆弱な資本、すなわち諸サークル(注一)および他の部門や同志たちとのわれわれの交流諸手段、とのつながりを断つものとなる。われわれは、単なるもう一つの政党に姿を変える恐ろしい危険にさらされているのだ。

社会の深部に届く根を育てよう


 この二年間ポデモスは、創造性に富んだ党の諸構造構築という点で一つのモデルとなってきた。たとえば、金融機関からの経済的自立、形にとらわれないそして社会的ネットワーク内での交流能力、などがある。しかし早くから組織の心臓部には一つの全体合意がある。それは、われわれがここまでたどってきた二つの結合されていない道筋――中心部からの指揮と草の根からの建設――は、これらを超える何ものかの中で統合されなければならない、ということだ。自己満足は、いかなる偉大な事業にとってもいわば間違った相談役なのだ。
 われわれは、自らを刷新し、官僚主義的な惰性と闘わなければならない。そして集団的な統制と決定作成過程および諸々の責任への参加のための、またさまざまな領域と様々なグループ内部での実行のための諸ツールを開発しなければならない。
 われわれは、われわれ自身の成功がもとで死なないように、「選挙戦機構」は見栄えが良く、一定の政治的文化、一定の悪癖や習慣や惰性をつくり出しているということに、意識的でなければならない。選出された地位と代表性、加えて解放のひととき―権力の構造への順応という日々の誘惑――には、対抗する重りが、先のものが有毒なものであれば解毒剤が必要になる。
 その選出された地位にのみ基礎を置く組織は、逆効果だとは言わないまでも、システムの実体を変革するという挑戦に取り組むには不十分であるように見える。
 変革すべき実体としての権力は、制度的な代表からなる公式的諸空間の中だけに配置されているわけではないのだ。権力は、あらゆる居住域で、あらゆる街で、あらゆる村で、あらゆる地域で、攻撃的で反平等主義的な共有物管理として行使されている。つまり権力は、男と女、成人と子ども、中心と周辺、北と南、こうしたものの間にある関係の中で、資本と労働の間で問題の要点であり続けているものの中で、行使されているのだ。
 われわれが社会的な本物の勝利あるいはもっとも良く書き込まれた協定や反追い立て議定書を積み重ねようと、もっとも詩的に響く社会協定やもっとも麗しい憲法改訂でもそれだけでは、毎朝家族を自分の背に負って生活している者たちと、富の蓄積から生活スタイルを作り上げている者たちの間にある日々の関係という分野では、紙の上のインク以外は何も残さない。もっとも傷つきやすい人びとと社会の多数の層を保護している現行の諸法律ですら、今ある通り不十分かつ弱体化されているのだが、今日実行されていないのだ。
 われわれはあらゆるところで力関係を変えなければならない。われわれはあらゆるところで勝利しなければならない。そしてそこに向けてわれわれは、強力で十分に形成された力の基礎、明瞭な指導部を必要とし、そして、上からの攻撃、特権をあきらめるつもりのない者たちからの猛烈な攻撃にもかかわらず、強力な根っこのみがわれわれの前進を続けさせるものであるがゆえに、諸々の深い草の根を必要としている。変革の必要性を見ているあらゆる社会層と政治的な部分との連携を編み上げつつ、種を植え育てよう。

民衆的変革運動の継続的推進を


 ポデモスが発足してからの最初の数カ月、パブロ・イグレシアスは以下のように一つの原理的な考え方に触れるのが常だった。「権力は、左翼が政治に乗り出していないのであれば左翼を恐れない」と。ポデモスは、「市民への権力付与」に向けたツールとして誕生したが、その任務には永続的な実質が込められている。エリートたちは多かれ少なかれわれわれを恐れている。彼らは、制度上の諸空間におけるわれわれの突破以前はっきり示していたように、われわれを公然と憎んですらいるかもしれない。
 しかしエリートたちが本当に恐れているものは、社会的なまた政治的な生活に乱入し、自らの諸権利のために集団的に闘いつつ、自己組織化のための諸空間を生み出している民衆の、恐れることのない民衆の思想だ。自らのものを守り、恐れない、そうした労働者の思想だ。男たちへの怖れを知らない女たちの思想、連帯の共有された空間を築くためにともに組織化している住民たちの思想であり、外国人嫌悪と排除のための諸法律を恐れない、移民と難民のわが兄弟姉妹たちの思想だ。
 ポデモスは、反緊縮デモがもっとも集中した数カ月の時期にあちこちの街頭で叫ばれた(そしてペンキで描かれた)、「体制を倒せ!」政治の、一種の継続として誕生した。今日、15M(注二)以来深刻に傷を負ったその体制は、再編成に挑みつつあり、自らを安定化しつつある。彼らがポデモスの中にそのための連携者を見ることがあってはならない。
 われわれの見解では、記憶喪失の、緊縮の、民主主義制限の、そしてトロイカ従属のこの体制と和解する可能性はまったくあり得ない。われわれにとって、一つの器具としてあるポデモスの目的には、明確な対象がある。それは、一九七八年の体制(注三)を政治的に終わりにすること、そして、民衆諸階級の指導性の下で憲法制定運動の発展を可能にする新しい時代を開くことなのだ。
 二年前不確実性は大変なものであり、必要な諸々の挑戦も巨大だった。それらは今日も同様にそのままだ。われわれは、この行進の後戻りを迫られないように、この変革運動を推進し続けなければならない。それは、ポデモスに限定されてはならない変革運動であり、また必要な「諸制度への猛攻」だ。この意味でわれわれは、この変革過程に含まれるもっと広い欧州的な側面――ギリシャの例に示されたように、今ある権力とEU諸機構からの脅迫に挑む本物の変革に向けた戦略を構成する原理的な支えである一つの要素――を見失ってはならない。この二年を経てわれわれは、支配階級に対決する戦闘は今ここにあるが、しかし戦争は最小に見ても欧州的なものだ、ということをわかっている。
 ポデモスの二年。怒れる者たち(注四)の五年。資本主義の金融危機の八年。この時は独りよがりに祝うときではない。われわれの敵たちは休んでおらず、あちこちの街頭で上げられた「イエス、ウィ・キャン!」を一つの形をとった「ウィ・キャン」(注五)に移し替える努力の二年を経て、変革を求めるわれわれの必要は、もっと大きくなっているとは言わないまでも、歴史あるすべての勢力に対して今なおそのまま残っている。(二〇一六年一月一七日)

注一)政治的関心の分野や地域を基礎に地方的に催されている諸々の総会。
注二)「怒れる者たちの運動」として知られてもいる反緊縮運動。スペインの何十という街の広場で諸々の決起が始まった五月一五日(一九九一年)にちなんで名付けられた。
注三)スペインの現憲法は、一九七五年のフランコの死に続く選挙制民主主義の回復の中、一九七八年に採択された。
注四)前記15M参照。
注五)ポデモスを文字通り英訳すれば「ウィ・キャン」となる。

▼ミゲル・ウルバンは、スペインのアンティカピタリスタスにおける指導的メンバーであり、ポデモスリストで選出されているEU議員。
▼テレサ・ロドリゲスは、スペインの反資本主義左翼の指導的メンバー。二〇一四年五月のEU議会選挙でポデモスリストで当選、その後アンダルシア州議会議員となったときに、ミゲル・ウルバンと交代した。(「インターナショナルビューポイント」二〇一六年一月号) 



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