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    かけはし2015.年5月25日号

ついに民主労総を突き動かす


耐えられない最低賃金の軽さ

多くの労働者の叫びとなった「最賃1万ウォン」

 マクドナルド・ビックマックセット(6100ウォン)は食べることができない。スターバックスのアメリカーノ(4100ウォン)1杯は飲むことができても、アイスキャラメル・マッキアート(5600ウォン)は涙をのんであきらめなければならない。粉食店でチゲ1人前を食べるにもギリギリだ。映画館での早朝割引券(6000ウォン)1枚も買うことはできない。1時間働いて稼いだカネ、最低時給5580ウォンでやれることは、そう多くはない。ところが、このような最低賃金でさえキチンともらえない労働者が227万人(2014年の統計庁経済活動人口付加調査)に達する。労働者全体の12・1%だ。賃金は労働者にとっては命の綱だ。かろうじて最低賃金だけをもらっている労働者にとっては、なおのことそうだ。
 今年、民主労総は最低賃金を1万ウォンに引き上げろと要求する。まもなく来年度の最低賃金を審議・議決する最低賃金委員会が開かれる。「最低賃金1万ウォン」。民主労総よりも先にその旗を掲げた人々がいた。2013年「最低賃金1万ウォン」引き上げ運動に情熱を注ぎ、志半ばにしてこの世を去ったクォン・ムンソク「アルバ(アルバイトの略)連帯」の代弁人。彼の名前で、最低賃金1万ウォンの課題を再び探ってみた。
 「賃金は結局、政治だ。バターのように市場の需要と供給の原則によって決定されるように放っておいてはダメだ」(3月2日、ポール・クルグマン「ニューヨーク・タイムス」寄稿文)。低い賃金は政治的選択だ。そうであるがゆえにそれは変えることができるし、変えなければならないのも結局は我々だ。その我々の話も聞いてみた。「最低賃金を引き上げれば本当に零細自営業者や中小企業は潰れるのか」という質問についての答えを現場で探ってみた。
 韓国政府が労働市場改革の模範答案として挙げているドイツでは今年、初めて最低賃金制度が施行された。ドイツ現地の声をカン・スドル高麗大教授が送ってきた。国会で論議中の最低賃金法改正の動きも同時に伝える。(「取材フォン・イェラン、チョン・ジンシク、イ・ワン、ソン・チェギョンファ記者、編集イ・ジョンニョン記者、デザイン・チャングワンソク)。
 以上の企画編集記事のうち本号では最賃1万ウォン運動の先駆け、クォン・ムンソクの足跡を紹介する。(「かけはし」編集部)


その日、子どもが泣いた。夫が見えなかった。未明、TVの音。子どもが、だだをこねた。リビングの夫が倒れて伏せっていた。両肌をさらしたまま。冷たい体。脚も青みがかっていた。119番。足がふるえた。「心肺蘇生術ができますか。受話器の向こうから聞こえる声がおぼろげだった。すぐキチンと寝かせろ、と消防隊員が言った。心臓が早鐘を打つようだった。生まれてから初の誕生日を2カ月後に控えていた赤んぼう娘がチョコチョコと這っていた。「アッパ(パパ)」と呼んだ。死んだのか、そんな思いが走った。2013年6月2日、日曜日の未明3時、病院に運び込まれた夫は蘇生が難しかった。クォン・ムンソク(当時35歳)の心臓は再び鼓動を取り戻すことはできなかった。

彼は逝ってしまった


前日、クォン・ムンソクは急いでいた。家を出る彼に妻カン・ソンヒさんが聞いた。「土曜日なのに仕事に行くの?」「講義があって早く出かけなくちゃ」。彼のカバンには資料がギッシリと詰め込まれていた。「最低賃金1万ウォン終日アカデミー」。カトリック青年会館(ソウル麻浦区)でクォン・ムンソクは若い活動家たちを集めて、午前10時から午後6時まで教育を行った。「これは良い、これは私は嫌だ」などと個人的な言葉が多かった。いつもとは違っていた。「彼は150ページにも及ぶ資料を持ってきていて、資料が余りにも多いので1つ1つの資料を紹介する程度にとどまってしまった。そして彼の生涯最後の行事は確実に終わった」(ク・ギョヒョン・アルバ労組委員長)。
講義後、彼は説明もなしに家に帰った。いつもとは違って急いでいた。連れ合いに、首がとても痛いと言った。娘を風呂に入れてから、異常なほどに汗をかいた。6月のまだ初め、夏ではなかった。冷蔵庫から取り出して食べたトマトがとても冷たくておいしいと言った。そして数時間後、彼の心臓は徐々に冷たくなった。
その年、クォン・ムンソクの肩書きはアルバ連帯代弁人。彼にとって代弁人は異常な役回りだった。注目されるのを嫌がり、人前に出るのをはばかる性格だった。2人の姉がいる3姉弟の末っ子の彼は口数も少なく、もめごとも少ない優しい弟だった。そして舌が短かった。「構造的に舌が短かったんです。手術も受けたけれど良くならなかったんです。発音を矯正しようとして雄弁学院にも通ったが途中であきらめもしたんです」(長姉クォン・ウネ)。
本人が「ムンソク」と紹介しても相手には「ムンドク」と聞こえた。その彼が代弁人を担うことになった。「透明人間」という別称もあった。実にたくさんの仕事をやり、準備し、知らせながらも、彼はいつも見えない位置にいた。中肉、ややぽってりの体つき、人好きのする声の彼は、いつも写真の片隅にいた。永訣式(喪式)のとき家族や知人は驚くことしきりだった。彼が主人公の写真はまずなかったからだ。
「最低賃金は生活賃金でなければなりません」と言っていたクォン・ムンソクにとって最低賃金1万ウォンは紙幣ではなかった。低賃金・不安定非正規職、悲しい労働者たちの涙をぬぐってくれるハンカチ。彼らの苦しみを放置してはならないという檄文の旗。ハンカチを振って旗をなびかせたクォン・ムンソクにとって苦しみは生来的に敏感な問題だった。
彼は幼いときからずっとアトピーを患った。高校生の時、姉に付いて初めて行ったヌンソルメ(雪そり)場で顔面片側のほお骨が砕ける事故に遭った。ところが驚く気配もないので、一層驚いた。「自分の体で起きていることに自ら鈍くなろうとしているようでした。意図的に体について忘れてしまおうとしたのではないかと思いがします」(長姉クォン・ウネン)。「これほどに誠実な人がいるのだろうかと思うほどに誠実だった。余りにも睡眠が少なすぎるという感じがした。いつも夜遅くまでいたけれども、充分に睡眠をとることなしには到底やりおおせないほどの量の仕事をやっていた」(クム・ミン基本所得韓国ネットワーク常任理事)。
新聞社で記事の原稿通りに活字を拾う文選工だったアボジ(父)は、彼がやっている仕事について見当はつけていた。生活費を支えようとして、料理上手な腕を活かして下宿屋をしていたオモニ(母)は、彼のやっていることに見当もつかず、そして泣いた。

理想論と無視され続けた日々

 兵営で銃を持たないという信念を守り抜こうとして彼は1年間、蔚山で溶接の仕事を学び資格を取った。その資格証が、良心的兵役拒否の代価である矯導所(刑務所)収監を避け、兵役特例業種へと迂回する道を開いてくれた。2007年、クォン・ムンソクは軍服務を終えた後、クム・ミン氏の選挙事務所を訪れた。当時、韓国社会党の代表として大統領選挙に乗り出したクム・ミン氏の第1公約が基本所得制の導入だった。
所得があるにせよ無いにせよ、また財産が多いにせよそうでないにせよ、あるいは労働をしているにせよしていないにせよ、すべての人々に一定の金額を支給しようというのが基本所得制の骨子だ。「それ以前は全く知らない間柄でした。選挙を応援するからと言ってやってきたのです。それ以降、一緒に基本所得の運動をやりました」(クム・ミン)。選挙後、クォン・ムンソクは基本所得韓国ネットワークの幹事を務め、さまざまな行事、キャンペーン、パンフレットの発行などの実務を、ことごとく面倒をみた。大学時代に学生会の仕事をやりながらも変わることはなかった。「名もなく黙々と委ねられた実務をやっていたヒョン(兄貴)でした。日常でヒョンはいつも黙々と大字報(壁新聞)を書き、本を読み、文章を書き、組織化する典型的な学生運動家でした」(大学後輩)。
2010年頃から彼は非現実的な最低賃金の現実を打ち壊そうと思った。労働所得分配率が経済開発協力機構(OECD)加盟国の平均値より10%ほど低いにもかかわらず、年ごとの最低賃金はひとけたの引き上げにとどまっていた。労働所得分配率が少ないということは、それだけ資本の取り分が大きいという事実を示している。最低賃金を大きく上げなければ労働所得分配率が上昇しないのであり、そうしなければ「プカプカ浮かんでいる島」のような低賃金労働者たちが土にしっかり根を下ろすことができない、という論理が深められていった。
「2012年初めから基本所得の導入、最低賃金1万ウォン、労働時間短縮、このように3つが連動したプロジェクトをクォン・ムンソクと一緒に推進しました」(クム・ミン)。引き続いてその年の大統領選挙に出馬した清掃労働者キム・スンジャ候補が最低賃金1万ウォンを選挙公約として採択したけれども、こだまは響かなかった。
あ…あ…あのですね…何なのかと言えば…、とつとつとした彼の話しぶりのように、彼の政策キャンペーンはなかなか思わしい反響に出合えなかった。最低賃金1万ウォン引き上げ論は理想論だとして無視され、基本所得の導入も同様だった。「的をはずして蹴っている」という思いがタバコの煙のようにモクモクと立ちこめた。まるで片方の手だけで手拍子を打とうとする人のようにへとへとに疲れた。
そんな彼にとって2013年は生涯最後の年であるとともに、最も華麗な時だった。その年の1月2日、アルバ連帯の創立記者会見を開いた。記者はただの一人も来なかった。だがアルバ連帯の運動方式は人々の視線を集めた。最低賃金に課題を単一化し、運動のやり方も愉快で発刺と組み立てた。「シイリャ パンソンテゴッ」(チャン・ジヨン、注)をもじった「シイリャ アルバテゴッ」にはクォン・ムンソクと彼のアルバ連帯の仲間たちが、風刺によってぐっと言いあてた韓国社会の現実が盛り込まれた。「あゝ! うらめしくも悔しくて。あゝいまいましくて。われら200万のアルバよ! 生きているか、死んでるのか? 休まず耐えて、また耐えたのに最低賃金は雀の涙ほどに上がるのをみているつもりか。うらめしや、うらめしや。アルバよ! アルバよ! 仲間たち! 仲間たちよ!」。

アルバ生ではなく「アルバ労働者」

 アルバ生ではなくアルバ労働者だという概念も強調した。報道資料にアルバ労働者と書いても記者たちはアルバ生と書き換えた。そのたびに記者たちに電子メールを送り、アルバ労働者の概念を説得した。アルバ生はアルバをしている大学生を連想させ、労働者ではなく副次的で臨時的という偏見を与えるからだ。アルバ連帯の正式名称である「非正規不安定労働者と共に行動するアルバ連帯」もまたアルバ労働者という概念と連結する。正規職自体がむしろ例外的雇用形態であり、多数が不安を抱えたまま労働している時代ではないか。
「今は単に学生たちだけがアルバ労働をしているのではない。アルバで生計を立てていかざるをえない人々が次第に増えています。そもそもよい仕事をもっていると言っても、賃金労働者である限り、余地なく最低賃金法の適用を受けます。そういった点で最賃はこの時代を生きていくすべての人々が注目しなければならない問題だと考えます」(インターネット・メディア「コハム20」インタビュー)。彼自身はアルバをほとんどやったことがなかったけれども、「アルバ労働者たち」は最賃の奇怪な現実を鋭く象徴する標識となった。
この時期のクォン・ムンソクの7つ道具ならぬ4つの道具。経済学の本、政策資料、タバコ、それに粗末なクシ。彼は青少年用に書かれた薄い経済学の本をいつもカバンに入れて行動していた。「偶然に私がプレゼントされたものだが1時間もあれば全部読むことのできる本でした。この本のように基本所得や最低賃金を人々に易しく説明しなければならないのではないのかと思って私が推薦しました」(連れ合い、カン・ソヒ)。「進歩政党の政策第一人者」を望んでいた彼にとって政策の資料は欠かすことのできない生活必需品。酒はそれほどたしまなかったけれども、タバコはよくくゆらした。安物のクシで頭を端正にくしけずり、彼は記者会見の場、討論会、そして街頭に乗り出した。
亡くなるひと月前の2013年5月1日、メーデーに合わせて彼は「アルバ・デー」の催しを開いた。家に帰ってきて妻の前に立った彼は、まるで今しがた除隊したばかりの軍人のようにうれしがった。社会党や進歩新党の活動家時代に得られなかった関心に興奮した。はしかで赤くなった小さな子どものように上気した。何かできそうだった。今回は何かうまくいくようだった。アルバ労働者たちのパーティーの時は気前よく酒代20万ウォンをふるまった。平日、週末を分かたず記者たちからの電話もどどっときた。
「彼はふと『これはやれそうだ』と語り始めた。党の運動に10年間、縛られていた彼にとってアルバ連帯は、ある種の脱出口だった」(キム・ソンイル青年左派代表)。朝な夕なにインターネットでアルバ連帯、基本所得、アルバイトを検索するのが日常となった。あれこれと回り道をして歩んできた彼が、よく磨かれた新しい道路を駆けることになった時節だった。家路にはアイスクリームを買って帰ることが多くなった。

アルバ・デー「うまくいきそう」


分量が少なくて本として刊行することはできなかったが、当時彼が書いた小パンフレット(「最低賃金は1万ウォン」)には最賃についての彼の考えがていねいに整理されている。彼が世の中に提出した最後の原稿。
「経総(韓国経営者総協会)、全経連(全国経済人連合会)などの使用者諸団体はデモをしない。労働者は使用者よりも力が弱くてデモをする」。
「アルバ労働者、最低賃金労働者、非正規職労働者など最低賃金を実際に受けている当事者たちは最低賃金委員会に参加できない。公益委員たちは大体にして大学教授たちなので、最低賃金法にさしたる利害関係がない」。
「労働者が労働力商品になろうとするならば最小限の衣食住を解決できるようでなければならない。服を着なければならないし、眠らなければならないし、メシを食わなければならない。一定の教育を受けなければ意思疎通が可能にならないし、また簡単にケガをしたり病気にかかってもダメだ」。

 「賃金の決定は多くの人が想像しているように合理的かつ科学的な論証と実査を経てなされているのではない。賃金の統制価格であり、最も低い賃金の社会的基準である最低賃金制は独特な地位と役割を遂行する。最低賃金制は特殊な法ではあるが普遍的機能を遂行する」。
「最低賃金1万ウォンは最低賃金の労働者と労働者全体の上向標準化のための企画だ。生活水準を上げるという言葉はさまざまな意味があるだろうけれども、最小限の経済的条件が裏打ちされなければならない。その始まりは適切な所得であり、賃金労働をしなければ食べて生きていくことのできないこの時代に、最低賃金はそれ自体として生活が可能な所得でなければならない。最低賃金は生活賃金とならなければならない」。
亡くなる3日前、クォン・ムンソクは放送社のインタビューを受けた。連れ合いが新しく買ってやったチェック模様のシャツを、初めにして最後に着た。努力して準備した「最低賃金1万ウォン委員会」の発足をわずか1週間後に控えて、彼は倒れた。彼が生きていた最後の日、6月1日、活動家たちに行った終日の講演で出した宿題がある。「最低賃金の引き上げに反対している経総の主張を反ばくする論理を作れ」。
昨年3月、パク・ジョンフン・アルバ連帯の活動家は、その宿題を完成した本「アルバたちの愉快な反乱」(パク・ジョンチョル出版社)を著した。本の冒頭にクォン・ムンソクとパク・ジョンフン、アルバ連帯の活動家たち、最低賃金1万ウォンを叫んだ人々の肉声が込められた。「アルバイト労働者、非正規職、最低賃金労働者、青年失業者、ペクス(無職)という理由で世の中から差別されたり自らを軽蔑しなければならない理由はありません」。

「軽蔑すべきは不条理な世の中」

その日、あたら35の若さで逝った彼が2015年3月に帰ってきた。民主労総は来たる6月の雇用労働部(省)最低賃金委員会の2016年適用最低賃金決定を前にして、署名運動を始めた。「上げよう! 最低賃金、時給1万ウォン、月給200万ウォン」。「最低賃金が労働者本人だけではなく、その家族の家計を支えることのできる賃金水準とならなければなりません」というのが民主労総の主張だ。
今年の最低賃金は5580ウォン。パク・クネ政府になって最低賃金は7%程度ずつ上がった。このままならば、いつ1万ウォンになるのか。2024年。もはや抱いてくれることのできないアッパに向かって「アッパ」と呼んだ娘トヨンが12歳になる年。12歳。アボジが天国に行ったのではないということが分かるようになる歳、韓国社会で「最低賃金1万ウォン」の夢を叫んだ人が誰なのかが分かるようになる歳。待つことのあまりの長さ。(「ハンギョレ21」第1055号、15年4月6日付)

注 チャン・ジヨン(張志淵、1864〜1921)、言論人、1902年「皇城新聞」社長となり、04年11月に「是の日や放声大哭す=シイリャ パンソンテゴッ」という社説を掲げ、日韓保護条約の締結が日本の強要によるものであることを暴露し、投獄された。



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