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    かけはし2015.年4月13日号

テロ事件直後のチュニスに響く
「平和・公正・連帯」のアピール



寄稿

世界社会フォーラム(WSF)2015報告(1)

寺本 勉


 三月二四日から二八日まで、二〇一三年につづきチュニジアの首都チュニスで世界社会フォーラム(WSF)が行われた。今回はWSF直前の三月一八日にチュニスの博物館でテロ事件が発生し緊張も予測されたが組織委の決意、参加者たちの努力で成功を収めた。WSF2015に参加したATTAC関西グループの寺本勉さんに依頼して報告記事を書いていただいた。(「編集部」)

はじめに

 世界社会フォーラム(WSF)二〇一五は、前回に続いてチュニジアの首都チュニスで開かれ、三月二四日から二八日までの五日間に、一二一カ国、四五〇〇団体、四万五〇〇〇人が参加した。今回のWSFは、チュニスにあるバルドー博物館において、テロ襲撃事件が起こった直後の開催となったが、組織委員会からの「民主主義、自由および寛容を危険にさらすテロリズムと宗教的暴力主義に対して、市民の平和的な闘いを勝利させるために、すべてのWSF構成団体と参加者に、動員およびこの節目を成功させるために努力を強化することを呼び掛ける」というアピール(「かけはし」三月三〇日号掲載)に応えて、多くの団体や活動家が世界中から結集した。
私は、前回のWSF二〇一三には参加できなかったため、今回が初めてのチュニジア訪問となる。そこで、テロ襲撃直後の様子も含めて、自分が見聞したことを中心にレポートし、可能な範囲でその意義や問題点についても報告したい。

組織委員会の決断に応えて


三月一八日にバルドー博物館で起きたテロ襲撃は、WSFに参加する予定だった私たちにとっても衝撃的な事件だった。日本からのクルーズ観光客三人が船会社のオプションツアーに参加し、このテロ襲撃の犠牲となったこともあって、「大丈夫か?」「本当に行くのか?」など家族や友人から何回も聞かれた。外務省の渡航情報では「十分注意して下さい」から「渡航の是非を検討して下さい」にランクが一段階引き上げられ、航空券を手配してもらった旅行会社から「予定通り行かれますか?キャンセルされるなら、直前でもキャンセル料はいただきません」という電話がかかってきたりした。
しかし、私も含めて、日本からの参加予定者はほとんどが当初の予定通りに、チュニジアに向けて出発した。それはWSF組織委員会からのアピールに応えるという意味と「チュニジアで連続的なテロが起きる条件は今のところないだろう」という判断によるものだったと思う。実際に行ってみて、その判断に間違いがなかったことを感じた。街中は平穏に日常生活が営まれており、危険を感じることは一切なかった。
そうは言っても、八日間のチュニジア滞在中、カルタゴ、シディ・ブ・サイドなどの観光地を含めて日本人観光客の姿はほとんど見なかった。やはり、ツアー客を中心にキャンセルしたのだろう。唯一の例外は、ホテルで出会った若い女性の二人連れである。チュニジア国内を周遊してきたという彼女らは、出発前に親から猛反対を受けたが、それを説得してやって来たとのこと。その勇気と判断に敬意を表したいと思った。
チュニジアまでは、ドバイ経由のエミレーツ航空で約二一時間の長旅である。私自身で言えば、自宅を出てからホテルに着くまでに二八時間を要した。チュニス行のドバイからの飛行機は、ほぼ満席。空港の入国手続きを済まして、まずは携帯のSIMカードを入手する。事前に携帯(ガラケーである)のSIMロックを外してもらっていたが(手数料三〇〇〇円少しが必要)、SIMカードの大きさが違い、カッターで切って差し込むと無事電話が開通した。つぎに必要なのは両替となる。日本であらかじめユーロに両替し、さらに空港でユーロからチュニジア・ディナールへ両替した。レートは、ほぼ一ユーロ=二ディナール、したがって一ディナール=七〇円見当である。

WSFへの参加団体登録

 滞在したホテルは普通のビジネスホテルといった感じ。目抜き通りのブルギバ通りに面していて、便利なところにある。無料WIFIもあり、そんなに速くはないが何とか実用に耐えるレベルでホッとした。というのは、二八日に日本とスカイプ中継でつなぐWSF現地報告会が予定されていたからである。
ブルギバ通りは両側の歩道が広く、びっしりとオープン・カフェのテーブルと椅子が並んでいる。カフェでは多くの地元の人々がコーヒーなどを飲みながら語り合っていた。ヨーロッパの街並みを感じさせる光景だ。車道の間の中央部も広い遊歩道になっていて、札幌の大通り公園を思わせる雰囲気だ。
ホテル近くの中央遊歩道にWSFの登録テントが設置されていた。しかし、そこは個人登録のみということで、ボランティアに教えてもらった団体登録受付の事務所に行って、ATTAC日本としての団体登録料支払いを済ませた。バッグ・プログラム・カード・首からカードを吊るす紐・ポスターなどのWSF「七つ道具」を受け取り、いよいよWSFに来たという実感が出てきた。
この際、ちょっと面食らったのは、登録料の金額についてである。WSF参加登録料は、従来から「北」「南」「地元」で金額が異なっている。日本は当然「北」に属すると思い、規定の一五〇ユーロを支払おうとすると、担当者が笑いながら「日本はアジアだから『南』の登録料でいい」と主張し、結局半分の七五ユーロで済んでしまった。もう少し粘って、一五〇ユーロ払うべきだったかも知れない。

テロ現場へのデモ行進

 二四日は、恒例のオープニングマーチが行われた。事前には、ブルギバ通りを出発点とするデモコースがアナウンスされていたが、テロ襲撃事件を受けて、急きょバルドー博物館に向かうコースに変更された。マーチのスローガンも、当初は「世界の人民はテロリズムに反対して団結を」だったが、「対テロ戦争を容認するのか」とかなり批判を浴びたらしく、直前に「自由・平等・社会的公正・平和のために世界諸人民の団結を」「全ての形態の抑圧に反対して、チュニジア人民とテロリズムの犠牲者と連帯を」に変更された。
出発地点には路面電車(メトロ)で向かったが、駅に着くごとに参加者が数多く乗り込んできて、最寄りの駅近くではすし詰め状態となった。その中で、元気よくシュプレヒコールが繰り返され、アラビア語のインターナショナルが歌われる。路面電車の中から、すでにデモの中にいるような盛り上がり状態だ。
この日の午後は、事前に日本でチェックした現地の天気予報通りに、雷を伴う激しい雨になった。日本の空港で買ったビニール合羽が大いに役に立った。傘や雨具を持っていない参加者は、デモ出発地点やデモ途中のあちらこちらで雨宿りし、小降りになれば再びデモに戻るといった具合で、デモ隊相互の間隔がかなり空いてしまい、マーチ全体の様子がいまひとつ把握できないままに終わってしまった。
デモコースは、メディナ(旧市街)の北側にある、道路が何本か集まってくるバブ・サアドゥーンから西へほぼ一直線で、二?くらいの距離。道路の両側をメトロが走っていて、その線路脇を行進した。道路からは一般車両は完全にシャットアウトされ、雨さえなければ随分と解放感溢れるオープニングマーチになっていただろう。
私たち日本からの参加者は、全員揃って集合地点に集まることができず、いくつかのグループに分かれて歩くことになった。出発地点で特に集会がある訳ではなく、集まった団体ごとに順次(勝手に?)デモに出発していく。私のグループは、ATTACフランスの人たちと合流。ATTACフランスは、フェリーで地中海を渡って来れるためか、南フランスのメンバーが多く参加しているとのことだった。雨の中、多くの参加者は傘も差さずに行進していく。要所要所には、自動小銃を持って、黒ずくめの警官が立っている。
デモの途中では、ひんぱんに参加者から「一緒に写真に入ってくれ」というリクエストがあり、ちょっと行っては立ち止まって、彼ら・彼女らと写真に収まった。解散地点のバルドー博物館に近づいてくると、少し雨は小降りに。道路の北側に面して、テロ襲撃のあったバルドー博物館があり、その東側に国会議事堂が隣接しているが、武装した警官の姿はあるものの、日本の国会周辺の警備と比べるとそんなに緊迫した様子はない。

ジャスミン革命後の現状

 チュニジアでは、WSF参加とともにもう一つの目的があった。それは、二〇一三年の憲法九条世界会議・関西にチュニジアから参加してくれた弁護士のベルハッセン・エヌーリさんと会うことだった。彼は、前回のWSFで「憲法九条」についてのワークショップを日本からの参加者と共同で主宰し、同じ年の憲法九条世界会議・関西でも国際会議や集会で発言してくれた三〇歳の若手弁護士である。
ホテルで久しぶりの再会を喜びあい、その後彼からチュニジアの状況、テロ攻撃についての反応などを聞くことができた。
最初に、「アラブの春」以降、チュニジアだけが唯一政治的なプロセスが進行しているのはなぜかと質問すると、「初代大統領のブルギバが子どもたちや女性の教育を重視した政策をとり、その結果、民主主義を経験することができていた。そのため独裁政権が倒されたあと、民主主義へと到達する用意が国民の中に備わっていた」「これが一番重要かも知れないが、独裁政権下でも活発な市民社会とその運動が形成されていて、弾圧を受けても脈々と継続されてきた」「部族による統治という伝統がなく、国が統治するという価値観が共有されている」「独裁政権崩壊後も武器が市民の中に流れず、軍や警察のもとに管理されていた」「軍の力が比較的弱かった」など、いくつかの要因を挙げた。
このために、独裁政権が打倒された後に若干の混乱はあっても、内戦や軍事クーデターを招かなかったと説明。さらに、「アラブの春」以降の政治的混乱を収拾するにあたって、市民社会の四つのグループの役割が大きかったこと、つまり労働組合、法律家、実業家、市民運動団体が「国民対話」を通じて、憲法制定、大統領選挙、総選挙を実現させたことを指摘した。
次に、テロ襲撃について、チュニジアの人々がどのように考えているかについて質問した。彼の答えは、「九九%のチュニジア人はテロ攻撃を非難しているが、ごく少数の過激主義者が存在していることは事実で、従来は山間部で軍や警察に対する攻撃を行っていた。しかし、今回、首都の中心部で観光客や市民を無差別に殺すテロ攻撃があったことにショックを感じている。チュニジア国内で活動が難しいため、多くの過激主義者がシリアやイラクに行ってISに参加した。その多くは貧しい層出身の青年だが、中には技術者など高学歴の者もいる。チュニジア人は、民主的なプロセスを支持していて、決してテロ攻撃を認めないだろう」というものだった。
また、テロ攻撃がおきたことへの政府の責任についても言及し、「独裁政権が倒されたあと、一年以内に憲法制定すると約束していたが、それが果たされずに市民の中に失望と怒りが高まり、街頭でのデモやストライキという形での運動が拡がった。結局三年かかってしまい、その間に過激主義者が一定の勢力を伸ばしてしまった。それは政府の責任でもある」と述べた。
彼の見解がチュニジアのインテリ層における共通認識なのかどうかはわからないが、非常に簡潔でわかりやすい説明だと感じた。彼は最後に、日本で九条を守るために奮闘している人たちへの連帯のメッセージを語ってくれた。(つづく)


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