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    かけはし2015.年3月2日号

社会の非宗教主義的伝統の限界


フランス ジルベール・アシュカルに聞く 

殺害を引き起こしたものは何か?

『シャルリー・エブド』紙襲撃の背景

 ジルベール・アシュカルはレバノンで育ち、オリエント・アフリカ学部(SOAS)で開発研究と国際関係を教えている。その著作には次のようなものがある。『野蛮の衝突』(作品社)。これは二〇〇六年に増補版が出された。中東に関するノーム・チョムスキーとの対話である「危険な権力」(Perilous Power)、中東とアメリカの外交政策(二〇〇八年第二版)、そして一番最近では、『アラブとホロコースト――物語 アラブ・イスラエル戦争』(The Arabs and Holocaust:The Arab-Israeli War of Nattatives、二〇一〇年)。アラブの激動を分析した彼の次の著作は、二〇一五年春に出版が予定されている。
 パリの『シャルリー・エブド』紙本社襲撃事件とそれに続く弾圧と反イスラムの波を受けて、ジルベール・アシュカルは、反人種差別主義、反帝国主義の反撃を組織するためにフランスの左翼と国際的な左翼がいかに答えるべきかの質問について一月末にアーメド・シャウキに語ってくれた。

事件を利用し民族主義煽る


――『シャルリー・エブド』紙事務所への襲撃に対するフランス社会全般ならびにとりわけフランス国家と支配階級の反応はどのようなものだったのか?

 その反応は誰もが予想したものだった。最初の反応は、大衆的規模での衝撃であった。これはアメリカ・ニューヨークの九・一一テロの後の反応と異なるものではない。ただ、多くの人々が、とりわけフランスで多くの人々がみなしているような、二つの襲撃を同一の地平に置くことが事態を大きく誇張するものであることは明白なのだが。
そして、もちろん、この衝撃は、九・一一が当時、アメリカのブッシュ政権によって利用されたのと同じやり方で、フランス政府によってただちに利用された。「挙国一致」の名の下に批判を沈黙させて広範な支持を得るためにである。突如として、フランスのオランド大統領の人気が、極度の低水準にあったのが急騰した。同じことがかつてのアメリカでジョージ・W・ブッシュについても起こった。彼の人気は九・一一以前にはきわめて低かったのだが、彼が夢見ていたいかなる水準をも超えるところにまで支持が上昇した。
驚愕し、恐怖を抱いた社会からまったく類似した反応が生まれた。しかも、この犯罪は実際、ぎょっとさせるものであった。どちらのケースでも、支配階級は、民族主義的感情をあおりたて、国家を支持させるために、この衝撃を利用した。三人の過激な暗殺者を追いつめる作戦に何万人もの人々を動員するために、警官隊が偉大なヒーローとして歓呼の声で迎えられた。ニューヨークの消防士の方がその勇敢さにおいてはもっとずっと賞賛に値することは確かなのだが。
この点について何も目新しいものはない。それとは別に、むしろ目新しかったのは、その後の議論の進展のあり方であった。
ご存知のように、『シャルリー・エブド』紙襲撃とパリのスーパーマーケット「コーシャー」でのユダヤ人への襲撃は、アルジェリア系の二人の若者とアフリカのマリ系の若者(三人ともフランス生まれである)によって実行された。最後の数日間を通じて、襲撃に関する議論には重要な変化が生じた。それは、より冷静なものになり、移民系の人々に対処する方法について、フランス社会は何か間違いをおかしているという事実をかなりの程度認めるというようになっていったのだ。
この変化は、フランスのマニュエル・ヴァルス首相が襲撃から二週間後に、フランスでは移民系の人々に対する「地域的、社会的、エスニック的アパルトヘイト」が存在すると公然と語るところにまでに行き着いた。この発言は実際、きわめて強烈な性格づけであって、予想されたように、それは大々的な批判を浴び、ヴァルスが主宰する内閣の閣内からすらも批判の声が挙がった。
しかし、それは、最初から次のように言う一定の人々の主張を代表していたのだった。すなわち、殺すために進んで自殺的襲撃に加わるような大きな憎悪のレベルにまで若者を駆り立てている事態を、人々はこのひどい襲撃事件から考えていくようにしなければならない、と。それは、どのようなものであれ、実行された殺害の理由について言い訳をするためでも、ジョージ・W・ブッシュが九・一一後に言ったような「連中はわれわれに自由があるが故にわれわれを憎んでいるのだ」というとんでもない説明に身を投じるためでもなくて、そのような憎しみと憎悪の根源を探求することが不可欠なためなのである。
これはわれわれを核心的問題へと導くことになる。フランスの首相が言っていることはまさにそのことである。この核心的問題は、フランス国内における移民系住民の置かれている状況ということなのである。このことを明白かつ実にあからさまに物語るひとつのことは、フランスの刑務所に収容されている人々の過半数がイスラム系の人々であるという事実である。これらの人々がフランスの全人口の中で一〇パーセント未満しか占めていないにもかかわらずである。さらに、フランス国家とその社会が過去の植民地支配の遺産をけっして実際には清算していないというそれに関連する事実も存在している。
後者の問題については、ベトナム戦争に関するアメリカ社会の自己検証の方が、アメリカ国内での巨大なベトナム戦争反対の大衆動員がなされたことを反映して、フランスでアルジェリア戦争について行われた検証よりもはるかにずっと根本的で広範囲にわたるものであったという点は驚くべきことである。アルジェリア戦争は、残虐さという点でベトナム戦争以上のものであったわけでないとしても、それに劣らず残虐であり、アルジェリアに対する野蛮な植民地的占領が一世紀以上にわたってなされた後になってから検証がなされたにもかかわらず、そうなのである。
フランスという国は、信じようと信じまいと、半世紀も前の話ではなくてわずか一〇年前にすぎない二〇〇五年においてもなお、議会が、植民地支配の事業に加わった男女、とりわけ軍人、を讃える植民地支配の遺産に関する法律を採択するような国なのである。そして、この法律は、「海外、とりわけ北アフリカにおいてフランスの存在が果たした肯定的役割」を学校が教える必要があるとしている。この法律の特別な個所は、移民系諸団体、左翼、歴史家、学校教員からの大規模な抗議を受けてから一年後にも、大統領令によって蒸し返された。しかし、そのような法律が議会の多数派によって採択され得るという事実そのものはとんでもないことである。

フランスの「アパルトヘイト」


――フランスの「アパルトヘイト」についての首相発言に対する反応についてもう少し述べて下さい。びっくりするような発言なので。

 実にびっくりするような発言だ。いいだろうか、ヴァルス首相は明らかに、急進的でもないし、進歩的でさえないのだ。彼は社会党右派の出である。首相になる前には内相だった。その彼は、右派や(極右派の国民戦線の)マリーヌ・ルペンと移民問題でどちらがより強硬路線であるかということで競い合おうとしているとして左翼から批判されていたのだった。その彼が今度は突如として、このような強硬な声明を行ったのである。
当然にも、彼は、右派からだけではなくて自身の党や左翼の一部をも含む広範なところから批判を浴びた。これらすべての批判はこう語るのだった。彼ははめをはずしてしまったのであり、触れてはならない禁句を用いるべきではなかった、と。彼に対する最も穏健な批判は、フランスには、数十年前までの南アフリカや半世紀前までのアメリカ南部とは違って、法的なアパルトヘイトは存在していないという事実を指摘するものである。しかし、アメリカで今なお支配的な事態と類似した、「地域的、社会的、エスニック的分離」というフランスの現実を誰もまともに否定することはできないだろう。
フランスにおける移民系の住民の置かれている状態は、厳密な意味でのアパルトヘイトというよりもむしろアメリカの黒人の状態により似ている。これらの人々は、都市周辺の別個の地域に集中しており、極度のフラストレーションがたまる状態の中で生活している。そのトップにくるのは、雇用や住宅などの面を含めてさまざまな形を取ってフランス社会に浸透している差別である。
この点ではフランスはアメリカに比べてももっとひどい。かの悪名高い反イスラムの小説家のでたらめなファンタジーの世界を別とすれば、アフリカ出身の人間がフランス大統領に選出されるなどということをわれわれが近い将来に見ることにはなりそうもないのである。要するに、二〇〇二年に、極右派のジャン・マリー・ルペンが、大統領選の第一回投票で社会党候補を破り、第二回投票に進んだのである。

左翼の「急進的非宗教主義」


――このことはフランスの極右派についてそれに関連した問題を提起する。フランスの極右派は、「改革された」国民戦線を率いるル・ペンの娘、マリーヌを擁して選挙の面で実に強力である。私の理解では、国民戦線はファシスト的右翼に至るまでの極右派から歴史的にインスピレーションを得てきたのが、今ではゲイやマイノリティやユダヤ人の指導部の中からその立場を代弁させようと勧誘している。だが、国民戦線は、移民系の人々、とりわけイスラム系の人々を「新たな敵」だと選定している。大枠としてこの通りなのか?

 全般的には、ヨーロッパの極右派は今日、逸脱した偏狭なグループを除けば、反ユダヤ主義にも、一方的な反ゲイにさえ力点を置いていない。実際、オランダの極右派の主要人物の一人は公然たるゲイであり、彼は、イスラム系移民のホモセクシュアル憎悪に言及することによって自らのイスラム憎悪を正当化することを常としている。だから、反ユダヤ主義、反ホモセクシュアルがもはやヨーロッパの極右派の政綱ではないのである。むしろそのヘイトスピーチの対象になっているのはイスラム教である。かつての一九三〇年代と四〇年代においては、ユダヤ人などがファシズムやナチの犠牲になっていたが、今日ではユダヤ人よりもイスラム系の人々がはるかにずっとスケープゴートとなっている。もっともこの場合、ロマ人は例外である。ロマの人々は今なお人種差別主義の憎悪の対象となっている。今日、極右派の憎悪の飛び抜けた主要対象とされているのはイスラムなのである。
このイスラム憎悪は実際には最もしばしば次のような形を取って示される。すなわち、それは人種差別主義という形を取るのではなく、その憎悪はイスラム教の信仰だけに向けられているのであって、イスラム系の人々がイスラムとしての振る舞いをしないかぎりにおいてはイスラム系の人々に対して憎悪は向けられないのだ。
言い換えれば、「悪いイスラム系の人々」と「良いイスラム系の人々」とが存在するということだ。後者は、「酒を飲み、豚肉を食べる」イスラム系の人々である。これは、すなわち、不信心な、西側キリスト教文化に完全に適合した人々である。この最も歓迎すべきイスラム系の人々――もちろん、これはエスニック的な意味においてだが――は、イスラム憎悪の合唱に加わるわずかな少数派であり、植民地の主人に仕える植民地生まれの人々のように、自らの協力の代償を求めるのである。
「西側のイスラム化」に反対して闘うと称する運動によってドイツで組織されたデモに働いているのはこの反イスラムのアプローチである。この種のイデオロギーは全ヨーロッパの極右派に共通している。おそらく、イギリス独立党は、EU諸国から来る移民をも含めてすべての移民を攻撃対象にしているので、例外であろう。

 ――フランスの左翼は社会内部で組織されている人種差別主義の問題についての十分な活動の実績という点ではまったく貧弱だとの指摘がなされてきた。それは本当か?

 まったくそのとおりだ。フランスの左翼――実際には私が言いたいのは社会党の左にいる「急進的左翼」と呼ばれているもののことなのであって、社会党を私は実際には左翼とは呼ばない――は、移民系人民に関する実績の記録はわずかでしかない。これは大きな失敗である。もちろんながら、大部分の帝国主義国にも同じような情勢を見出すことができるのだが。
これらの人々との、とりわけその青年層との強力な結びつきがないということは、これらの人々の間で正当な理由のために高まった憤激が間違った方向に向かい、極端な場合にはわれわれが今日見ているような殺人という一方的行為を生み出す時にも、それに対して異議を提起する可能性がほとんどないということを意味する。
植民地主義反対という点に関するフランス共産党の歴史的履歴は全体として見るとおよそ潔白とは言いがたい。フランス国内では、エスニックをめぐる差別や植民地的遺産に反対する闘いは左翼の行動において十分に中心的なものになってこなかった。そして、このために、ある程度までは左翼に引き付けられてきた多くの若者が左翼を拒否し、左翼に対してにがにがしい感情を発展させることになっている。
これは常に、われわれが「急進的非宗教主義」あるいは「非宗教原理主義」と呼ぶことができるフランス左翼内のひとつの伝統と結びついている。

シャルリー・エブドと宗教

 ――「非宗教性(ライシテ)」のことを言っているのか?

 「非宗教性(ライシテ)」は非宗教主義を意味するが、そこにはそれを超えたものがある。「反教権主義的」伝統と呼ぶことにしよう。それはフランスにおいて歴史的に左翼の非常に強力な伝統となってきた。それは、宗教ならびにその信者全般に対して非宗教主義的な尊大さという形を取る可能性がある。
批判の対象となっている宗教が支配的な宗教であるかぎりにおいて、その非宗教主義は大きな問題とはならない。もっともこの場合でさえ、非宗教主義が政治的にその意図とは逆の結果を招くこともあり得るのだが。若きマルクスが適切な形で述べたように、支配階級のイデオロギー的手段であるその同じ宗教が「抑圧された人間のため息」ともなり得るのだ。
しかし、問題とされる宗教が社会の抑圧され、搾取された層の具体的な信仰である場合には、すなわち、西側世界においてかつてのユダヤ教や今日のイスラム教のようにしいたげられた宗教である場合には、今述べたことははるかにずっと真実なのである。たとえば、あなたは、今日のイスラエルに対してと同じ態度を一九三〇年代のヨーロッパでユダヤ教に対して取ることはできないし、イスラムに対してイスラム教徒が多数派である国と同じ態度を今日のヨーロッパで取ることはできない。同様に、キリスト教徒に対しても、キリスト教徒が多数派の国においてと同じ態度を今日のエジプトで取ることはできない。エジプトではキリスト教徒は抑圧された少数派なのである。
この点が風刺画週刊紙『シャルリー・エブド』の問題である。同紙に関わっている人々の一部はとても左翼的である。同紙の編集長であり暗殺者たちの主要ターゲットとなった「シャルブ」の名前で知られているステファン・シャルボニエはどこから見ても左翼の人間である。彼は共産党ならびに左翼の世界の人々と密接な結びつきをもっていた。彼に対する追悼は「インターナショナル」の曲が流れる中で行われたし、同紙編集部の中で生き残ったルズによるシャルブを讃える追悼の辞には、フランスの右翼や極右やローマ法王だけでなく、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフに対する手厳しい批判が盛り込まれていた。
この点で、『シャルリー・エブド』紙をナチの下でのドイツで反ユダヤ主義の風刺画を発行していたナチの出版社にたとえるなどというのは、とんでもない間違いである。『シャルリー・エブド』は極右の出版物ではないし、今日のフランスはナチのような国家ではない。
むしろ、『シャルリー・エブド』紙は私が述べた尊大な非宗教主義を顕著な形で例証している。それは、非宗教主義と反教権主義が左翼的伝統の基本的教義であると固く信じている、良心的な左翼の中に広く保持されている態度なのである。それは、フェミニズムやその他の解放の大義と並んで左翼のアイデンティティの一翼をなすものとみなされている。

スカーフ問題も同じ例証

 ――過去一〇年余の間のフランス左翼の主要論争のひとつがスカーフ問題やイスラム系女性が公共の場でヒジャブを着用する権利をめぐるものだった。この論争では何が問題になっていたのか?。

 これは、同じ問題のもうひとつの例証である。それは、若い女性が頭にスカーフを巻いて登校し、家族の支援のもとにあくまでもそうし続けたために、退学になった問題をめぐって一九八九年に起こった。これは、公立学校で「これみよがしの」宗教的標章を着用することを禁止する二〇〇四年の法律へとつながっていった。
左翼の一部――あえて言うとフランス共産党を含むフランス左翼の圧倒的多数なのだが――は、家族によって彼女たちに抑圧的な形で着用が強制されていることに反対する闘いを「支持する」という名の下に、このスカーフ着用禁止措置を支持した。スカーフが女性抑圧の象徴なので、スカーフ着用の禁止はこの抑圧に挑戦し、公立学校での非宗教的性格を維持する道であると信じて、禁止を支持したのだった。
この尊大な非宗教主義の核心的問題――これはきわめてオリエンタリズム的な尊大さと言うこともできよう――は、解放が抑圧された人々に対して「強制する」ことができるという信念である。それが言わんとしている原理は次のようなものである。私は、スカーフを脱ぐようお前に強制することによって、お前がそれを認めるかどうかには関係なく、お前を解放してやっているのだ、と。これが植民地主義的精神の再生産にほかならないことは言うまでもない。

ファシズム規定の誤りと限界

 ――一部の人々について言うと、尊大な非宗教主義だとするフランス左翼に対するこの批判が妨げとなって、政治的なイスラム主義、とりわけ『シャルリー・エブド』紙への襲撃やアメリカにおける九・一一の攻撃の背後にあるさまざまなその反動的なタイプのイスラム主義、について左翼の側からの分析を行うことがためらわれているのだと思う。その問題について、あなたは『野蛮の衝突』(ジルベール・アシュカル著『野蛮の衝突』、作品社)で触れているのではないか?

 その通りで私はその本を九・一一の後に書いた。九・一一のような攻撃に直面すると、それを説明するために「野蛮な」という言葉が必然的に使われることになるだろう。
今日、反帝国主義派はそれに対してどのような態度を取るべきなのか? 二つの方法があり得る。ひとつは、「いや、それは野蛮ではない」と言うことである。このようなアプローチがおかしいことは明白だ。九・一一の大量殺害や今回のパリの襲撃事件ではなくて、二〇一一年のノルウェーの極右過激派のアンネシュ・ブレイビクが行った反イスラムの連続テロ事件の方を野蛮とみなすべきなのだろうか? これは、イスラムへの侮辱を、イスラムの名においてなされたすべてのことに対して実に素朴で無批判的な態度にすり替える態度なのであり、「裏返しのオリエンタリズム」の極端なケースだろう。
政治的に間違っていて危険なのは、「野蛮な」や「ひどい」のような言葉を使うことではなくて、「ファシズム」という見当違いな政治的カテゴリーを用いることである。フランス左翼の多くが、共産党だけでなく、革命派のメンバーもまた、さらにごく最近では、かつて毛沢東主義者だった哲学者、アラン・バデューが、パリの襲撃に「ファシスト的」という烙印を押し、その実行者たちは「ファシスト」だと言っている。
このような言葉の使い方は社会・政治的にまったく無意味である。ファシズムとは、どのようなものであれ資本主義に脅威を与える労働運動をはじめとする勢力を粉砕することによって資本主義を救済し、攻撃的な帝国主義を推進することを主要使命としているウルトラ民族主義の大衆運動であるからだ。帝国主義に支配された諸国において宗教的原理主義に鼓舞されたテロリスト潮流にファシズムというこのカテゴリーを適用するのはナンセンスだ。
そのようなレッテル貼りはファシズムを明確に区別された社会・政治的カテゴリーとみなすいっさいのものを不鮮明なものにしてしまう。もしわれわれが政治的・社会的カテゴリーをこのように薄めてしまうと、アルカイダやイラクとシリアのいわゆる「イスラム国」よりも、スターリニズム、そして二〇〇三年以前のバース党独裁体制や今日のシリアの方がはるかにずっと歴史的なファシズムに類似していることになってしまう。
烙印の誤用は、アルカイダを「イスラム・ファシズム」と呼んだかつてのアメリカのブッシュ政権内のネオコン派などによって始められたのだが、左翼の側の多くの人々がこのような罠にはまってしまっているのは実に不幸なことである。この誤用の明白な政治的目的は、ファシズムが究極の悪だとみなされていて、ナチズムがファシズムの権化である以上、帝国主義の戦争を含むそれに対するいっさいの行動は正当化されるとすることなのである。
私は、九・一一直後に招かれて参加したパリでの討論をよく覚えている。それはフランス共産党によって組織されたものだった。党の指導的メンバーである演説者の一人は、アルカイダとイスラム原理主義が新たなファシズムを形成していて、それに反対して西側諸国によってなされている戦争を支持するのは正当である、それは、第二次世界大戦においてファシスト政権に反対してソ連邦がアメリカやイギリスと同盟を結んだのが正当であるのと同じである、と説明した。「対テロ戦争」が「イスラム・ファシズム」に反対する「第三次世界大戦」であるとするネオコン派の言説の中に同じ理論的解釈の直接の反響を見出すことができる。
「野蛮な」というレッテル貼りの問題に戻ると、それに対する対応のもうひとつの方法は、もちろん、次のように言うことである。「そうだ、これらの虐殺は野蛮な行為であるが、それらはまず何よりも資本主義的・帝国主義的野蛮に対する反応なのであり、こちらの野蛮の方がはるかにひどいのだ」と。これが、九・一一の後の左翼の側の多くの人々の対応であった。ノーム・チョムスキーはおそらくそのような人々の中でも最も著名な人物の一人だろう。彼はこう説明した。イスラム世界の人々は、九・一一の攻撃と同じほどひどく、帝国主義が行った虐殺によって妨げられてきたのだ、と。
自著『野蛮の衝突』の中で、私は、強者の野蛮が主犯であり、それが相手陣営の側からそれに対抗する野蛮の出現を生み出している主要原因であるという点を強調した。このような「野蛮の衝突」が「文明の衝突」として誤って説明されてきたし、今なおそう説明されているものの真実の顔なのである。一世紀も前に、ローザ・ルクセンブルクが述べたように、資本主義と帝国主義の危機の発展力学は結局のところ、「社会主義か野蛮か」という選択以外の余地を残さないのである。

米国とフランケンシュタイン

 二〇〇一年九月一一日の攻撃、二〇〇四年のマドリードの攻撃、二〇〇五年のロンドンでの攻撃、そして最近のパリの攻撃はすべて、アルカイダが自らの犯行であると主張している。 これはきわめて反動的な組織である。アルカイダは、同様の組織とともに、それが基盤にしている国のすべての左翼にとっての不倶戴天の敵である。たとえば、イラクとシリアのいわゆる「イスラム国」のある最高指導者は、二〇一三年にチュニジア左翼の中心的指導者二人の暗殺を組織したことを誇っている。
パリで殺害を行った二人の青年は、イスラム教徒が多数派である諸国に存在する過激な極右派のテロリスト組織に魅了された。アルカイダは、ワッハーブ派の理念の産物である。それは、イスラムについての最も反動的な解釈であって、サウジ王家の公式イデオロギーである。そして、周知のように、サウジ王家は、中東において、イスラエルを除けば、アメリカの最良の友である。
左翼の人々はこのような組織をいかなる点からも大目に見たり、支持したりする立場を取るべきではない。わわれわれは現在のその内実のゆえにそれらの組織を糾弾する。だが同時に、われわれはまた、それらを出現させた主要な責任がまず最初に「野蛮の衝突」を始め、その野蛮さが比較にならないほど大規模で残酷なものである者たち、すなわち、帝国主義列強、とりわけアメリカ、にあることを強調しなければならない。
実際、両者の間には直接の明白なつながりがある。アメリカは、サウジ王国とともに、イスラム教徒が多数派の諸国における左翼に対する闘いの中でこれらの戦闘的なイスラム原理主義潮流を何十年にもわたって育成してきた。これらの潮流は、長期間、アメリカと同盟してきた。この歴史的な協力関係は、一九八〇年代のアフガニスタンの戦争で頂点に達した。この戦争では、これらの潮流は、ソ連の占領に反対して、ワシントン、サウジ、パキスタンの独裁政権の支援を受けた。
結局のところその後に起こった事態は、フランケンシュタインの話のように、これらの潮流の一定部分がサウジ王家やアメリカにはむかうようになったということである。アルカイダについての顛末はこうである。すなわち、その創設者たちは、アフガニスタンでのソ連邦の占領に反対する戦闘の期間中、アメリカやサウジ王家と同盟関係にあったが、一九九一年のアメリカの対イラク戦争の準備の過程でアメリカ軍がサウジアラビアに直接駐留するようになったために、両者に背を向けるようになったのである。
こうして、ブッシュ・ジュニアの米国政府は、最初のイラク戦争によってアルカイダの対米路線の一八〇度の転換を挑発し、イラク侵攻でその挑発をそのまま続けたのだ。イラク侵攻は、大嘘を口実に遂行されたが、その嘘のひとつは、アルカイダを壊滅するために必要だというものだった。アルカイダとイラクとの間にはどのようなものであれ何の結びつきもなかったのだ。この国に対するアメリカの占領の結果は、アルカイダが、それ以前にはアフガニスタンにその基盤が限られていたのに、中東において決定的な地域的基盤を獲得することを可能にすることによって、アルカイダを大いに後押しすることとなった。
今日、イラクとシリアにおけるイスラム国と呼ばれているものは、アルカイダのかつてのイラク支部であったものからの発展にすぎない。アルカイダのこのイラクにおける組織は二〇〇三年の米軍のイラク侵攻以前には存在していなかったが、占領のせいで生まれた。それは二〇〇七年以降、敗北し、取るに足りない勢力になったが、シリアでの内戦とシリア政権の極度の野蛮さによって作り出された状態を利用することによって、何とか再生したのだった。そして、現に、今や帝国主義の心臓部で再び、攻撃を行いつつある。まさに、「悪事をはたらけば、その何倍ものしっぺは返しを受けることになる」ということだ。

(『ソーシャリスト・ワーカー』より)


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