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    かけはし2015.年6月1日号

セウォル号遺家族への暴言と挑発


君は「イルベ・コード」から自由なのか

真相糾明に敵対する政府と特別法



  共同通信は5月2日、昨年4月に起きたセウォル号沈没事故をめぐりソウル中心部で1日夜、政府の対応に抗議する1000人以上のデモ隊の一部と機動隊が衝突した、と伝えた。それによれば機動隊は放水銃で大量の催涙剤をデモ隊に散布し、多数が嘔吐したり、激しくせき込み喉の痛みを訴えた。抗議したセウォル号遺家族にも催涙剤を浴びせた。
 一方、パク・クネ政府は600万人近い国民の署名を得て制定された「セウォル号特別法」について、真相糾明がされないまま事実上の骨抜き策動している。「朝鮮日報」、「東亜日報」などの保守系メディアもまた政府の意向に呼応して遺家族批判を繰り返し、右翼インターネット・コミュニティー「イルベ」や「西北青年団」も遺家族への挑発的言動を続けている。以下は、セウォル号の惨事に関する「ハンギョレ21」の一連の企画記事の1つで、国家とは何か、国家の責任とは何かを根源的に指摘しようとしている。(「かけはし」編集部)
 その日、国家の無能があれほどまでに明らかになっていた時、ある人々は2002年や08年のキャンドル・デモのように巨大な抵抗を予感したかも知れない。市民らが全羅南道・珍島彭木港に駆けつけ、ソウルの光化門広場にも集まった。けれども依然として事故の真相は糾明されず、セウォル号の遺家族は街頭にいる。国民の生命を救うことに、あれほどまでに徹底して無能だったパク・クネ政権は、真相の糾明を根本から封鎖することには天才的能力を発揮した。
 セウォル号特別法には結局、捜査権や起訴権が含められなかった。今回のセウォル号特別法施行令案は「調査対象」である政府公務員が「4・16セウォル号惨事特別調査委員会」の定員の半分以上を占めたばかりではなく、政府の委員会業務を総括することにした。事実上、調査を放棄するという宣言にも等しかった。

暴言、誹謗にさら
されたまま1年
セウォル号の犠牲者は単に2014年4月16日に海上事故に遭った人々だけではなかった。遺家族もセウォル号の犠牲者だ。事故以降、今日この瞬間まで彼らは生きていながらにして地獄を味わっている。政府の賠償・補償金だけが大書特筆され、通り過ぎて行った市民はもちろん、遺家族の知人たちまでもが「お金をもらったんでしょ」と尋ねる。カネのためにこうやっているのではない、まだ真相の調査も終わっていないという遺家族の絶叫は結局、人々のところには届いていない。セウォル号惨事1周年がやるせない理由は、セウォル号の遺家族が依然として孤立しているという事実の故だ。国家に対する怒りと失望が政治的に媒介されずに、遺家族は日間ベスト貯蔵所(イルベ、注1)や大韓民国オボイ(父母)連合のような極右勢力による誹謗やブラック宣伝に露骨にさらされたまま惨事1年を迎えた。
イルベのユーザーたちはセウォル号の惨事が起きてからわずか数日も経ない時点で、遺家族を「遺族の虫けら」と呼び下品な暴言を浴びせた。「3日間×××ユ××ら声もいいね」「潜水夫に××した遺族の虫けら××法」「遺族の虫けらとキムチ女(後述)の共通点」などのような文章がイルベの掲示板にひっきりなしに上がってきた。イルベのユーザーらは、政府の遅々として進まない対応に抗議している特定遺家族の写真をキャッチャーした後、「この女郎、煽りやだと言うが、俺の×× ×× ××」などの文章を書いて、職業的煽動者だというイメージを被せた。「ユミンのアッパ(父ちゃん)」キム・ヨンホ氏に向かっては過去の経歴を挙げて、「パルゲンイ(アカ)」として追い立てた。
「セウォル号の惨事のせいで景気が沈滞し、国政が麻痺している」云々という不平もまた数限りなく上がってきたが、他の下品な暴言などに比べたら、その程度の発言は「理性的」に見えるほどだった。挙げ句のはてには「死体売り」という言葉まで出てきた。子どもらの死を口実に父母らが補償金をより多くもぎとろうとしてあんなにも騒がしく振る舞っているという非難だった。イルベの内部でも遺家族に対する度を越した発言を自制しようという声がときたま出てきはしたものの侮辱とあざけりは収まらなかった。
単に掲示板の文章だけではなかった。イルベはさまざまな方法を駆使して遺家族を侮辱した。特に多くの人々を驚かせた事件は、イルベの一部会員が主導した「光化門暴食闘争」だった。2014年9月、彼らは断食闘争中だったセウォル号遺家族の前に坐板(地面に並べる商品を置く板)を広げ、ハンバーガーやピザを配達させて食べる「イベント」を繰り広げた。子どもらを失った悲しみの中で断食をした父母たちをからかうように、平然として眼前で飲食をする若者たちの行動は知覚のない行為というレベルを超えた加虐的暴力だった。それに加え、西北青年団の末えいを自任する者たちまでがソウル・光化門に現れ、遺家族に狼藉を働いた。西北青年団とはいかなる団体だったか。解放直後、左傾勢力だという名目で数十万人の国民を虐待し殺害した反人倫的犯罪集団だ。

 
堕落した能力主
義の追従者たち
人々は表面に現れたイルベの暴挙、背倫的表現の数々に注目し、そして怒る。だがそれよりもっと重要なことは地層に通底しているコードだ。暴言をさしたる一貫性なしにばらまく空間であったのならば、今日のように巨大なコミュニティーへと成長することはできなかっただろう。イルベがこれほどに大きくなった背景には内部的動機と外部的動機がそれぞれ存在するだけではなく、明確な正当化の論理がある。人々を集めさせ、意見を凝集させる「正当性の感覚」が存在するのだ。要するにイルベの談論には「イルベ・コード」が入っている。それは何なのだろうか。
これまでのイルベの談論の中で最も問題あるものとして挙げられてきたのは2つ、「女性嫌悪」と「全羅道嫌悪」だった。さらにもう1つ挙げるなら、露骨な反共主義(進歩嫌悪)だ。全羅道嫌悪は、文字通り全羅道(光州を含む韓国南西部)の地域民に対する人種差別的嫌悪の情緒だ。イルベでは、全羅道の人々が好んで食べる「ホンオ」(洪魚、ガンギエイ)を湖南(全羅道)を象徴する名称として使用しているが、これはかつて「デザインサイト野球ギャラリー」から始まったというのが定説だ。
女性嫌悪については、もう少し説明が必要だ。それは具体的に「男のせきずいをしゃぶり取る若い女性(=男からカネを絞りあげる女性)」、すなわち「キムチ女」に向けた嫌悪だ。前からあった「テンジャン女(原義、みそ女)」談論の延長線上だと考えられる。「…ジャン女」は言うならば「ご飯は、おにぎりですませても、コーヒーはスターバックスで飲まなければ満足できないという女性」だった。イルベが嫌悪する「キムチ女」のステレオタイプは、おおよそ以下のようだ。「スペック(特技)も能力もないくせに物欲や虚栄心だけが強く、男性に対する配慮はケシつぶほどもないのに進歩の煽動にはすぐにも惑わされる若い女性」。反面、り「タルキムチ」はそのようなキムチ女の状態から脱け出した、いわゆる「ケーニョムニョ(概念女)」を指す。
そのほかに進歩陣営に対する嫌悪の談論、反移住労働者の談論もあるが、このすべての談論を貫通している一貫した共通点がある。それは「堕落した能力主義」だ。「能力ほどに優待されるべきであり、能力のある者が支配しなければならない」ということ、それがよく言われる能力主義(Meritocracy)だ。反面、堕落した能力主義は「能力者は尊重されるのが当然だけれども、能力(Merit)や資格(Membership)がなければ、いくらでも差別し侮辱してもよいという能力主義」だ。それは「人間は平等だ」という認識の土台が崩れた能力主義であり、従って事実上は人種主義との区別が不可能になった能力主義だ。イルベのユーザーたちが学閥や序列にただただ敏感で、ひまさえあれば「スペック認証」をしているのも決して偶然ではない。
「キムチ女」に対するイルベの嫌悪は、無賃乗車に対する憎悪を若い女性に一方的に投写したものだ。進歩勢力に対する憎悪は、いわば「民主化運動勢力」が能力に比して過度な社会的待遇を受けていると考えていることから始まった。弱者や少数者に対する「積極的優待政策」(Affirmative Action)や、それと似通った社会的配慮政策に対してもイルベは常々、激しい敵意をむき出しにした。彼らが寄与したことに比べて、得たものが余りにも多いと考えているからだ。

 
社会的権利は
商品ではない
イルベのユーザーたちは社会的権利と義務とを、あたかも等価交換が市場での消費行為であるかのように考える。100ほどの義務を遂行してこそ100の権利が生じ、1億ウォンを出せば1億ウォンだけの権利が生じるのは当然だという思考方式だ。そういうわけでイルベにとってキムチ女、弱者、少数者、進歩勢力などは資本主義の秩序を支えている、かの崇高な命題を汚染させ、混乱をもたらす者たちであり、私が受けるべき正当な取り分を奪っていく破廉恥な者たちだ。もちろん歴史的な事実はイルベの想像とは、まるで違う。大部分の重要な社会的権利は、義務に対する等価として与えられたものではなく、抑圧されている人間の熾烈な抵抗を通じて闘いとられたものだった。それに、民主主義の基本原理は1ウォン1票制ではなく1人1票制だ。
セウォル号の惨事はイルベの暴言や暴挙をあらわにしたりもしたけれども、同時に「イルベ・コード」がイルベだけのコードではないという事実を劇的に見せつけた事件だ。セウォル号のせいで景気が悪くなったという「セウォル号不況論」や、遺家族の中に政治的煽動者がいるという「不純な遺家族論」のような話を積極的に流布したのは「朝鮮日報」、「東亜日報」、総合編成チャンネル(TV)のようなメディアと保守傾向の中産層、既得権層だった。この人々のいう「純粋な遺家族」というのは、どんな遺家族なのだろうか。納得することのできない事故と政府の対応のまずさによって子どもらが命を失ったというのに、どんな抗議もせずに「じっとしている」遺家族だ。イルベは、その序言を受けて特有の反人倫的言語によって拡大再生産する役割をはたした。ともすればこれは今日の韓国極右派が駆使している絶妙な役割分担だ。一方が後方で論理を開発すれば、他方の側は刺激的言語を通じて素早く伝播するのだ。
自分の家の子と遊んでいる友達の子の家が賃貸マンションなのか高級マンションなのか、その父親の職場はどこなのか、職場での地位はいかほどなのか確認しなければ満足がいかない人々、まさにそれが韓国の主流だ。イルベが登場するはるか以前からイルベ・コードを先取りしていた彼らは、当然なことではあるがイルベ的言語によって発火しはしない。彼らが上品に語る話は、だがイルベ・コードと本質的に違いはない。「政治的煽動は混乱を招く」「遺家族は純粋でなければならない」「経済は至高の価値だ」…。この主張を2つの理念によって定式化することができる。政治を道徳へと還元する反政治主義、そして民主主義を市場の論理、企業の論理に従属させる経済主義がそれだ。これらのイデオロギーは一定のレベル以上に発展した資本主義社会において既得権を守る極めて効果的な戦略となる。

我々の前を阻んでいるのは「国家」だ
セウォル号の惨事を哀悼し追悼すればするほど、我々の前を頑強に阻んでいる根本的な難題はイルベやユ・ビョンウォン一家(注2)ではない。ずばり国家だ。その国家は単にパク・クネ政権ばかりではなく、安全不感症にかかった政府の各部署や船舶業者、作動しない災難防災システム、セウォル号のせいで不況に陥ったとウソをつくメディア、セウォル号の遺家族が純粋でないと疑念を抱く国民など、すべてを含めた総体的な意味において「国家」だ。セウォル号の惨事は、その国家が赤裸々な素顔をさらけ出した事件だった。そして我々が国家を変えることに意欲を示すことができずにもじもじしている間に、イルベ・コードは遺家族の心臓を1日に何回も海の中に沈めている。(「ハンギョレ21」第1058号、15年4月27日付、パク・クォニル/コラムニスト)

 注1 右傾傾向のインターネット・コミュニティー。
注2 セウォル号を所有していた清海鎮海運の実質オーナー。事故の責任を問う捜査の手が伸びる過程で逃亡・自殺したとされている。 

コラム

当世コラム事情

 一日の始まりは辛い。固まった身体を起こして布団から出ると、痛む腰を曲げて顔を洗う。連れ合いがテーブルに朝刊を運んでくる。まず一面下のコラムに目を通す。週末にポストに届く「かけはし」。封筒を破り、こちらも「架橋」の頁をさがす。
 人気シリーズ『木枯し紋次郎』で知られる作家の笹沢左保は、原稿を書くにあたり特別なこだわりを見せた。編集者が指示した字数を、原稿用紙最後のマスぴったりに仕上げる。句点で終えて、「ぶら下がり」すら使わない。それが職人技と自負する。見事なものである。
 右島一朗・本紙前編集長(故人)。愛用の万年筆で専用用紙をびっしりインクで埋めた。時代は写植、ワープロからパソコンへ。データ入稿が組版を劇的に省力化しても、彼の原稿はオペレータを苦しめた。それでも没後、数多の論文は仲間たちの手で八〇〇頁を超える著作集に結実。私も校正の一部を預かる光栄に浴した。
 文章は長ければいいというものではない。短い枠のなかに、いかに自分の思いを詰め込むか。たとえば商業新聞や雑誌のコラム欄などは、いい見本になる。「朝日」の天声人語、「東京」の筆洗。そして当欄「架橋」。小説や政治論文とは異質の難しさがある。
 文字数の過不足は許されない。起承転結に沿えばいいというものでもない。読者を引き込むため、意外性のある引用を冒頭に置く。その解説をしながら、文章半ばで本題に入る。これらの関連性を明かし、いよいよ主張を展開する。たとえば現政権のやり方の矛盾や違法性を問う。もちろんテーマは自由だ。子どもの日、国際会議。文化人・著名人の悲報にも触れる。
 昨年九月二日付の「筆洗」。延長五〇回の死闘を讃えた一文は、軟式高校野球の歴史から始まる。なんと日本が発祥国。子供時代に誰もが経験した草むらの光景を描く。ぐいぐい引き込まれた後の文末三行が秀逸だ。
 今年四月二〇日付。人気漫画「課長島耕作」の一場面が登場する。貧しい家庭に育った女の子は、母の手作りのおはぎを家庭訪問の教師が捨てても、それを恨まない。筆者は格差が拡大する社会を憂う。
 遠い過去の話でも、必要とあれば材料に使う。B・B・キングの死を悼む五月一六日付。過酷な差別が生んだブルースが、白人から命を守る役割を果たしたとは知らなかった。
 ぜい肉は落としても骨までは削らない。読者を小宇宙へと誘う構成力。書き手の技量が問われる短文こそ、もっと注目されていいのではないか。
 東京新聞「あけくれ」は投稿欄。他愛のない話題でも、素人とは思えない美文を目にすることがある。感動的な言葉に出会える喜び。コーヒーをすすりトーストをほおばりながら、涙で文字がかすむ朝である。 (隆)


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