「分離」の絶対化の中で
ユダヤ人、アラブ人共存追求は抜きん出て革命的展望示す
ミシェル・ワルシャウスキー
(聞き手:アンリ・ウィルノ)
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中東の混沌化が進んでいるが、その中でイスラエルの動向はもう一つの重要な不安要素だ。そのイスラエルの三月一七日に投票された総選挙は、事前の予想に反し右翼のリクード(現政権党)の勝利に終わった。日常生活に進行する生活苦に対する不満が野党を押し上げることはなく、ネタニヤフのユダヤ純化右翼強硬路線の継続が支持された形だ。このことが中東の今後に及ぼす危険性には十分な警戒が必要となるが、それだけにまた、パレスチナ民衆に対する国際的な連帯は一層強化されなければならない。この点で、イスラエルのユダヤ人多数がなぜこのような選択に傾いているのか、その逆転には何が必要かを理解することも重要になる。以下のインタビューはそれについて具体的な糸口を与えている。(「かけはし編集部」)
極右政権の固定化と社会の変質
――二〇一四年夏にあなたが書いたものの中であなたは、イスラエル内の「ファシズム」について語っている。こうした進展の根は何だろうか? それはまさに戦争状態の産物なのか? われわれは、それが今や政権を握る極右だと言うことができるのか?
私が言おうとしていることは、一九九五年のイツハク・ラビン暗殺に先立つ憎悪と脱非正当化キャンペーンにまでさかのぼる長期の進展だ。首相の暗殺者たちは権力を押さえ、事実上その時から権力の地位にある。私はそこにエフド・バラクのエピソード(一九九九〜二〇〇一年)を含める。彼は誰もが認めていたように労働党の候補者であったが、極右の諸政策を擁護し、自身をシャロンの国防相とすることと一体的にアリエル・シャロンを首相にするために、彼ができることのすべてを行った。
したがってわれわれは、二〇年という連続的な右翼の権力を経験してきた。そしてそれは、パレスチナ人に対する植民地主義政策の分野ではそれほどではないとしても、イスラエル国家体制の内部での状況を変えてしまった。
レイシズムが、政治的議論内部で、街頭で、そして「基本法――イスラエル、ユダヤ民衆の民族国家」を修正する提案で頂点に達した立法の分野で、解き放たれた。イスラエル内のパレスチナ人に対する極度に抑圧的で差別的な一連の諸法がすでに採択されている。そしてもっと悪いほかのものも進行中だ。何年もの間「ユダヤ人国家」と「民主主義国家」との間で曲芸を演じつつシステムの保証人となっていた最高裁は何度か、議会内の極右メンバーによる暴力的な攻撃の目標となってきた。いくつかの法令はその権力の引き下げを狙いとしている。
政権は三つの極右政党の一ブロックに依拠しているが、ネタニヤフはその中では穏健な人物として現れているのだ!
私が一年の間ファシズムについて語ってきたとすればそれは、私がまさに取り上げてきたすべての頂点には、民主的な活動家たちやその組織に対する、小さなファシスト諸組織からの暴力や、はては通行人からの暴力を加えなければならないからだ。極右政権+過酷な諸法令+批判を含んだすべての言葉に恐怖を与えることを狙った暴力=ファシズム、ということだ。
民族帰属が意識を圧倒的に支配
――イスラエルは今、社会的不平等が最大となっている(ユダヤ人内部を含んで)、また新自由主義諸政策が社会的諸成果を解体しつつある、そうした国の一つだ。そしてその上、外から見た時、イスラエル住民のユダヤ人内部の社会的かつ政治的論争が、二つの分野、つまり宗教と「安全保障」をめぐって完全に分極化しているように見える。それは正しいか? 社会的諸問題は光景から消えてしまったのか?
イスラエルは実際、貧富の格差に関し二番手にある、つまり極めて富裕なブルジョアジーと多数の非常に貧しい民衆がいる工業国グループの中にある。イスラエル社会保障当局が出しているデータによれば、イスラエルのこどもの三二%――ユダヤ人とアラブ人――が貧困ライン以下で暮らしている! 福祉国家とその達成した成果の解体は、マーガレット・サッチャーをうらやましさで嫉妬させると思われるほどの残酷さとスピードで行われてきた。
しかしながら社会的闘争、特に労働組合の闘争は極度に限定的なままだ。これには三つの理由がある。まず、労働者にいくらかのパンくずを残すことを可能にしているイスラエルの経済的成功。次に失業率が非常に低いという事実(二%以下)。最後に、その名に値する労働組合の伝統や組織の不在だ。労働組合組織とは何の関係もなかった、むしろ階級協調の組織であった、そのヒスタドルート(普通は労働総同盟と訳されているユダヤ人の「労働組合」:訳者)の絶対的権力という五〇年は、その初歩的な種類であっても、階級意識をはらんだ勢力形成を阻んできた。いくつか闘争はあるとしても、それらは、一企業に限定されたままであるか(通常はレイオフをめぐって)、より特権がありより組織化されている部門(看護士、教員)で起きている。
――民衆諸階級は緊縮政策に反応しているのか? 二年前の「怒れる者たち」の運動には何が起こったのか(二年前イスラエルでも、大都市で何万人もが決起した街頭占拠の運動があった:訳者)? ヒスタドルートに打撃を与えながらより強さを増しつつあるように見えるコーチ・オヴディム(「労働者の強さ」)組合は何を代表しているのか?
「怒れる者たち」の運動は竜頭蛇尾だった。福祉国家への回帰を求めて何十万人もの民衆という形で集まった巨人的な決起はしかし、単に一つの全国委員会(トラクテンベルク委員会)を誕生させただけだった……が、その勧告のほとんどすべては政府から拒絶された。
ヒスタドルートから独立したはじめての労組連合であるコーチ・オヴディムは、前者との対比で小さな組織にとどまっている。しかしそれは、もっとも無視された部門のいくつか、中でもいくつかの大きな市民サービス現場やエルサレム近郊の採石場のメンテナンス労働者によるストライキや他の経済闘争を組織することができた。
イスラエルの労働者の多数にとって、彼らの帰属を含んで彼らが取った立場は、何よりもまず政治的かつ「民族的」な帰属によって決定され、そこからはるかに遅れて、彼らが属する社会的階級がいかなるものかによって決定されている。あなたが彼あるいは彼女に何者かとたずねれば、彼らは、ユダヤ人、次いでイスラエル人、その後に元々はチュニジア人あるいはロシア人、などと答えるだろう。そしてさらに「宗教的」あるいは伝統主義者と語るだろう。彼らが「労働者」あるいは「被雇用者」と答えることは極めてまれだろう。
平和運動は未だ大敗北したまま
――「平和陣営」には何が起こったのか? それは何らかの影響力を行使する位置にあるのか?
ガザへの侵略戦争にはおよそ三〇〇〇人の人びとが反対のデモに決起した。これは非常に小さく、特にフランスでは極左と呼ばれている者を代表している。この意味で、われわれが一九八〇年代と一九九〇年代に見てきた大衆的な平和運動は、二〇〇〇年八月における大敗北からまだ回復していない。この日付は、それが一つの分岐点、ある種の平和運動の一九一四年八月を記しているがゆえに思い起こされなければならない。
つまり、エフド・バラクがキャンプ・デービッド(彼はその交渉をクリントン政権の協力の下に故意に妨害した)から戻った時、右翼の占領政策へのオルタナティブを基礎として選出された彼は、彼自身の陣営を以下のように納得させることに成功した。つまり、ヤセル・アラファトは、イスラエルが眠り込むようあやし、最後にはユダヤ人を海に追い込むことを目的に分割線を作り出すために交渉を利用している、と。そして、右翼は正しい、間違っていたのはわれわれ、平和主義者だ、と付け加えた。
問題はこの大嘘が平和運動によって大げさにかつはっきりと受け取られた、ということだ……。そして、パレス自治政府が管理する領域並びにイスラエルとPLO間の交渉から帰結した僅かの成果の再征服に取りかかるために、シャロンが圧倒的多数をもって選出された。平和運動はその大敗北からまだ回復していない。そしてわれわれは、政府の政治的選択に影響を与えることのできる大衆運動としてのそれを見ることからは、依然はるかに離れたところにいる。
――私が思うにあなたは、イスラエル左翼の一部と平和陣営は社会的な諸問題の無視によってセファルディック(元来の意味ではスペイン・ポルトガル系ユダヤ人:訳者)ユダヤ人をリクードと極右の腕の中に投げ込んでしまった、と説明した。これが決定的なのか?
民衆諸階級、特にアラブ諸国からやって来た貧しいユダヤ人(間違って「セファルディック」と呼ばれた)は、大イスラエルというイデオロギーとの一体視によってではなく、偽りの左翼の紛う方ない全体主義的かつレイシズム的――非欧州ユダヤ人に敵対する――権力に対する反対派をそれが代表していたがゆえに、一九七〇年代後半以後、右翼を選択した。
「左翼」は、その現実とそのイメージがブルジョアであり、その反東方的レイシズムがそのアイデンティティーにくっついて離れないがゆえに、民衆的選挙基盤を奪い返すチャンスをもてずにいる。ロシア人の大量移民もまた、この断層線を強めてきた。民衆諸階級の中に足場を再獲得するためには、新たな左翼が建設されなければならないが、しかしこれは次の世代の任務だ。
そういった上でだが、コミュニティーを横断する結婚がより数を増しつつある。そして私が思うに、ユダヤ―イスラエル人コミュニティーの中で、民族的帰属性への愛着は徐々にその妥当性を失う傾向を強めつつある。
極左は市民運動形態でのみ存在
イスラエルの中で極左が代表しているものは何だろうか? 「壁」に反対するアナーキストだろうか? 他の運動だろうか? われわれがここで急進左翼と呼ぶものは極めて小さなものであり、一般的には極左もまた反資本主義的方向を防衛しているとはいえ、主には政治的諸問題(植民地主義的対立と戦争)に関するその立場によって定義されたものだ。
この部分はユダヤ人住民の中に組織が可能と思われる政党をもっておらず、政治問題(占領、レイシズム)であろうが社会的問題(経済難民、女性の権利、住宅……)であろうが、私がこの部分を見出すことができるのは市民団体の中だ。それは選挙の際は消去法によって、「アラブ諸政党」の一つ、特に共産党に投票する。なおこの党は、その選挙基盤の八五%はイスラエル内パレスチナ人から来ているがそれでも、「アラブ人政党」であることを否認している。
「壁」に反対するアナーキスト、いくつかのフェミニスト組織、占領や社会的不公正に反対し闘っている様々なグループ、あるいはあらためてAICは、特定のキャンペーン(「壁」への反対、ファシストグループへの反対、無資格労働者支援など)の中に見出され得るが、永続性のある組織構造はまったくもっていない。
われわれの前にある問題の一つは、私が何年か前に政治のNGO化と呼んだもの、小さな組織から雇用されている人びとのグループだ。それらはしばしば、欧州の基金や政権からその活動に十分な資金を提供されている。NGOは確かに、情報や啓蒙に関して良い仕事をしている。しかしそれらは、どんなことがあっても大衆運動の基礎となることはできない。ある人びとは、それらは無自覚に一つの障害になっている、とさえ言うかもしれない。
AICの壁の裂け目となる選択
――イスラエル内アラブ人に対する差別はどれほどまで発展しているか? イスラエル内のユダヤ人とアラブ人の間の分離は今や完成したのか? あるいは協力と闘争に向けた共有の空間はあるのか?
二〇〇〇年(この年の一〇月エフド・バラクは、占領地でのパレスチナ人の蜂起に対するアラブ人地区における連帯デモに対し流血の弾圧を命じた)以来われわれは、占領とイスラエルのパレスチナ人マイノリティ(人口の二〇%)に対する差別に反対する運動を特徴づけていたユダヤ―アラブ戦線のいわば崩壊を目撃することになった。パレスチナ人たちはもはや、抗議のためにテルアビブに来ることはなく、彼らの町や村で決起することを選ぶことになった。このことが、ユダヤ人大都市での抗議行動が数万人から二、三〇〇〇人にまで減少した理由を説明している。
この選択の背後には同時に、自律への切望も表現されている。なぜならば、共産党は「ユダヤ―アラブ戦線」の中で、ユダヤ人のヘゲモニーの方向に押しやっていたからだ。その外部に現れた印こそ、イスラエル国旗の存在とユダヤ人発言者の過剰な登場だった。
少数派としてのアラブ人は、国会では、多少とも等しい影響力をもつ三つの政党で代表されている。つまり共産党(平和と平等のための戦線、ハダシュ、という形態で)、民族民主会議(バラド、急進的民族主義者)、そして統一アラブリスト(保守的な民族主義者)だ。
選挙法の修正はアラブ諸政党を押しやって、彼らが選出を望むのであれば、将来に合同リストを作らせるかもしれない。この見通しが具体化した場合は、次の国会にはおよそ一五人のアラブ人議員団が生まれる可能性がある(一二〇議席の内……)。ただし、一定のアラブ人政党の選挙立候補を禁止しようとの極右の試みが成功を見れば話は別だ。〔三月一七日に行われた総選挙では、アラブ統一リストが形成され、このリストは一四人の当選を獲得した:訳者〕この問題に関しては今後数週間が決定的だろう(注)。
ユダヤ―アラブ戦線の再建のための基本は、ユダヤ人活動家が、ヘゲモニーを握るという目標の放棄、そして第一義的にはアラブ民族運動である運動を支持する一勢力となることに同意することだ。
――現在の諸関係の中でAICが受けている反響にはどのようなものがあるか?
AICの特殊性は、それが設立されてから三〇年、依然唯一のイスラエル人―パレスチナ人合同組織だということだ。AICは、パレスチナ左翼とイスラエル人反シオニストから、知名度があり認められている活動家を結集している。とはいえその名前が示すように、それは情報提供と政治的、社会的分析という仕事を引き受けている(特に、そのウェブサイトのオルタナティブニュースとして)。そしてその独自性と重要性は、活動家の世界を含んで二つの社会を隔てている壁の裂け目となること、また「グリーンライン」(一九四八年のアラブ―イスラエル戦争休戦協定で、翌年、エジプト、ヨルダン、レバノン、シリア間に設定された境界線:訳者)の両側にある運動間の協力とパートナーシップに向けた一つの見通しを力づけることという、その選択にある。
分離がほとんど絶対的な価値と見られている背景の中では、共に生きるという展望は抜きん出て革命的であり、それが共有された闘争の必要性に導くものだ。(このインタビューはフランスNPAの月刊論評誌の一月号に掲載された)
ミシェル・ワルシャウスキーの紹介
ミシェル・ワルシャウスキーは、何年もイスラエルで政治活動を行ってきた。彼は彼の著作『国境にて』(邦訳:つげ書房新社)で彼のこれまでを振り返っている。彼は生涯のはじめをストラスブールで送った後、一六歳の時にエルサレムに行くことを決め、そこでタルムードの研究に取りかかった。彼は一九六八年、イスラエルの社会主義組織に参加した。
この組織は、イスラエル共産党から除名されたメンバー並びにトロツキズムの影響を受けた古いメンバーによって一九六二年に創設されていた。このグループはその機関誌名、マツペン(ヘブライ語による羅針盤)によってもっとも良く知られていた。マツペンは、シオニズムを一つの植民地主義の構想と見なし、完全な同権を基礎としたユダヤ人とアラブ人共存のために闘っていた革命的組織だった。マツペンは一九六七年六月以降、イスラエルの全占領地からの全面的、即時かつ無条件の撤退を要求し、その自由のために闘うパレスチナ民衆の権利に対する支持をはっきり主張した。
限られたメンバー数ではあったがマツペンの諸行動と立場は一定の反響を得、それはこの組織を、シオニスト左右によって強く非難された「内部の敵」にした。そしてその活動家たちは頻繁に逮捕された。マツペンは主にユダヤ人から構成されていたとはいえ、この組織は、イスラエルのユダヤ人青年の動員、そしてイスラエルのパレスチナ人に加えてパレスチナ左翼諸組織やアラブ諸国の左翼組織との結合を発展させること、この双方に挑戦した。
一九七〇年代に、マツペン内部でその展望に関して一つの論争が始まった。そしてマツペンとパレスチナ左翼の活動家たちは一九八四年に、情報と連帯を提供する一組織である「オルタナティブ・インフォメーション・センター」(AIC)創出を決定した。ミシェル・ワルシャウスキーはその指導者だ。それにしたがいマツペンは、その活動家多数は今も様々な運動の中で活動を続けているとはいえ、組織として存在することをやめた。ミシェル・ワルシャウスキーは一九八九年、「非合法組織に便宜を与えた」かどで数カ月の禁固刑を言い渡された。 (アンリ・ウィルノ)
注)今年一月二二日、三月一七日のイスラエル総選挙に挑むために、合同リストという名前の選挙連合が事実上設立された。
▼アンリ・ウィルノはフランスNPAのメンバーであると共に第四インターナショナルのメンバー。(「インターナショナルビューポイント」二〇一五年三月号)
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