北朝鮮分析で鋭い論陣
頑固さと献身性で際立っていた
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三つの5月
7日つながり
同志樋上は二〇一五年四月一二日午前一時四三分に永眠した。享年六〇歳。
樋上君から、昨年一一月末に新時代社に話したいことがあると連絡があり会った。すると彼は「九月に喉に違和感があり、検査を受けたら、食道がんだった。もう手術はできない程の状態で余命一年と診断された。九月に入院し、抗がん剤治療を受けた。私の病気の話はごく限られた人にしか話していない。一〇月に会社を退社したので、動けるうちに、週刊『かけはし』の制作を手伝いたい」という衝撃的な話を淡々と語った。
一二月初めに『かけはし』の校正の仕事をやってくれ、その帰りに三人で酒を酌み交わした。残念であったが制作を手伝ってくれたのはこの一回で終わった。その後、一二月に抗がん剤治療で入院。年末には故郷に帰り、両親と対面した。だが、この抗がん剤治療が体にこたえたようで予定外の入院となった。その後、いったん退院し自宅療養していたが、症状が悪化し緊急入院し、帰らぬ人となった。
樋上君は一九五四年五月七日徳島県生まれ。最初の見舞いの時、ベトナムのボーグエン・ザップ将軍の伝記の録画をみんなにぜひ見ろと映してくれた。録画はフランス軍を打ち破った「ディエンビエンフー」の戦い。このディエンビエンフーの勝利の日が五月七日だという。そして、彼は一九七七年五月七日の三里塚鉄塔決戦の被告でもあった。誕生日と合わせて三つのことが重なっていることに本人は至極満足していた。
これ以外にも、ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダが作った「カチンの森」事件の映画も録画して流してくれた。ポーランド将校一万人余りがカチンの森で虐殺され、埋められていたのを最初に発見したのは侵略してきたナチスであった。当時ナチスはスターリンの仕業であると発表したが信用されなかった。戦後になってナチスの犯罪ではなく、スターリンによって虐殺されたことが明らかになる。ワイダ監督の父親もカチンで殺された。樋上君によれば、この映画は他のワイダ監督作品と違って、憎悪の感情がむき出しになったすさまじい映画だということだった。最後の見舞いになった時、彼はグルジアに対するスターリンの支配を告発する映画「懺悔」を絶賛していた。
三月末の面会の時、樋上君は「最初がんと分かった時は手術でも何でもやって生き延びようと思った。しかしそれがかなわないと分かったので、末期治療は受けない。死んだら、僧侶は呼ばずいわゆる葬式はやらない。ごく限られた親族のみで火葬してもらう。すべてが終わったら、連絡をするようにしてあるから」と覚悟が伝えられた。
四月九日、最後の見舞いとなったのだがその時、「遺影」にする写真を渡された。三月二八日に近くの多摩川の公園で満開の桜を満喫した時のものだ。
連れ合いのさよ子さんは一月一杯で仕事を辞めて、樋上君の面倒を最後までみた。樋上君のいちずな思いを貫き通すことができたのはひとえにさよ子さんの献身的な支えがあったればこそであった。部屋には二人で走ったマラソンのゴール写真など、なかむつまじい写真が飾ってあった。
三里塚被告団
としての活動
樋上君との出会いは一九七八年三・二六三里塚開港阻止決戦で被告となった私などを含めて被告団事務局の仕事を専従的にしなければならないメンバーが越境社に集まった時から。当時、週刊『世界革命』の制作を担当していた越境社が救対もかねたことに始まる。こうした救対のメンバーなど九人ほどいたが裁判が終わったり、組織分裂のあおりなどで、最後まで残ったのは私と樋上君であった。新時代社が三田から現在の初台へと引っ越す際に、人員を減らさないと『かけはし』の制作が維持できないことが明らかとなり、樋上君が退社した。
その後、樋上君は職安などを当たりいろんな仕事を探したが思うようにいかなかったようだ。その厳しい現実を「われわれには職業の自由はない」と言っていたのが昨日のようだ。それでも、彼はある韓国系新聞の校正の仕事を見つけた。これがその後、彼が「荒沢峻」として、北朝鮮問題の政治論文を書くきっかけであったと思われる。しかし、この仕事もリストラに合い、次には別の仕事についた。ここで、大手五大新聞が読むことができ、彼の北朝鮮論文のデータが蓄積された。これを契機に彼の力で『かけはし』の朝鮮半島日誌が連載された。しかし、その仕事もリストラされた。彼はがんばって、資格を取り別の職種についた。ハングルの勉強にも力を入れた。
樋上君は連れ合いに誘われて、マラソンを始めた。樋上君の「徹」の字の通り、文字通り「鉄人・徹人」であった。マラソンだけでなく、トライアスロンにも挑戦し、夫婦連れだってたくさんの大会に参加した。
「内ゲバ」主義
をはねかえし
樋上君は一九七三年に、神奈川大学に入学した。その当時、内ゲバ党派が学内を支配し、学生の自立した運動は下降線をたどっていた。とりわけ、神大はかつて社青同解放派の大拠点であり、それに対して革マル派が内ゲバ襲撃をかけ、複数の死者が出ていた。
樋上君はそんな大学で、故玉井君と共に第四インターとしての活動を開始した。学内でチラシを配ったり、ステッカーを貼るにも、内ゲバ党派の襲撃を覚悟しなければできないことであった。そんな困難な中でも、地域の労働者の力も借りながら、果敢に行動した。そして三里塚開港阻止決戦に向けて全力で取り組んだ。
その後、一九八四年一月と七月に、三里塚闘争における一坪共有化問題をめぐって中核派がわが同盟へテロ襲撃を繰り返した。これに対して、中央機関と中央機関紙を防衛するために、集団生活を行った。樋上君はちょうど新婚生活を始めたばかりで、一週間に一度しか自宅へ帰ることができなかった。自宅のアパートの窓は板などを打ち付けて防衛体制をとっていたという。困難な任務を共に闘い抜いた。
なにごとにも
徹底していた
慶応大学三田キャンパス正門横に、「ラーメン二郎」がある。今では関東一円に弟子たちが「二郎系ラーメン」を広げていて有名となっている。「ギトギトラーメン」とも呼ばれ、豚の脂とたくさんのチャーシュー、太麺で安くてボリュームがあるというので体育会学生に好まれていた。三田に新時代社があった時、樋上君はこの味にはまってしまった。一食が通常の二食に匹敵するラーメンを店が開くとすぐに食べ、その日の午後にも食べていた。それも毎日のようにである。味にも一途であった。
また、仕事をしていても、たまに爆発することがあった。突然写植機の横をハンマーで叩くのであった。何事が起きたかと驚いたが本人は「コンチクショー」と言って叩いていた。彼は文字の棒打ちより、見出し打ちや広告作りが好きで、苦労しながら文字間やデザインを考えながら入力していた。たぶん、自分の思ったようにできなかったのではないか。こんな性格なので、ストレスが極度にたまると酒のうえの失敗もあった。すべてに徹底するのが彼そのものであった。
困難な時代に
立ち向おう
一九六〇年代末に、第四インター日本支部は「極東解放革命論」を展開した。それはベトナム革命と連帯し、米日韓反革命体制打倒、韓国における独裁打倒の社会主義革命と北朝鮮における官僚制独裁打倒の政治革命、これを一体として統一朝鮮革命として展望し、日本革命を位置づけるというものであった。一九七〇年代から八〇年代はもっぱら、韓国・北朝鮮問題は横井勝同志が執筆してきた。その後、横井さんが組織分裂を契機にわが同盟を去って以降は、「空白」が続いたが、樋上君がその後を担った。彼の場合はイデオロギーありきというよりは、新聞・雑誌などあらゆるデータをまず集めて、それに基づいて論文をまとめていた。その読書量は膨大であった。
北朝鮮の体制を旧来の「堕落した労働者国家論」から「金一族による王朝的専制独裁」、「封建的儒教社会を基底にした独裁体制」と、金日成・金正日と続く一族支配を分析した。北朝鮮との友好関係を長く続けた知識人や労働組合、チュチェ派などには煙たがられただろうが、北朝鮮の現実に基づく分析・論文は鋭いものであった。小泉首相の二度にわたる北朝鮮訪問と北朝鮮による日本人拉致問題が明らかにされ、日本の中で在日朝鮮人高校生などへの嫌がらせ、バッシングが激しく起こった。当然のことではあるが、彼はこうした風潮に対しても批判する姿勢を変えることなく、あくまで、北朝鮮の民衆の人権回復を願って、専制独裁に対して厳しい批判を続けた。
救対や機関紙制作、そして政治的論文において樋上同志は困難な時代をトロツキストとして闘いぬいた。トロツキストとしての頑固さと人への心配り、優しさを持った仲間であり同志であった。早すぎた死であったがその生を思い切り生き抜いた同志よ、安らかに眠って下さい。
二〇一五年四月一三日
越境社 松下 知
樋上徹夫同志略歴
1954年5月7日 徳島県小松島市生まれ
1973年4月 神奈川大学入学
1974年11月 米大統領フォード来日阻止闘争で逮捕される。この闘争を経て日本共産青年同盟(準)に結集
1975年〜76年 共青同学生班協神大班建設。日韓、狭山、三里塚闘争を担う
1977年〜81年 三里塚鉄塔決戦5・7被告。三里塚鉄塔決戦、開港阻止決戦被告団事務局を担う
1982年 JRCLに加盟
1983年 越境社に入社。救対活動、機関紙制作活動を担う
1995年 越境社退社。JRCL神奈川県委員会に復帰。民間中小企業に勤務しながら、北朝鮮問題への関心を深め、以降、「かけはし」紙に北朝鮮関連記事を多数執筆
2014年9月 食道がんの末期との診断を受ける
2015年4月12日 死去。享年60歳
ペンネーム 荒沢峻、野崎史郎
投書
樋上同志の思い出
朝鮮人共産主義者の闘い
I・Y
結局、樋上さんのお見舞いには一度も行けずじまいでした。
樋上さんは、ぼくが横浜で学生生活を送っているときに当時の「世界革命」を購読し始めてしばらしくしてから、はじめてオルグの電話をかけてきてくれた方でした。
いまでもあの甲高い声で掛けてきた電話をおもいだします。結局、その時は他の人が僕と会うことになって、樋上さんとはその後、かなり後になってからお会いしたと思います。
その後も、それほど一緒に活動をすることもなかったのですが、樋上さんに感謝したいのは、去年のアジ連の講座の時、北朝鮮の新指導体制を話す冒頭で、かなり詳細にわたって一九二七年一二月の広州蜂起の際に二〇〇人もの亡命朝鮮人共産主義者が、この蜂起に参加して犠牲になったことを話してくれたこと。
浅学のぼくは、このときはあまりよく知りませんでしたが、その後ふとしたことで購入した『アリランの歌』で、この蜂起に参加して生き残り、最後は延安の王明、康生らが発動した反「トロツキスト=日本のスパイ」運動の犠牲者として一九三八年に処刑されたキム・サン(張志楽)のことを知り、この本のクライマックスが、樋上さんが力説していた広州蜂起でした。
広州蜂起は、第二次中国革命の指導に失敗したスターリン派が、第三期路線として発動した冒険主義的蜂起に終わりましたが、この広州コミューンに青春を捧げた朝鮮人コミュニスト、労働者や農民たちのことを知ることができたのは樋上さんのおかげでした。
キム・サンは一九八三年に名誉回復され党籍も復活しました。その理由は「トロツキストや日本のスパイとして活動した証拠はない」ということなので、ちょっと中途半端ですが。
瞼を閉じると、あの世でスターリンや金王家一族らを指さしながら「お前たちは!」とどなり散らしている樋上さんの様子が思い浮かびます。あちらでは、どなり散らすのは権力者にだけにね。お酒もほどほどに。おつかれさまでした。
コラム
祖母とがんの話
私の父方の祖母は五五歳で亡くなっている。そのとき私はまだ二歳ほどだったので、祖母の記憶はほとんどない。市営の三軒長屋で共に暮らしていたといううっすらとした記憶はあるのだが、祖母の死や葬儀の記憶もない。
それでも唯一、一場面だけは鮮明に覚えているから面白い。それは私が寄生虫の虫下しを飲まされて、祖母に抱かれて小さな裏庭に掘られた小さな穴の中に、真っ白いうどんのような大量の回虫を出したときの記憶である。縁側には微笑んでいる母がいて、私の目の前には驚いている祖母の顔があった。
父方の祖父母は九州の人で、私の父も九州の生まれだ。地方の検察局に勤めていた祖父は二八歳のときに磯釣りで波にのまれて亡くなり、祖母は二三歳で夫を失った。そのとき父はまだ二歳にもなっていなかった。そして祖母のお腹の中には娘が宿っていた。有明海に浮かぶ島にあった祖父の実家は貧しかったのだろう。祖母は幼いわが子を抱きかかえて、遠い北国の親戚を頼りに住み慣れた九州の地を後にする。
私が生まれたとき、学徒出陣世代の父は博士号取得のために大学に復学していた。収入はもちろんない。そのとき家計を支えたのは産婆を営んでいた祖母だった。私もその祖母に取り出された。父はその後、市立病院の勤務医となり、ようやく安定した生活を手にすることになる。そしてそれを見届けるかのように祖母が亡くなった。死因は喉頭がんだった。
実家にあった小さな仏壇の前に祖母の遺影が置かれていた。祖母は典型的な「九州美人」だった。しかしその写真の中の祖母は、五五歳でありながら、もうすっかり「老婆」のようである。首には粗末な布が巻かれている。
喉頭がんはがんの中ではそれほどポピュラーなものではない。発症率は一〇万人に三人。男性の発症率は女性の一二倍で、患者のほとんどが喫煙者である。祖母も煙管のヘビースモーカーだったようだ。
喉頭は食道と気管の分岐となる二股部分の気管につながる部分で、その中心部に声帯がある。喉頭がんの多くはその声帯にできる。だから喉頭がんになると声帯が圧迫されて、声がかすれたり詰まったようになる。それが初期発見のポイントになる。初期の治療法は放射線による治療が一般的なようだが、進行すれば声帯を摘出しなければならない。
しかし喉頭を摘出してしまうと、空気と水・食料を分類することができなくなってしまう。肺に空気以外の物が入れば即、肺炎になる。それで気管線は封鎖して食道線だけを残して、呼吸を確保するために喉元に穴を開けることになる。
「がんで死ぬ」というのは想像する以上に苦しいようだ。現状の医療ではモルヒネの投与しかないようだが、耐え難い苦痛がくる前に「安楽死」という方法も合法化してもいいのではないだろうか。(星)
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