米国
黒人の公民権推進を!
「黒人の命も大事だ」運動示す道
マリク・ミオー
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米国社会に今、アフリカ系米国人の新しい急進的運動が広がろうとしている。警官による黒人殺害に抗議する行動であり、「黒人のいのちも大事だ」運動がそれを代表する。以下では、「リベラル」の選挙依存と対比しつつこの運動を、六〇年代公民権運動を引き継ぐものと高く評価している。(「かけはし」編集部)
主流エリートが
さわらない問題
「二〇一四年にわれわれがまだ白人の救い主≠フ映画を作り続けているとすれば、それはまさに怠慢であり、不幸なことだ。われわれは一つの国として成長を遂げたのであり、映画は真実を映し出すことができなければならない。そして真実であることは、黒人民衆は彼ら自身の生活の中心にあり、彼ら自身の考え方から彼ら自身の物語を語らなければならない、ということだ」、エイヴァ・デュヴァーネイ(黒人女性の映画監督:訳者)は、彼女の映画「セルマ」(六〇年代の公民権運動高揚の扉を開いた一九六五年のセルマ行進を描き、二〇一四年のゴールデングローブ賞にノミネートされた:訳者)の中でのジョンソン大統領に対する扱いに関する批判に答えて、ボストングローブ紙にこう話している(一月三日付)。
「オバマは公民権運動に負債を負っているとしても、アメリカ的非凡性の典型は、まさにアメリカに対して例外としばしば見られてきた人びとがもつ地位と同じ程度に妥当性をもつにすぎない」、作家のジェラニ・コブは「ニューヨーカー」紙(一月二六日号)のコラム「一人の大統領と一人のキング」でこう書いた。
オバマ大統領が一月二〇日彼の六回目になる予算教書演説を行った時マスメディアが焦点を当てたものは、そのレトリックであり、また、彼の提案が共和党支配の議会で採択されるとしてもほんの僅かだろう、との見通しだった。
黒人メディアが述べたことは少なくとも的を射ていた。つまり、黒人の男たちと少年たちに向けられたこの国を貫く警察の暴力をオバマが非難できなかった、という点だ。警察の殺人に対する言及は唯一以下のようなものだった。
つまり「われわれにはファーガソンとニューヨークのできごとに関し異なった受け取り方があるかもしれない。しかし確かにわれわれは、息子が嫌がらせをされることなく本国で歩くことができないことを恐れる父親のことを理解できる。確かにわれわれは、彼女の結婚相手である警官が勤務開けに玄関から歩いてくるまで安んじることができない妻のことを理解できる」と。
警官による二八時間毎の黒人少年と黒人の男の殺害には、何の言及もなされなかった。極右のレイシズムと主流的諸政策におけるその反映にも何の言及もない。今正義を求めている新たな「黒人の命も大事だ」運動にもまったく触れていない。
映画「セルマ」
が描く変革の力
一九六〇年代と七〇年代の公民権革命によって勝ち取られた成果すべてが今や猛攻にさらされている。「セルマ」が生き生きと描いているように、黒人差別の分離を打ち破ったものは、自己組織化であり、労働者階級と貧しいアフリカ系米国人の決起だった。黒人たちが先導する彼らの命を賭けた諸々の闘争がなければ、白人たちからの意味のある支援は起きることがなかったと思われる。
それでも「セルマ」は、多くの「エリート」的白人のジョンソン大統領擁護者たちから批判を受けてきた。彼らの観点では彼こそが、公民権の法的勝利に対する第一義的根拠だった。マルティン・ルーサー・キングが率いた直接行動、そして何百万人という元奴隷たち、小作人たち、また労働者たちが何世紀もの人種的支配と搾取と闘うために行ったことは、第二義的な位置に引き下げられているのだ。
アフリカ系米国人の映画監督(それも女性!)は、白人の大統領ではなく、真実の黒人の力と扇動とその指導者たちの肩にその勝利を置くために、どれほどの豪放さを必要としただろうか?
しかしデユヴァーネイは、ジョンソンの立法における役割を否認しているわけではなく、正しくも街頭の生の力に焦点を当てているのだ。基本的な変革に対しては大衆行動ではなく選挙が決定的だと信じることは、リベラルが共有する一つの商標だ。これが米国史の古い物語――被抑圧層自身の自立した行動の代わりに白人リベラルに与えられた指導的役割――だ。
二〇〇八年にオバマが大統領になって以後もっとも顕著なことは、この国家の様々な機関(市、州、議会、最高裁)が公民権に対する攻撃をどれほどの点まで促進してきたか、またその公民権革命の巻き戻しに向けどれほどの距離動いてきたのか、だ。オバマが着任した際ほとんどすべての者があり得ると考えたことを超えて、すべての成果が弱体化された。
公民権の重要な諸決定――一九六四年の公民権法、一九六五年の投票権法、そして一九六八年の公正住宅法――が標的に上げられた。黒人差別的分離の法的正当化という逆転がテーブルに載せられているわけではない――白人オンリー≠フ符号に戻ることは必要ではない――が、有権者抑圧の法制定や住宅差別を正当化する動きは、労働者階級のアフリカ系米国人のための成果を限定することに向けた大きな歩みだ。
オバマは「変態」を遂げた――しかしアフリカ系米国人に向かってではなく――。勝者は、オバマの大統領期(そしてレイシスト諸勢力と対決して闘う点での彼の失態)はおよそ五〇年立ちはだかってきた諸法の巻き戻しに導く使い勝手の良い表紙だ、と気がついた南部の強力な白人至上主義政治家たちだ。
偽の現実に立つ
最高裁と大統領
ロバート首席判事下の最高裁は、公民権革命の諸法をひっくり返し腐食させる形で前述の道を導いてきた。それは二〇一三年、辛うじての多数で投票権法の実体的内容を抜き取った。今年には、一九六八年の公正住宅法の巻き戻しが持ち出されている。
その法は、矯正を追求するための証拠は差別の事実だ、と述べている。つまり、地主や雇用主による自覚的な「意図」を証明することは必要とされない。差別を終わらせる唯一の方法は差別を終わらせること≠ニいうロバート首席判事の無内容な同義反復的議論は、白人優位という実体的生活を日々そのままに正当化するために、実践的には、差別は存在していないふり――四〇〇年の歴史に対する否認――をすることを意味する。
ファーガソンとクリーヴランドが示したように、若い黒人の男と少年のいのちは、白人のいのちとは違うと見られている。ウォルマートの店内でおもちゃの銃や空気銃をむき出しで持っている時に(オハイオ)、白人はどれだけの数撃ち殺されるのだろうか?
オバマの観点は不幸なことだが、彼のアフリカ系米国人司法長官のエリック・ホルダーがそうするように、進歩は、貧しいアフリカ系米国人の苦難よりもむしろ、南部における法的分離の終わり、さらに教育を受け才能のある一〇番目の者が得る実質的利得によって測定されるべき、と強調している。
オバマの下で圧倒的多数のアフリカ系米国人のくらしは、あらゆる社会・経済レベルでより良くというよりもより悪くなった。理由ははっきりしている。それでもオバマは、この国は以前よりもっと団結し非人種主義的だ、と述べることで偽の現実を持ち出している。
制度や行政機関
から変革は出ず
いわゆる警官組合は反動的だ。これらの「組合」は最良の場合でも親睦団体(雇用主グループ同様)、あるいはカルテルだ。警察の機能は、支配的エリートに「奉仕しそれらを保護する」ことだ。それは、大企業や私有財産を保護するものであり、ストライキに立ち上がった労働者、公民権や市民的自由や経済的、社会的公正を求めて行進し、集会を行う勤労民衆に対して力を行使する。
彼らの「組合」は、ごろつき警官や殺人警官を起訴から守るための、またより多くのカネと起訴からの保護のために公衆を圧迫するためのいわば道具だ。諸々の犯罪を理由に警官が逮捕され、地区の検察官が正当と認められる″武lの殺害と呼ぶものを理由に、警官が起訴されることがまれであることは、偶然ではない。
警察の社会的構成は決定的ではない。ニューヨーク市の警察部隊は今、多数が非白人だ。黒人警官はクリーヴランドとステイトン島の殺人を擁護したのだ。
白人が些細なことで警官の残酷な扱いに会うことはまれだ。白人の若者は日常のこととして、疑わしいことも有利な解釈を得ている。黒人は、ある嫌疑を追及する際、「ちんぴら」あるいは他の付け足しと見られている――大学キャンパスでもあるいはBMW(ドイツ製高級車:訳者)を運転しているとしても――。それが彼らの現実ではない以上、ほとんどの白人は、労働組合に組織されている白人労働者を含んで、このことを理解していない。
制度的レイシズムと呼ばれているものは、実際には民族的抑圧と階級的搾取を基礎とした構造的差別だ。
多くのオバマ支持者は、アフリカ系米国人を助ける点でのオバマの失政の多くに対する責を共和党の議事妨害に帰せているが、現実ははるかに単純だ。オバマは支配階級の利益に奉仕し、それを守っているのだ。それが彼の仕事だ。その意味で彼は、白人とそれ以外に違いをつけることはできない。
マルティン・ルーサー・キングの、またもっと急進的なマルコムXや一九六〇年代のブラック・パワー主唱者の中心的な教訓は、大衆闘争が急進的な変革をもたらす、ということだ。
あらゆる問題――公民権、ベトナム戦争、あるいは働く貧しい者たちのための社会的公正――に関し行動する上で、キングはケネディやジョンソンという大統領を待つことは決してなかった。彼が、ノーベル賞受賞後、そして一九六四年の公民権法議会通過後すぐに、一九六五年のセルマ行進でジェイムス・ベヴェル(六〇年代公民権運動の指導者:訳者)やダイアン・ナッシュ(同運動の学生層指導者:訳者)と共に活動した理由がそれだ。
公民権革命時代
の教訓が今重要
アフリカ系米国人殺害における警官の役割はまた新しいものではない。新しいものは、黒人コミュニティによる反応であり、一九七〇年代以後では見られなかった何かだ。
二〇一四年のミズーリ州ファーガソンでのマイケル・ブラウンの死後に起きた「黒人の命も大事だ」運動の高まりは、選挙を頼りとしている、あるいは脱人種主義の神話を信じている人びとに対する重要な反証だ。
これらの指導者たちはおそらくはオバマに投票したと思われる若い黒人たちだ。それでも彼らは、大衆的圧力の下でのみ政府は行動を取るとする、公民権時代の教訓を理解している。「黒人の命も大事だ」の若い指導者たちは、キングの肩の上に立っている。彼らは、公民権運動の活動家層と一九六〇年代の戦闘性の、真実の子孫だ。
この台頭中の若い世代は、警察の暴力の理由、そしてそれに対する回答を理解している。彼らは、警官組合は詐欺的であり、公正と平等に対する障害であるということ――公的な労働運動が理解することを拒否している現実――を理解している。
一九六五年と二〇一五年の日付は、その各々が公民権のための闘いにおける進歩と敗北を映し出しているがゆえに重要だ。明確なことだが、投票権法とセルマ行進は、支配階級に対する黒人が先導した街頭での抗議にはらまれた力を表現した。
一九六五年という年は、人種と階級を基礎とした資本主義の中での抑圧と改良に関する矛盾した現実を示した。一九六五年のマルコムX――運動の左翼のもっとも先見の明があった代表者――の暗殺をもって警察国家の暴力は、黒人住民を導いていることからJ・エドガー・フーヴァー(死ぬまでその任から離れなかった初代FBI長官:訳者)がメシア≠ニ名付けたものを止めるための行動として、警察、FBI、CIAそして政府が、そのCOINTELPRO(市民の運動の抑圧を目的にFBIが乗り出した非合法の秘密情報工作プログラム:訳者)のテロを通して何を準備していたのか、を示した。
一九六八年のキングの暗殺は、黒人指導者たちに対するそうしたテロの区切りだった。そうであったとしても、一九六五年〜六八年の法的勝利は、ワッツからデトロイトにいたる大衆的街頭抗議行動と都市反乱に対する支配階級の怖れを示した。弾圧単独では高まる黒人の怒りと急進化を押さえつけることができずにいたからこそ、改良が生じたのだ。
はじめての黒人大統領と当局の地位におけるより多くの黒人をもってしても同じ矛盾が続いている。しかし見えていないように見える労働者階級の黒人多数には隠された声があり、彼らはいつの日にか爆発する潜在力をもっている。それこそが、芽吹き始めた「黒人の命も大事だ」運動並びに他の形態による現状への抵抗がなぜ前進への道を指し示すのか、の理由だ。
▼筆者は米国の社会主義フェミニスト組織であるソリダリティの雑誌、「アゲンストザカレント」編集者。(「インターナショナルビューポイント」二〇一五年三月号) |