2.4〜2.5
鹿児島・福島の女たち共同アクション
新しいつながりでパワーアップ
2日間の行動で「原子力ムラ」追及
地域に根ざし社会を変えよう
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二月四、五日の両日、「川内原発再稼働阻止 原発いらない」鹿児島の女たち&福島の女たち共同アクションが行われた。福島の女たちと鹿児島の女たちが、原発再稼働を強行しようとする「原子力ムラ」に抗議の意思をぶつけようと、東京で繰り広げたイベントだ。再稼働阻止!全国ネットが協力して企画したこの行動には、川内原発の地元の薩摩川内市をはじめ鹿児島から一七人の女性が、そしていつもエネルギッシュな活動を進めている福島の女たちとあわせて、鹿児島と福島から三〇人以上の女性が参加した。
二月四日には、午後一時から代表が原子力規制委員会、経産省前での抗議行動を展開しながら、参院議員会館で、経産省、規制委員会、内閣府の担当者との質疑応答。午後四時からは首相官邸前で首都圏の仲間たちも加わり、一五〇人で「再稼働阻止」の訴えを響かせた。
さらに午後五時半から約二〇〇人が参加した東京・有楽町の九州電力東京支社抗議行動と、日比谷図書文化館コンベンションホールで開催された全労協の脱原発集会(記事別掲)に分かれて参加、それぞれ「川内原発再稼働のボタンは押させない」の訴えと、福島でのねばり強い闘いの報告を行った。そして午後七時過ぎから行われた東電本店前合同抗議行動にも合流した。
霞ヶ関ランチ
デモでアピール
翌日、二月五日は東京でも朝から「大雪」という予報が出ていた。午前一〇時から日比谷図書文化館での集会の後、日比谷公園からテント前、経産省などを通る「霞が関ランチデモ」を雪の中で敢行した。
途中経産省前テントで「テントを守れ」のシュプレヒコールを繰り返し、虎ノ門から西幸町を経て、経産省別館前では「ランチタイム」で食事に出る経産省職員に「再稼働するな、脱原発を」と声をかけ、注目を集めた。約三〇分のデモだったが、寒さの中で元気いっぱいだった。
鹿児島の女性たちは、雪のため遅い航空便に欠航が出るとの情報のため、多くは先に予定を早めて帰らなければならなかったが、一二時半から参議院議員会館で行われた院内集会には資料が足りなくなるほどの満杯状況。落合恵子さんの激励などで大いに盛り上がった。時には打ちひしがれそうになる困難の中で、女たちがお互いに支えあい、励ましあいながら、パワーを発揮して、「再稼働阻止・脱原発」「事故責任者の罪を問い、補償を!」の訴えを現実のものとするため、共に力を出し合おう。 (K)
2.4全労協脱原発集会を開催
福島・鹿児島の女性たち迎え
労災事故・被ばく労働問題に取り組もう
二月四日午後六時半から日比谷図書館コンベンションホールを会場に、「川内・高浜原発再稼働阻止!原発いらない!2・4全労協脱原発集会」が開かれた。この日の日中は、「鹿児島(をはじめとする全九州)の女たち」と「原発いらない福島の女たち」が手を取り合って国の暴挙に立ち向かうと呼びかけられた行動が、原子力規制委員会や首相官邸をはじめとして霞が関一帯で展開され、全労協もその一翼として行動を共にしていた。集会はこの全一連の行動の一環として設定され、集会には「鹿児島の女たち」と「福島の女たち」も参加、双方の代表から痛切な訴えが行われた。そして集会後には集会参加者全員が、東京電力本社に対する諸団体共同の抗議行動に合流した。
収束作業労働者の尊厳と安全がまったく守られていないという問題を含め、脱原発の課題で労働組合の存在が厳しく問われているとの思いを訴えた金澤壽全労協議長による主催者あいさつで幕を開けたこの日の集会では、特に両「おんなたち」の訴えが参加者たちに脱原発の思いを強めさせた。
女性たちに広
がる反対意見
まず「福島の女たち」を代表して大河原多津子さんが、チェルノブイリの事故を契機に脱原発の運動をしてきたにもかかわらず、心のどこかで日本では何とか事故は防げるはずと信じてきたとの痛切な悔やみを吐露しつつ、長年有機農業を続け大事にしてきた土が台無しにされたと、農民としての苦悩を語った。しかしだからこそと、農民のプライドが感じられるシステムを作り上げることを通じてこの地で闘うとの強い決意が表明された。さらに「環境創造センター」などとの名前を冠し放射能は怖くないと教育する施設に一九〇億円も投入しようとしていると県と国を厳しく批判しつつ、核まみれの社会を次の世代に残してはならないと強く訴えた。
次いで「鹿児島の女たち」の二人。松永三重子さんは、県知事の受け入れ表明以後むしろ不安は全県的に高まっている、特に女性の中で再稼働許さずの声がじわじわ広がっていると現地の状況を報告、三月二日には九電本社直訴行動を行うと、再稼働阻止の声を引き下がらずあげ続けると決意を語った。
井上ゆりさんからは若い世代の思い。天文館アトムズとして四歳から四〇代の運動と笑わせながら、住民アンケートの開示請求に対する自由記述欄が全面墨塗りされた回答を示し、自分たちは少しも諦めていない、若い世代に考えるきっかけを作ることを主眼に、楽しんで一風変わった行動を押し出しながら自分たちができることを考えてゆきたい、とあくまで前向き。発言の後では壇上で大きな横断幕が披露された。
これらの発言には会場から大きな拍手が送られ、集会は、事後に控える東電本社行動に向け、三月一四日の「福島連帯・3・14原発のない福島集会」への取り組みをはじめとする行動提起を含んだ基調報告を採択して締めくくられた。
全労協は今後「全労協脱原発プロジェクト」を中心に、脱原発の様々な大衆行動に加え、収束作業で多発する労災事故や収束作業労働者の劣悪処遇の問題に、東電追及をはじめとして率先して取り組む予定。原発問題では特に鮮明に、労働組合運動の社会的意味が試練にかけられている。全労協の取り組みをさらに前進させるために力を尽くそう。 (谷)
1.24さようなら原発一千万署名・市民の会
川内・高浜原発動かすな
東京集会・デモに550人
一月二四日、「さようなら原発」一千万署名・市民の会は、東京・豊島公会堂で「川内・高浜原発を再稼働させない!東京集会&デモ」を開催した。集会には五五〇人が参加した。 女優の木内みどりさんの司会で進められた集会では、一千万人署名の呼びかけ人から鎌田慧さん(ルポライター)があいさつ。鎌田さんは川内原発の事故時の避難計画が全くできていないことなどを例にあげながら「原発を動かしてはならないことは証明済み」と批判した。そして福島での原発作業員の死亡事故について、危険な被ばく労働にたずさわる人びとの人員不足、長時間で過酷な労働による疲弊状況をも指摘した。
次に評論家の佐高信さんの発言。佐高さんは、玄海原発差止訴訟の原告としての自分の意見陳述を引用し、「世界一安全で、事故は絶対に起こらない」と言っていた事業者の言い分、福島原発事故直後に「メルトダウンなど起きていない。放射能は洩れていない」とTVで言い続けた経産省原子炉安全委員会委員の関村直人・東大大学院教授が、ウソがばれるやその後いっさいTVに出なくなったことなどを指摘し、その無責任ぶりを糾弾した。
鹿児島・福井
から現地報告
次に川内原発、高浜原発再稼働阻止の現場から、野呂正和さん(川内原発増設反対鹿児島県共闘会議事務局長)と宮下正一さん(原子力発電に反対する福井県民会議事務局長)が発言した。
野呂さんは、「一六〇キロ圏内にある五つのカルデラ」という川内原発の特殊な地理的条件や、「避難計画に実効性がない(車などが圧倒的に不足、避難受け入れ態勢ができていない)」こと、北西の風が強く吹く際には放射能は垂水市、鹿屋市の方向に飛んでいくが、そこが避難地域に指定されていることなどを挙げ、再稼働の危険性を訴えた。
宮下さんは、狭い若狭湾岸に一五基(敦賀1・2、ふげん、もんじゅ、美浜1〜3、大飯1〜4、高浜1〜4)もの原発が集中する福井県での反原発運動について、原発が動き始めてから四五年経ったいま、原発に依存する住民が増えている現実の中で、反対運動を作り上げることのむずかしさを率直に語り、京都や滋賀をはじめとする関西圏一円の運動を作り上げていく必要性を強調した。
最後に、経産省前テントひろばの高瀬さんが、二月七日の「テント撤去・原発再稼働を許すな集会」と二月二六日の裁判での判決を許さない行動への結集を呼びかけた。
集会終了後、週末でにぎわう池袋の繁華街を一周するデモを行った。 (K)
コラム
介護が変える生活
昨年一二月。実家に住む母が二度目の脳梗塞で倒れ、緊急入院した。昼休みに私は安否確認を兼ね、毎日職場から電話をかけていた。その日は奇しくも父の命日。週末には墓参りに行く約束をするはずだった。
呼び鈴が何度鳴っても出ない。やがて妹が興奮した声で、母が救急車で運ばれたことを告げた。動転した私を、周辺の地理に詳しい同僚が車で送ってくれた。
患者本人はパニックに陥っていた。数人の看護士らが、ベッドから起きあがろうともがく彼女を、懸命に抑えていた。医師から別室に呼ばれた私は、パソコンの画像を見せられた。「何が起きてもおかしくない。覚悟はしておいてください」。
症状は深刻であり、本題は延命治療の諾否のようだった。同じ「脳卒中」で父の死に目に会えなかった私は、迷わず「治療の中止」を拒否した。まるで息子の世代の医師は後日、「延命治療はそんなに甘いものじゃないですよ」と突き放した。感染症の発熱と抗生剤投与。その副作用による隔離治療。数々の難局を乗り越えた母は、三途の川から生の岸辺へと戻ってきた。
「家に帰って子どもたちの夕食の支度をしなければ」――繰り返し訴える母の執念は、病院側の無慈悲な「抑制」との闘いでもあった。まったく動かなくなった左の手足を懸命に右手で支え、脱出を試みた。血管性の認知症が進行し、他の患者の迷惑だからと、病室を転々とした。
それまで数十年間、音信不通だった兄弟姉妹が病院に集まった。私は毎日、見舞いに訪れた。母の入院を通じて、私たちはもう一度結束したかに見えた。振り返れば本人の日々の言動に、細心の注意を払うべきだった。兆候は確実にあった。
症状が安定すると、今度は退院を迫られた。転院先の選択、介護保険の申請、本人名義の預金の払戻しや解約。課題は山ほどあった。
要介護認定審査日の午後。国会では、介護報酬の引き下げをめぐって民主党の山井和則が、安倍首相を厳しく攻めたてていた。ただでさえ敬遠される職業への予算を減らせば、そのツケは施設と利用者を襲う。政府はそれでも昇給が可能だと言い張り、山井はその矛盾を突き続けていた。
私の現在の日課は「介護」ではない。それを他者に代行させているに過ぎない。それでもこの二カ月で生活が変わった。夕食は遅れ、土日の活動から足が遠のいた。何が起きるか分からないという不安が、家族を母の元へと駆り立て、おむつ交換から職員の言動など、その日の出来事をメールで報告している。
他国で囚われたこの国の人質も、重労働に悲鳴をあげる福祉労働者の姿も、安倍には他人事のようだ。怒りとそれを行動で示せない私のジレンマ。酒の量だけが着実に増えていった。 (隆)
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