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    かけはし2015.年3月30日号

原発なくせ被害の補償を


3.14 2015原発のない福島を県民大集会

「国と東電に責任を取らせる」

6500人が思いを新たに


被災者の生活
再建のために
 三月一四日、福島市あづま総合体育館で「2015原発のない福島を!県民大集会」(主催:実行委員会)が行なわれ、県内各地、全国から六五〇〇人が集まった。田村市、南相馬市、川俣町、広野町、楢葉町、富岡町、川内村、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村などが後援した。
 集会前段のアトラクションとして計画的避難地域に指定されている川俣町山木屋地区の皆さんによる「山木屋太鼓」の演奏、グループ「ハッピーアイランド」の創作ダンスが行われた。
 開会あいさつが実行委員会を代表し、角田政志実行委員長(福島県平和フォーラム代表)が行い、「震災と原発事故による複合災害のダメージによって県民は大変な困難な生活を強いられている。一二万人が避難生活を余儀なくされている。福島で生き続けることを原点にし、県民が手をたずさえて取り戻していく。そのために国と東京電力に対して原発の廃炉、被害の賠償、被災者の生活再建支援の一層の取り組みを求めていこう」と訴えた。

自分に問い続け
ると落合さん
連帯あいさつが落合恵子さん(作家/「さようなら原発1000万署名市民の会」呼びかけ人)から行われた。
「原発はなぜ問題なのか。差別の構造そのままだからだ。沖縄にも言える。キャンプ・シュワブのゲート前で二人の方が拘束された。次の日には解放されたが、なにをやっているのだ。誰の命令かは、はっきりしている。この国のトップは『汚染水はアンダーコントロールされている』と言った。予想はしていたが、先月、汚染水が流出していることが明らかになった。だからこそもっと素朴な質問をぶつけていきたい。忘れさせていく装置の一つが東京オリンピック招致だった。私は、再度自分に問いかける。誰も犠牲にしない社会、生き方とは何か。一過性で終わることなく問い続けていきたい」。
「福島の方にお願いがある。福島に来るたび、どうにもならない後ろめたさに自分がうちのめされる。理由はひとつ。私は最後は帰るからだ。帰る私と留まる方々、留まらない形を選んで出ていった方々も含めた福島の方々と背負うものが違いすぎる。だから心からお願いすることは一つ。そばにいさせてください。ずーっと一緒に歩かせてください」。

県内の人々の
トークリレー
トークリレーが、県内の仲間たちから行われた。
武藤類子さん(ハイロアクション福島)は、「原発サイト内では、一日七〇〇〇人の作業員が過酷な被ばく労働をしている。多重な下請け構造の中で賃金搾取や死亡事故も起きている。高濃度の汚染水が海に漏れ出し、海洋汚染が深刻だ。漁業関係者は怒っている。東電と国の隠蔽体質は変わっていない。線量が下がっていないのに帰還政策を進めている。除染廃棄物が生活空間に山積みだ。除染労働も深刻な被ばく労働だ。不安や苦しさを声に出せない雰囲気もある。日本という国家が見えてくる。単に事故前の福島に戻すのではなく、なぜこんなことが起きたのかを検証し、原発をなくす新しい道を考えていかなければならない」と訴えた。
菅野孝志さん(JA新ふくしま農協)は、「一番の不幸なことは、生産者と消費者の分断、家族、県民の分断、都市と農村の分断だ。多くの困難を乗り越え、農作物の安全検査などを徹底して行なっていきたい。TPP問題も含めて豊かな土と自然を守っていきたい」と発言した。
遠藤和則さん(JF相馬双葉漁協)は、「試験操業、二万五〇〇〇匹を超える検体調査をやりながら再開をめざしてきた。二重三重の安全チェックを行ってきた。いまだに三二種の出荷制限が続き、再び汚染水問題が起きた。廃炉のプロセスが見えないなか漁業者は東電に振り回されている。私たちの不安は消えない。福島の漁業、未来のためにも原発はいらない」と強調した。
続いて檜澤京太さん(ひめさゆりの宿ゆもとや)、石井凛さん(第一七代高校生平和大使)、本田歩さん(第一七代高校生平和大使)、吉岡棟憲さん(曹洞宗円通寺住職)が東電と国を厳しく糾弾し、原発廃炉をアピールした。

原発再稼働は
許されない!
集会アピールを採択。さらに「私たちは訴えます!」(@福島県では原子力発電は将来にわたり行わず、福島県を再生可能エネルギーの研究・開発及び自立的な実施拠点とすること A放射能によって奪われた福島県の安全・安心を回復し、県民の健康、とりわけ子どもたちの健やかな成長を長期にわたって保障すること B原発事故に伴う被害への賠償、及び被災者の生活再建支援を、国と東京電力の責任において完全に実施すること)を確認した。
最後に呼びかけ人の清水修二・福島大学副学長は、安倍政権の原発再稼働路線が強化されていることを許さず、共にスクラムを強めていくことを呼びかけた。(Y)

3.15福島原発事故4年――避難地域の今

現状を「知る」フィールドワーク

川俣、飯舘、南相馬から双葉郡、いわきへ

 

定点観測を
続ける意味

 三月一五日に、前日の「2015原発のない福島を! 県民大集会」に参加した十数人の仲間たちとフィールドワークを行った。レンタカーや福島県内の仲間の乗用車に分乗して福島駅前を出発。晴天に恵まれた。出発するとまもなく、眼前に吾妻連峰と安達太良山が現れた。
川俣町、飯舘村、南相馬市、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町を抜け、いわき市内で解散するルートを設定。昨年九月に自動車のみが通行可能になった国道六号線の帰宅困難区域を通過する。今回の参加者のほとんどは昨年三月に行ったフィールドワークなどに参加し、いわき市から富岡町に至る南ルートで津波や原発被害の現地視察を行ってきた。高線量地帯に一般人が入ることに対しての批判は知っているが、福島原発事故によって奪われ破壊された住民の生活の地を知り、収束≠急ぐ原子力ムラの作業などの定点観測を続けることが再稼働阻止〜脱原発につながる行動であることも理解いただきたい。

「日本で最も
美しい村」の今


川俣町内で国道一一四号線から県道一二号線に移り飯舘村に向かう。一一四号線を直進すると県民大集会で太鼓を披露した住民らの故郷・山木屋地区だが、浪江町の手前で通行禁止となる。一二号線に移るとまもなく飯舘村内の三つの小学校が入る仮校舎が見える。仮校舎からわずか八q先にそのうちの一校、臼石小学校がある。国道三九九号線を進んで飯樋小学校に向かう。いわき市に通じる三九九号線も浪江町の手前で通行禁止となる。
昨年一一月、飯舘村民救済申立団は原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)に対し「謝罪」「初期被ばくの慰謝料請求」「避難の長期化など慰謝料の延長と増額」「飯舘『村民生活破壊』慰謝料」「『住居確保に関する賠償』につき、無条件かつ賠償上限額の一括請求」を求めた集団申立を行った。村民約六〇〇〇人の約半数の二八三七人がこの一時申立に参加している。福島県民健康調査が行った県民の初期被ばくデータでは、二〇一一年三月一一日から四カ月間での積算被ばく量が五ミリシーベルト以上であると推計された県民のうち八割が飯舘村民であった。
フィールドワーク当日は日曜日であったため、除染作業自体は見られなかったが、無数のフレコンパックに圧倒された。飯舘村での農地除染は、まず汚染の強い表土を剥ぎ取り、放射線を遮へいするため山砂をかぶせる方法だ。そのため、あちこちの山肌はあらわになり、除染が済んだ田畑はその山肌と同色だ。覆土した山砂には農機具を傷つける大小の石が混じっっていた。農地の標高は四〇〇〜五〇〇m、降雪によって除染は効率が下がるため、積雪期前の一日当たりの除染作業員数は村民の人口を上回る七八〇〇人を数えたと報じられている。

小高・浪江
原発計画地


標高五二〇mの八木沢峠を越えると南相馬市だ。落葉樹の芽吹きこそ感じられる気候だが青葉はみられず田畑も同様だ。チェルノブイリ事故が起きた四月下旬ともなれば、ここでも青葉がまぶしく、田には水が張られ露地栽培の野菜も収穫近くになっていたかもしれない。居住制限区域、避難指示解除準備区域を通過し、原町区の道の駅で休憩をとる。原町区の大部分は緊急時避難準備区域(二〇〜三〇q圏)に指定(二〇一一年九月末解除)、この区域からの自主避難≠含め、人口約七万人の南相馬市の居住者は約一万人までに減った。現在の市内居住者は四万七〇〇〇人余りで、うち八五〇〇人は仮設住宅や借り上げ住宅に住む。南相馬市での津波等での直接死は五二五人で福島県内最多だ。地震、津波、避難……、数えきれない多重災害を被った。常磐線も北は相馬駅、南は原ノ町駅までの運行だ。
国道六号線を南下し、二〇キロ圏に入る。ほぼ二〇キロ圏に入る小高区は居住制限区域、一万三〇〇〇人が避難生活を送っている。小高駅に立ち寄ると、四年前の三月一一日の朝に置かれた通学通勤用が駐輪場に整然と並んでいたが、すでにタイヤの空気は抜けきっている。
六号線を横切り、井田川地区の水田地帯に行く。福島県農民連の活動家、三浦広志さんからの聞き取りで構成されている『福島のおコメは安全ですが、食べてくれなくて結構です』(かもがわ出版)を読みルートに加えた。同書によれば、この地域は大正時代に常磐炭鉱から小作として入植した人びとによって干拓が行われ、「雨が降れば水浸しになり、日照りになれば塩が吹き出すという厳しい土地」で、三浦さんの曽祖父は仲間らと小作争議を起こした。農民らは国に基盤整備事業を求め一〇億円の予算をとったが単年度で継続しなかった。自社さきがけ政権で基盤整備事業をうけもつ建設大臣に社会党の野坂浩賢が就任し陳情すると、すぐに二〇〇億円の予算がついたという。ダムから水を引くポンプができ、ほぼ基盤整備が終わって三年後に大震災がこの地を襲った。この水田地帯の海側は湖のようになり、国道六号線側には除染廃棄物の仮置き場の整地が進められていた。
この水田地帯の南側の浦尻地区が東北電力小高・浪江原発計画地だった。元計画地と思われる空地には護岸工事用のテトラポットが並んでいる。浪江町側の元計画地、棚塩地区や、がれき処理がはじまった請戸地区に自由に行き来できる道路はなく、六号線にもどり帰宅困難区域に向かう。

分断と犠牲―
中間貯蔵施設


この三月一一日、共同通信配信で双葉町が町内にある原子力のPR看板を掲げた二つのゲートを撤去する新年度予算を組んだと報じた。六号線に面した「原子力明るい未来のエネルギー」の裏には「原子力正しい理解で豊かな暮らし」、役場入り口のゲートには「原子力郷土の発展豊かな未来」「原子力豊かな社会とまちづくり」と四つのスローガンが表記されていることをこの記事で知った。予算審議する町議会で撤去に異議が出て、町長は見直しを示唆する答弁を行っている。
双葉町役場から大熊町の熊川までの六号線の海側のうち、原発敷地を除くすべてが中間貯蔵施設の予定地だ。除染廃棄物の試験搬入は三月一三日にはじまった。置き場は売れ残った工場用地で、二三〇〇件にものぼるという地権者の同意は一件のみだ。マスコミは「環境省は住民説明会を済ませた」「双葉町と大熊町の二町が同意した」「二町の同意を受けて県が同意した」というもので、個々の住民についての報道は稀だ。説明会後の個別の住民説明はほとんど行われていないのが現状だ。大熊町の木村紀夫さんのように、取材に対して土地を絶対に手放さないという住民もいる。木村さんは妻と父を津波で失い、次女の汐凪(ゆうな)さんは行方不明のままだ。木村さんはまた、東電と接触することを拒否し、賠償金は一切請求もしていない。
安倍首相が三月一日に中間貯蔵施設を双葉町役場屋上から視察した。環境省は当初、この日に合わせて搬入開始とも観測されたが、三月一一日に変更。だが、地元二町などの反発で延期された。安倍にすら「受け入れは苦渋の判断だったと思う」と言わせる施設建設は、当該住民の同意を得られていない施設であることは間違いない。廃棄物の試験搬入は直ちにやめるべきであり、計画自体の進行をストップすべきである。
この区域の六号線には、竜田一人作『いちえふ』第十四話≠ノあるように「1Fがはっきり見える」地点がある。そこは夫沢′差点付近で、持参した線量計の最大値はこの付近で記録した。福島県内の各紙は毎日、放送局は日に何度も県内各地の放射線量を報じている。「福島民報」(三月一五日)は、夫沢♀e地の集会所に設置されたモニタリングポストの線量は、毎時二・八六マイクロシーベルト(一区)、一〇・一八(二区)、一八・一七(三区)と報じる。この三区の数値が県内観測点の最大のようだ。

積み上げられた
フレコンバック


福島のテレビ各社は原発を二四時間監視するための無人カメラを設置していた。唯一稼働を続けたのが福島中央テレビのカメラで、この映像が世界を震撼させた。第一原発から一七q地点に設置されていたという。今回、第一原発を眺望できる場所として選んだのは、一〇q以上離れた地点の県道三六号線の路肩だ。三六号線は、川内村住民が富岡町や大熊町の職場や病院、学校や買い物に通うために使ってきた生活道路だ。両町には通ってきた施設は再開していない。富岡町側から三六号線を川内村に進み、霊山トンネルを越えると右側に富岡川の谷が広がり、右手に第一原発が眺望できる。福島の仲間によれば、何度か視察に訪れた場所だが天候に恵まれたのは今回が初めてとのことだ。私たちはこのポイントの先の滝川ダム手前で車をUターンさせ、安全な場所を確保したが、日曜以外は除染作業車などの往来で危険がある場所だ。
一月から進められていた複合災害の象徴&x岡駅の解体は終わっていた。駅舎や線路上の乗用車は撤去されていたが、周辺の家屋などの津波被災の状況は一年前とほぼ変わってはいないと感じられた。一変したのが海岸側の眺望だ。うず高く黒いフレコンバックが積み上げられ、樹木などを破砕して減量化するための大きなテントが設置されていた。市販の最新道路地図では、富岡駅から海側を経て六号線へ通じるルートは「通行不可」の表示のため計画ルートにはしていなかったが、福島の仲間によれば「可」だとのことで進んでみた。そこには津波で被災したホテル観陽亭があり、その先には完成が近づく巨大な仮設焼却炉と第二原発がそびえていた。
県議会や全市町村の廃炉要求決議にもかかわらず、いまだ第二原発の廃炉を東京電力は決定していない。前日の県民大集会では、このことに対する危惧が訴えられた。除染を進め早期帰還させることで賠償金を抑えようとするが、除染によって積み上げられたフレンコンバックが帰還への住民の意思を削いでいる。国や東京電力にとって、住民が帰還せず賠償金が膨らんだところで第二原発再稼働による収益が上回ると考えているのであろう。
福島第二原発の四機はいずれも一一〇万?出力で稼働開始は八二〜八七年だ。この間廃炉が決せられた美浜1・2、敦賀1、島根1と玄海一は稼働から四〇年経過する炉で、出力は数十万?クラスだ。川内1・2の出力はどちらも八九万?で福島第二よりも小さく、稼働開始は八四〜八五年で同時期といってもよいだろう。何より全県レベルで第二原発廃炉を決したことを忘れないことが「福島を忘れない」出発点ではないか。「知らなかった福島」「変化させられた福島」を発見できたフィールドワークであった。(浩)


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