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    かけはし2015.年3月23日号

現在の課題に取りくむ出発点


「格差」とは何か? 討論のベースを設定

まずは読み進めてみよう

読書案内

トマ・ピケティ著、みすず書房、5500円+税

『21世紀の資本』

社会現象としてのピケティ


 昨年末に日本語版が刊行されたトマ・ピケティ『21世紀の資本』は、日本においても「話題の書」にとどまらず一つの「社会現象」となっている。
格差、富裕税をキーワードとして、広範な議論が起こっているし、雑誌や新聞での特集、NHKのEテレでの全六回にわたる講義等を通じて、多くの人が関心を持っていると思われる。
筆者も書店でながめて、なかなか面白そうなので年末に買って、正月から読み始めた。
内容に触れる前に、まず印象を述べておこう。
意外に読みやすく、世界の経済を大きなスケールでイメージできる。 全体は印象的な図表をベースとして、そのデータの背景と制約、図表から読み取れる歴史的事実を記述している。有名な小説の中の逸話と対比させながらの記述で、退屈しない。雑学的知識も満載である。
実際に書店で手に取って、面白そうだと思ったら思い切って買ってしまおう。買った人は、ぜひ周りの人たち、特に若い人たちにも勧めてほしい。

本書を貫く
「2本の柱」
著者の意図が、経済学を経済学者やアナリストの独占物とするのでなく、すべての人が、客観的なデータに基づいて考えるよう促すという点にあるとすれば、その意図は成功していると思う。
冒頭(「はじめに」の章)の以下の記述を前提として読み進めるとしよう。
「富の分配をめぐる知的、政治的な論争は、昔から大量の思い込みと事実の欠如に基づいたものになっていた。
もちろん、みんなが富の分配や所得水準について身につける直観的な知識の重要性を過小評価してはいけない。
……それでも、分配問題はやはり系統だったしっかりした手法でも検討すべきだ。厳密に定義された出所や手法、概念なくしては、どんな話でも読み取れるし、その正反対の話だって出てきてしまう。一部の人は、格差は常に増大しており、世界は定義からして常に不公正になりつつあるのだと信じている。別の人たちは、格差は当然ながら下がっているとか、調和が自動的に生まれるとか、考えているし、いずれにしてもこの幸せな均衡を乱しかねないようなことは何もすべきでないと考えている。お互いに聞く耳を持たない者同士のこの対話では、お互いが相手の怠慢を指摘することで自分の知的怠慢を正当化している。だから、完全に科学的ではないにしても、少なくとも系統だったしっかりした手法の研究にも出る幕はあるのだ」(2―3ページ)。
ピケティ自身は資本主義のシステムの中での格差是正を提唱しており、そのことは本書の中でも何度か触れているし、新聞・雑誌等のインタビューでも述べている。また、マルクス主義については過去の破たんした理論あるいはモデルとして扱っている(ピケティが経済学の研究を始めたのが一九九〇年前後だったことを考えれば、そのことに文句を言っても始まらない)。このことから左派の人たちの間ではピケティへの「ない物ねだり」的な批判、あるいは無視という態度も見受けられる。しかし、彼は資本主義を擁護するための理論を提唱しているのではないし、資本主義は格差問題を解決できると主張しているわけでもない。思い込みを排して、また、専門家が好む難解な数式に怖気づくのではなく、事実に基づいて議論することを提唱し、そのための基礎を提供しているのである。
先走りになるが、本書の全体を貫く主張は、@格差は経済法則で決まるのではなく政治的意思で決まるのだということと、A大事なことは議論と民主主義的な手続きで決めるべきということに尽きる。一読者に過ぎない筆者が「尽きる」とまで言い切ってしまうのは気が引けるが、筆者はこの二つの点がピケティのラディカルな経済学批判の真髄だと受け取った。ここが米国のウォール街占拠運動やギリシャのシリザの挑戦とも重なる点だと思う。その意味で、この本がブームとなり、社会現象になっていること自体に希望が持てる。

トリクルダウン理論の呪縛が解けた


本書の最大の功績は、この数十年間、新自由主義者が散々言いふらしてきたトリクルダウン理論、つまり大企業が儲かればそれが徐々に下にも落ちて行って、経済全体がよくなるという神話を完全に粉砕したことである。
トリクルダウン理論のベースになっているのは、サイモン・クズネッツが一九五五年に提唱した次のような理論だそうだ。
「資本主義の段階が進むと、経済政策の選択や国ごとの違いなど関係なしに所得格差は自動的に下がって、いずれ受け入れ可能な水準で安定する」(本書12ページ、著者による要約)。
クズネッツは米国連邦所得税申告とクズネッツ自身による米国国民所得推計を基に、社会の格差を実証的な方法で明らかにしようとした。しかし、クズネッツのデータは米国に限定され、また、一九一三年から四八年の三五年間のみを対象としている。ピケティはクズネッツの方法をベースとしつつ、当時のクズネッツの研究には反映されていなかった膨大なデータによって、フランス、英国、ドイツ等を含む欧米主要国の一七〇〇年からの三〇〇余年の経済成長と所得および富の配分(格差)を推定した。
そこから得られた知見として、ピケティは、それらの諸国で格差が縮小した一九一四―一九七〇年代は歴史的に見れば例外であり、しかも格差の縮小は経済成長とは関係のない要因(戦費の調達のための富裕層への高率の課税や、フランスでは革命の結果等)によるものであることを明らかにしている。一九八〇年代から二一世紀初めにかけては、格差は明らかに急激な拡大傾向を示している。また、格差と経済成長の関連でピケティは、歴史的に見れば経済成長はせいぜい一%程度であり、三〜四%という高い成長率が長期にわたって続くことはないと指摘している。
ピケティによると、クズネッツ自身も米国の一九一三年から四八年の格差縮小はほとんど偶然の産物であったことを知っており、拙速な一般化をしないよう警告している(15ページ)。
本書のキーワードとして、雑誌や解説書でも大きく取り上げられているのが格差拡大に関する「r>g」という法則である。つまり、長期にわたって資本の収益率(r)が経済成長あるいは国民所得の増加率(g)を上回っていると格差が拡大するという法則である。資本の収益、つまり不動産や金融資産が毎年生み出す収益(地代や金利など)が常に経済成長率を上回っているような状況では、所得の再分配のための何らかの措置を講じない限り格差は拡大するというわけである。
この法則そのものについて詳しい論証がなされているわけではなく、むしろ直観的な観察が歴史的なデータによって裏付けられているということだろう。

階級概念を可視化


ピケティ理論の衝撃は、格差の実態を示して、それを断罪するところにはなく、格差容認の論拠とされてきたトリクルダウン理論を完全に粉砕したことにある。この間「労働情報」誌でしばしば取り上げられている米国での最低賃金引き上げの動きには本書の影響が反映されている。日本においても、安倍首相は国会答弁で、「アベノミクスはトリクルダウン理論ではない」と弁明している。数十年にわたってメディアを支配してきたトリクルダウン理論の呪縛があっけなく溶けてしまったのである。
ピケティは格差について、その現実と、いくつかの要因について述べているのであって、格差とは何か、格差がなぜ起こるのかについて直接に取り上げているのではない。剰余価値の分配の結果だけを対象とし(そもそも剰余価値という用語は使われていない)、剰余価値の分配のメカニズムには触れていない。その点は我慢して読み進めてほしい。
ピケティの分析の特徴は、所得や富の分配を、「上位一%」、あるいは上位(一〇%)、中位(四〇%)、下位(五〇%)のシェアで表している点である。
マルクス主義の階級概念からすると、上位・中位・下位という分類はいかにも非論理的で、皮相に見えるかも知れない。
しかし、「資本家階級」を具体的にイメージする上で、「上位一%」、あるいは「上位〇・一%」という区分は言い得て妙である。それぞれの区分に標準的な資産額や所得が示されているので、人々が世の中の理不尽の構造を理解し、それを階級という概念で考えようとする出発点になるかも知れない。
中位(四〇%)という区分も、社会の階級構造を理解するのに役立つだろう。これによって二〇世紀前半から七〇年代、八〇年代までの時期の中間階級の台頭と、その後の頭打ち、そして労働者階級の間の格差もかなりの程度視覚化される。
ピケティ自身は、この中位に焦点を当て、教育や機会の提供を通じてこの層のシェアを増やしていくことに焦点を当てているように思える。相続や教育格差など、格差を固定化する要因について詳しく分析されている。
一方で、下位(五〇%)については非常に冷淡という印象を受ける。所得や財産に関するデータを基にした分析という制約もあるのだろう。ジェンダーやマイノリティーに関連する問題も分析の対象に入っていない。このあたりはむしろ、ピケティに学んだ若い人たちの間から、ピケティの方法やデータを活用して新たな研究成果が生まれることを期待したい。

国際的な市民参加の税制

 本書は四部一六章で構成され、第四部は「21世紀の資本規制」として、社会国家の役割、累進所得税、世界的な資本税、公的債務の問題について考察している。
特に、世界的な資本税(第一五章)に力を込めている。「二一世紀のグローバル化した世襲資本主義を規制するには、二〇世紀の税制モデルと社会モデルを見直して現代社会に適合させるだけでは不十分だ。たしかに、前世記の社会民主プログラムや税制リベラル・プログラムの適切な見直しは不可欠だ。……でも民主主義が二一世紀のグローバル化金融資本主義に対するコントロールを取り戻すためには、今日の課題に適応した新しい道具を発明しなければならない。理想的なツールは資本に対する世界的な累進課税で、それをきわめて高水準の国際金融の透明性と組み合わせなければならない」(五三九ページ)。
この国際資本税は、比較的低い税率を想定しており、税収全体に占める割合はそれほど高くないが、資産の集中を制御する上では大きな効果があるという。
この考え方は、ATTACなどのオルタグローバリゼーション運動が提唱してきた国際通貨取引税(トービン税)と共通している。比較的低率であり、必要な経済活動に大きな影響を与えないが、国際的な連携と、市民の民主主義的な参加によって資本の活動を規制していく大きな一歩になる。
ピケティは、ヨーロッパにおける一連の進歩的税制の導入と合わせて、「ユーロ圏予算議会」を創出するべきだと指摘している(五九一ページ)。
これらの提案は空想的に見えるかもしれないが、「国家なき通貨を作り出そうとするほど空想的ではない」。逆に、このようなヨーロッパ的な政治統合がなければ、法人税をめぐる底辺への競争、消費税への依存の増大をもたらし、それは貯蓄できる者、居住国を変えられる者、その両方ができる者に有利に働くと警告する(同)。

問題とされる
べきは何か?
ピケティは格差問題を切り口に、経済理論、経済政策のあり方そのものをラディカルに批判している。
この点に筆者は限りなく共感する。筆者は時々NHK・BSの海外ニュースを見るが、その「経済ニュース」なるものはニューヨーク市場の株価と為替の動きを銀行や証券会社のアナリストが解説するだけである。それでなくても、最近の経済に関するメディアの報道は「株価は……」や「日銀短観は……」など、投資家や経営者の心理状態の分析に矮小化されている。「デフレ・マインドの克服」とか「インフレ目標」に至っては、経済政策でも何でもない。
そんな苛立ちから本書に関心を持った。そもそも経済とは何なのか、経済政策や経済理論はどのような問題に取り組まなければならないのか、そんなことを考えるためのヒントが本書には詰まっている。
(小林秀史)



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