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    かけはし2016.年1月18日号

頑迷な偏見vs BLM、ムスリム、移民たち


米国

右翼への反攻に向け

歴史貫く差別イデオロギー
と闘う社会運動への挑戦を

マリク・ミオー

 今年一一月に行われる米大統領選に向け予備選キャンペーンが本格化しているが、この中での特に共和党立候補者たちの移民を対象とした頑迷な主張が世界を驚かせている。以下は、それが米国史に根をもつ根強い力をもつものであることを説明している。それゆえにこの共和党の反動的な姿勢が勝利する可能性は高いとも主張されている。現在の混沌を理解する上で重要な論点として紹介する。(「かけはし」編集部)
 米国の頑迷な偏見と国内テロリズムの主な標的は、歴史的に黒人民衆となってきた。彼らは、白人とは全く平等ではない者として、そして人間以下と見なされてきた。先住民は、入植者たちによって虐殺され、彼らの部族の土地から引き離され、「居留地」にとどめられた。先住アメリカ人は今日に至るまで、欧州人入植者の元々の皆殺し的犯罪に苦しめられている。
 今日の右翼の頑迷な偏見と準ポピュリズム的訴えは、この同じイデオロギーの拡張を基礎とし、白人の労働者階級と中産階級が彼らの社会・経済的転落および彼らの生活と将来に関わる不安定性の源と見る、諸々のマイノリティを標的としている。
 ドナルド・トランプと他の共和党大統領候補たちは、こうした「よそ者たち」に対する憎悪とおそれを利用する。この戦略は二〇一六年の大統領選に勝利する可能性はあるのだろうか? おそらくイエスでありその理由は、共和党の戦術がマイノリティの選挙権を制限することにあるからだ。それは、投票する白人の六五%が我が道をたどる限り、黒人、ラティーノ、またアジア人の九〇%が民主党候補者に投票したとしても問題ではない、ということを前提としている。
 ここまでのところこのやり方――選挙区割りのゲリマンダー化と薄化粧された投票権抑圧法と一体的な――は、共和党が州の半分以上に対する支配を獲得することを助けてきた。

400年の闘争史継承


米国独立宣言が奴隷所有者だったトーマス・ジェファーソンによって起草された時、黒人たちは排除されていた。独立後、また新憲法の中に、黒人の「アメリカ人」は存在していなかった。黒人奴隷たちは唯一財産としてのみこの新しい国の一部と見なされ、その中で、解放されるという法外な幸運を享受した者たちは、法的な差別と再びの奴隷化の可能性に苦しんだ。
英国支配から米国の独立まで、黒人たちは、最初は人間として、二番目には市民として、最後には平等な者として(いまだ今後のこととしてある)認められるために闘った。アフリカ系アメリカ人は、制度的レイシズムと構造的不平等がしつこく続く限り闘争は決して終わらないという現実の下、「闘争は続く」との構えで行動している。
歴史における前進の一歩ごとに(奴隷制の終了、抜本的再建、ジム・クロウ分離〈特に南部諸州で全般化していたある種のアパルトヘイト:訳者〉の終了)、変わることなくあくどい反動が現れてきた。たとえば一九七〇年代以後、学校の統合は実際上、ほとんどの部分で逆転されてきた。アファーマティブアクション計画(差別実体の克服を目ざし黒人への優先割り当てを設けようとした計画、白人右派は逆差別との猛烈なキャンペーンを展開した:訳者)はほとんど終わりを遂げた。黒人、白人間の富の不平等は広がった。
「黒人の命も大事だ」(BLM)運動は、白人の権力に応じたこれら四〇〇年の闘争の上に位置している。それは、同じ右翼の反動に、さらにはリベラルや何人かの左翼からの押し戻しにすら直面している。BLM指導者たちは、他の者たちが問われることのない一つの質問をしばしば問われている。つまり、「他のいのちも問題ではないのか?」と。
しかし、白人たちが同じ警察の暴力や有罪との社会的想定を前にしたとしても、そこではBLM運動の必要性はないだろう。白人たちが警官(あるいは黒人)による行き当たりばったりの攻撃や殺害に会ったり、仕事やまともな住居に関する差別を前にしたりすることはまれなのだ。「白人の特権」と呼ばれているものは白人優位制を下支えにしている。白人がこの現実を否認する時であってさえ、黒人民衆とその場所を交換する者は、たとえあるとしても、ほんのわずかだろう。
多くのリベラルと一部の左翼は、「白人の特権」というこの用語を受け入れない。理由は、それが黒人の平等のために立ち上がるよう白人の労働者を説き伏せることをより難しくする、というものだ。しかし特権は、単純な問題ではない。それは、文書にされた諸々の法、白人自警団の暴力、そして抑圧によって確立された、現実の中に根付いているのだ。
この国の歴史に対する客観的な研究がこれを証明している。白人とその他のすべての者を教育する唯一の方法は、この真実を話し、国家の権力による抜本的な制度的変革を要求することだ。一八六〇年代の内戦、および裁判所が命じた統合を強要するための一九六〇年代の南部における連邦軍部隊利用、この両者が、先の点を見える形で示している。

「よそ者」恐怖症の新対象

 似たような右翼イデオロギーに駆られた攻撃がムスリム(もっとも恐れられている今日の「よそ者」)たちに向けられている。ムスリムたちは、「アメリカの諸価値」に忠実であることを証明するよう求められている。トランプは多くの者が信じていることを言葉にしている。つまり、すべてのムスリムを合衆国の外に置いておけ、と。
カリフォルニア州サンベルナルディノでの一四人射殺は、この問題を見える形で示している。最初、この射殺犯がまだわかっていなかった時、犯人は白人かもしれないと多くが考えたがゆえに、メディアの中では銃器と精神病理を巡る議論が起きた。しかし、二人の犯人がムスリムの名前をもつ夫妻であることがはっきりした途端、焦点は即座に転換した。
ニューヨークポスト紙は、犯人の属性をつかみ取る数時間の内に、一面大見出しを「殺人伝道」から「ムスリムキラー」へと変える形で、残酷な明らかさをもって偽善を演じた。ムスリム全員(シーア、スンニ、不信心者、世俗派、あるいは無神論者)が、主流メディアから声を出すよう迫られた。コロラドの産児計画診療所を標的に白人キリスト教徒男性が三人を殺害した時、ニューヨークポスト紙は、その一面に「クリスチャンキラー」と見出しを打つことなどなかった。
ムスリムは既に、少数のシリア難民を認めるという問題を巡って標的にされていた。保守的で反ムスリムのデマゴーグは今、米国生まれのムスリム市民をも標的とすることを正当化するために、「イスラム過激派との戦争」を煽りつつある。今やイスラム的な名前をもつ個人はだれであれ、肉体的暴力の可能性を前にしている。
ここでは、何百万人というムスリムは文化的にはムスリムであっても世俗的で、また無神論者(私のように)ですらある、という事実は無関係だ。それは、黒人であるということと似ている。つまり警官やレイシストは、人のイデオロギーや富や教育をたずねたりしないのだ。彼らは、犯罪の可能性について「合理的な疑い」を当然と考えている。
トークショー主催者であるビル・マハーのようなリベラルの民主党員でさえ、そしてこの者は一般論として宗教を笑いものにすることを好んでいるのだが、イスラムだけが憎悪と暴力を教えている、とのたわごとに乗ったことがある。キリスト教徒が多数である国(ドイツ)が二〇世紀にナチスのジェノサイドを遂行したという事実は、ほとんど意味をもっていない。
恐怖の売り込みと悪魔視化は、単に右翼のデマゴーグによるだけではなく、米国史の中では何回も起きた。ニューディール大統領のフランクリン・D・ルーズベルト(FDR)は、軍での統合およびジム・クロウ分離を相手とすることを拒否した。
黒人たちは一九四一年、軍需産業での仕事の分け前を求めて「ワシントン運動行進」を組織しなければならなかった。日系アメリカ人は日本人のように見えるということ以外の正当化や当然の手続きがまったくないまま、日系アメリカ人の即時収容(牢獄キャンプ)に関する執行命令を発したのはFDRだった。

ファシズム孵化の土壌はある

 主流右翼はその上、メキシコや中米からの移民に対しても、そのレイシズム的かつ恐ろしげなスケープゴート化を継続している。トランプの観点では、一一〇〇万人の無届け移民全員と彼らの合法的な米国の子どもたちは国外追放されなければならない。
国境の壁、並びに特に追放前の移民収容に対する要求は、重要なマイノリティからの民衆的支持を勝ち取ってきた。それは、当時欧州でもっとも「啓蒙された」国であった一九三〇年代のドイツにおける反ユダヤ宣伝を思い起こさせるものだ。それでもデマゴーグヒトラーと彼の「褐色のシャツ」は、支配的エリートに反してであっても潮目を変えた。
それはここアメリカで起きる可能性があるのだろうか? 白人優位主義者は「ファシスト」として努めを果たしてきた――特に、アフリカ系アメリカ人を抑圧するために諸州が法と力を利用したかつての南部における、黒人民衆に敵対したちんぴらのように――。
サウスカロライナのような南部諸州の投票権を抑圧する今日の新しい諸々の法は、歴史がどのようにして自身を繰り返し得るかを示している。白人の権力は、アフリカ系アメリカ人が政治的に孤立するにしたがい、州で力を増しつつある。
移民問題は、反BLM反動やムスリムに対するスケープゴート化と組になって、ファシズム運動の大量孵化にむけた潜在的養育場の存在を示している。
トランプは古典的なファシストではない――彼は、彼の競合相手や敵対者の後をつけ回す「褐色のシャツ」のような組織をもってはいない――。しかし彼の集会に参加する多数のそうした者たちは、「よそ者」を悪魔視することがどのようにして暴力にいたり得るかを示すことになった。その一例は、彼のイベントの一つで一BLM支持者に起きた。
トランプは、彼が宗教的ではないことに特色がある。この百万長者の訴えは、民衆の一人の男であると宣言しつつ、妊娠中絶や結婚のような社会問題よりもはるかに、経済的渇望を利用している。
彼は、労働者階級の白人が抱く犠牲者であるという感情に合わせて勝負をしている。彼は、ビッグビジネスやウォールストリートを含む彼自身の階級を糾弾することまでしている(彼の意図は別として)。

BLMが必要な道照らし出す


右翼が強さを見せる中――それは、共和党と議会と諸州の下院の多数を支配している――、幅広い民衆は分断されている。
過去二年のBLM運動は、移民の「夢見る者たちの運動」と並んでなすべきことの模範をしつらえてきた。それは、自ら決起することをもって、二つの二大政党あるいはその政治家たちへの依存なしにはじまっている。
大学キャンパスへのその拡張は大きな前進だ。そこでは、黒人学生がレイシズムと差別的諸行為に反対する道を導いている。ミズーリ大学での勝利は、フットボールチームの前例のない立場を含んで、この国を一周する形で学生たちに勇気を与えた。抗議活動は「政治的正しさ」についての嘘を暴露した。問題がレイシズムであり差別である以上、その言葉自身が軽蔑的効果をもつ――あなたはそれを根絶しようとしているのか、それともそれが過去に起きたことだという理由でオーケーであると偽りの主張をしているのか?――(似たような論争は、南軍旗とその記念碑の撤去を巡っても起きた)。
ニュージャージーのプリンストン大学でも黒人学生が、何十年も学舎に掲げられた問題――大いなる分離主義者であった元大統領を称えて――を押し出した。ウッドロー・ウィルソンは、一九〇二〜一〇年には同大学学長として、一九一一年〜一三にはニュージャージー州知事として、そして一九一四〜二一年には合衆国大統領として任に当たった。
そのウィルソンは、連邦政府の諸々の部門を再分離するために彼の内閣を利用し、公務員応募者に写真を付け加えることを強要した。そしてこれは当時アフリカ系アメリカ人から、彼らを除外する動きとして理解された。
ムスリム共同体はほとんどの部分が、BLMや黒人学生や夢見る者たちがこれまで行ってきたようには、ソーシャルメディアや街頭決起を活用してこなかった。それは正真正銘のおそれからだ。しかしながらある時点で、反ムスリムの偏屈者を押し戻すためにこれは変わるに違いない。
イスラムはほとんどの宗教と同じく、ほぼ定義上、階層的であり聖書に関わっている。問題を起こしているものはそうした文書ではなく、宗教の政治的イデオロギーだ。この後者が彼らの優位性や他の宗教への支配をその追随者に教えている。
ISISはまさに、宗教的優位性の教条と、西側並びに新植民地主義的支配権に反対すると主張する政治イデオロギーを結合しているがゆえに、その追随者を獲得している。
合衆国内でイスラム主義者の訴えから急進化した若者たちは、カナダ、フランス、また他の欧州諸国での場合と同じく、アラブ諸国と北アフリカにおける占領戦争での西側軍隊の暴力を見ている。
支配的エリートの「解決策」は、フランスが今行っていると同じく、ムスリムが標的にされ彼らの諸権利を失う、そうしたより大きな警察国家だ。これは問題を悪化させ、反動的なイスラム主義者の物語を強化するだろう。
挑戦すべきことは、イスラム嫌悪と頑迷な偏見と闘う社会運動を構築することであり、同時に、「イスラムとの戦争」を遂行中の同類の西側帝国主義諸国と足並みをそろえることなく、反動的なISISイデオロギーおよびテロ手法に反対することだ。
▼筆者は米国の社会主義者とフェミニストの組織であるソリダリティの機関誌、「アゲンストザカレント」の編集者の一人。(「インターナショナルビューポイント」二〇一六年一月号)   


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