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    かけはし2015.年1月12日号

知事選・総選挙の勝利はどのように実現されたか


インタビュー

沖縄の活動家に聞く(上)

 二〇一四年、辺野古新基地建設に反対する沖縄の闘いは、質と量の両面において画期的ともいえる前進をかちとった。現地での大衆的実力阻止の闘いの拡大と結びつき、一月名護市長選、九月同市議選での基地反対派の勝利につづき、一一月沖縄県知事選では、「県外移設」の公約を破って辺野古新基地建設を容認した仲井真弘多知事を、基地反対の「沖縄アイデンティティー」を掲げた翁長雄志候補が一〇万票近い大差で圧勝したのである。この勝利は一二月の総選挙にそのまま引き継がれた。沖縄の四つの小選挙区すべてで翁長選挙を担った共産党、社民党、生活の党、保守系無所属の候補が共同候補として自民党候補を打ち破って当選した。この闘いはいかに作り出されたのか、そして今後の辺野古新基地建設反対の展望は、どのように切り開かれるのか。辺野古現地での攻防と選挙運動を先頭で担った沖縄の労組活動家Aさんにインタビューした。インタビューは年末に東京で行った。(本紙編集部)

オスプレイ配備への怒り

――まずは大きな勝利を収めた県知事選と総選挙の背景についてお話を伺いたいと思います。

 勝利の背景として最初に感じるのは二〇一二年のオスプレイ配備ですね。オスプレイの配備は一九九六年のSACO合意の時点で、普天間基地が移設される辺野古に配備することが米国から日本政府に通達されていた、と言われています。それはずっと隠されていて、何度か野党議員が追及しても、そうした話は米国から来ていないと答えていました。埋め立てアセスメントの中でも、公告縦覧をして三段階のうち二回は住民が意見を言えるのですが、その段階までは政府はかたくなにオスプレイの配備について隠し続けました。一番最後の三回目に提出する書類に、オスプレイの話が出てくる。つまり住民が意見を言えなくなった段階ではじめてオスプレイの話が出てきたんです。アセスメントの中でも「後だし」の最たるものがオスプレイでした。
普天間への最初のオスプレイ配備は二〇一二年一〇月でしたが、そこで一二機が強行配備される。その一二機は、アメリカから岩国を経由してパラパラとやって来ました。翌年にもさらに一二機配備されました。オスプレイは危険だと言われ、どこも受け入れ先がない中で沖縄なら受け入れるだろうと押しつけられたという捉え方が県内では強かった。
それに対する抗議は大衆的なものとなり普天間基地の野嵩(のだけ)ゲート、大山ゲートの二つのゲートで平和・市民連絡会、嘉手納爆音訴訟団、普天間爆音訴訟団を中心に連日、朝の米軍の出勤時間に合わせて抗議活動を行いました。今でも米軍の出退勤時間に合わせた抗議は交替で続いているのですが、それが始まってから自分たちの反対行動に多くの県民が手を振るということがあって、私も今までにない反対運動への共感を感じましたね。
それまではなかなかビラも受け取ってもらえなかったのですが、オスプレイについては雇用の役に立っているわけではなく、危険物の押し付けだけであって、得する人など一人もいないのです。「なんで沖縄だけオスプレイなんだ」という気持ちが多くの県民の頭にもたげてきたのだと思います。もちろん沖縄タイムスや琉球新報がきちんと調べて、県民への情報提供をやったという要因もあります。これは日本政府の押し付けでけしからんという気持ちになっていきました。
二〇一三年六月だったと思いますが、台風をついて六機ほどオスプレイが飛来してきた時、住民がゲートを封鎖しました。復帰以後、嘉手納のゲートを住民が一時期封鎖したのは歴史的な出来事でした。また一時期、普天間のゲートがすべて住民によって封鎖されたこともあり、その時県警にごぼう抜きされた現場に玉城デニー議員とか糸数慶子議員もいて、県民の運動の盛り上がりを印象づけました。

沖縄を踏みにじる安倍政権


それにもかかわらず、安倍首相は民意に無関心でした。二〇一三年一月に県内の各自治体と議会の長が建白書をまとめて上京したのですが、その時のデモで保守系の首長が多いにもかかわらずヘイトスピーチをやっている連中に「売国奴」などという罵声を浴びせられた。その中に那覇市長として翁長さんもいたと思います。
沖縄ではオスプレイや辺野古の海をつくることに反対の声が強いにもかかわらず、本土ではそうしたヘイトスピーチすら黙認することを保守系の首長も目の当たりにしたわけですね。翁長さん自身もそのことがショックだったんだと思います。翁長さんだけではなく保守系の人たちがそういう話をしています。
その後さらに追い打ちをかけるように四・二八に「日本の独立を祝う祝典」(主権回復の日)が行われる。沖縄にとって四・二八とは日本の独立と引き換えに切り離された日であり、「屈辱の日」でした。これを日本政府が主催して祝賀行事を行う。しかも天皇を呼んで、期せずして「天皇陛下万歳」で終わったわけですね。仲井真県政の副知事だった高良倉吉も「すごく異和感があった。とてもじゃないけど万歳はできない」と言っていたそうです。
仲井真の方は、さすがに県民世論もあるので行かなかった。その時はまだ仲井真は「県外移設」という立場でした。本人は行かずに副知事に行かせ、その副知事が新聞で「異和感がある」と語る状況でした。
それから二〇一四年の「集団的自衛権」の話です。たしか五月一五日の集会をやっている時に、安保法制懇の「集団的自衛権」容認の報告が出たんです。つまり平和行進をやる人たちが集まっているところに、そういうニュースが入ってきたわけですね。何か四・二八とか五・一五といった県民の意識を逆なでするような形で、安倍政権はやってくるんですね。
二〇一三年の一二月、仲井真は最後に公約を破り、沖縄選出の自民党の国会議員は記者会見までやらせられて公約を撤回し、現地の新聞では「平成の琉球処分」と報じられました。仲井真や沖縄自民党の方針転換で、安倍政権が沖縄に有無を言わせず自分たちがやりたいことを自民党議員に対してすら押し付けてきている。たたみかけられるような形で、攻撃がかかってきたことが強く印象づけられましたね。
それに対抗するには次の選挙で、まず仲井真を落とさなきゃならないということになりました。その中で七月から辺野古現地での座り込みが始まるわけですね。

名護市長選の勝利


二〇一四年は名護市長選に始まる選挙の年だったのですが、それが辺野古で埋め立てを止めようとする闘いと結びついていきました。私たちの中でも、名護市長選を応援する集会に行くとか、総選挙で元県会議長の仲里利信さん(沖縄4区)の応援に入るという活動をやってきました。仲里さんは保守ですが二〇〇七年の時から、教科書での沖縄戦書き替え記述に反対する運動をしてきました。そうした中で、今までの選挙とは違う形で、オスプレイの配備から辺野古の埋め立てにつながっていくこの事態をなんとか止めたいという気持ちが、一月の名護市長選から運動の中心になっていたと思います。
それが名護市長選で勝利という結果が出て、次の石垣市と沖縄市の市長選は負けました。石垣市長選や沖縄市長選では辺野古現地の闘いとの結びつきが弱かった、という印象を持ちました。とくに石垣市は辺野古の問題に遠い部分があるし、沖縄市の場合は前市長の東門三津子さん(大田革新県政時代の副知事、社民党から衆院議員二期、沖縄市長を歴任)が泡瀬干潟の埋め立てを推進したということで支持基盤が揺らいでいたという問題があります。名護市長選のように辺野古の問題と結びつけて選挙運動をやれなかったということが負けた要因ではないかと思います。
九月の名護市議選は再選された稲嶺市長を支えるために、現在の与党過半数を守る闘いでした。結果的に一議席減らしましたが過半数は守りました。名護は現場と近いから、こちらの候補者がゲート前にやってきて激励をしながら選挙戦も闘うというかたちでやりました。野党側、つまり反稲嶺市長の側は辺野古問題をほとんど取り上げない形で選挙をやったんですが、稲嶺市長与党の優位は揺るぎませんでした。
公明党の二人は改選前から辺野古基地については反対という立場です。自民党の県連が辺野古問題での公約を撤回した中で、公明党の県連は、公明党中央がどうあろうと辺野古新基地反対の立場を維持しています。それが県知事選にも影響をしたでしょうね。「自由投票」で翁長支持とは言わなかったのですが。

「仲井真を落とせ」


仲井真を落とさなければ、というところで知事選は出発したのですが、最初のうちは候補を誰にするかという話の中で伊波洋一さんをもう一度という話もありました。最初は僕らも、まさか那覇市長をしていた翁長という自民党の人をかついで選挙をやるなんて思いもよらなかったんです。ところが翁長さんを候補にすることの背景としては、沖縄選出の自民党国会議員が「県外移設」の公約を撤回した時に、それはよくないという人たちが自民党の中にも出てきたわけです。その中心になったのは那覇市議会の新風会の人たちです。この会は翁長市長の最大与党だったんです。
翁長さんは、仲井真の前回の選挙で選対本部長をやりましたがそれを引き受けたのは、仲井真の公約に「県外」を入れることが条件だった。仲井真は前回の選挙に出る時に、最初は「県外」とは言っていない。しかし自民党沖縄県連の中で翁長さんたちは「普天間県外」を掲げなければ当選できない、と仲井真さんを説得した上で選対本部長に就いて、伊波洋一さんに勝った。伊波さんたちにとっては焦点がボケたわけですよね。それで当選したこともあって、前年の自民党の公約変更とか、「一度も県外とは言ってませんよ」「辺野古よりも県外が早いと言っただけで、県外はダメと言っていない」と繰り返し始めた仲井真に批判的になり、新風会と翁長さんは仲井真から離れた。
それから二〇〇七年の教科書問題の時、日本政府の今の方向感覚に危機感を持っていた戦争体験者で、西銘選対の本部長をしていた仲里利信さんたちもそこに合流していくことになった。沖縄島南部・南風原(はえばる)町出身の仲里さんは一月の名護市長選から、一人で稲嶺市長の応援に駆けつけていました。仲里さんはいったん県議をやめて引退していたんです。

原点としての一九五六年

 知事選のことで言えば私たちを含めて翁長でいこうというのは、現場の阻止闘争の中でなんとしても仲井真を落とすという気持ちがあり、翁長さんの話も聞いてみようということになったからです。翁長さんの話を聞いて多くの人たちが言っていたことは、彼の言っている「オール沖縄」はたんに選挙のための戦術ではないということです。
もちろん那覇市政への批判もありますし、僕らの職場でもいろいろの問題があります。小学校の統合問題でも住民の反対にもかかわらず、翁長さんは自分の考えをかなり強硬に押しとおした。それから保育所の民営化も地域の人の意見をほとんど聞かなかったという問題もある。
翁長さんへの反感は結構あったのですが、知事選に関する限り、翁長さんは「自分が仲井真知事を代えると言っているのは一九五〇年代の島ぐるみ闘争と言われたものの経験があるからだ」と言っていました。
「あの頃はみなお金がなくて苦しかったけれど、アメリカが出したプライス勧告(軍用地の一括買い取り)、つまり『かなりのお金を一括で払うから土地を売ってくれ』という米国に対して、多くの人はお金がほしい中でも売らなかった。島ぐるみ闘争への切り崩しの中で契約地主とかが増えていくわけだけれども、それでも一括で売り渡すのを止めたということは大きな成果だった。それは今も続いている。反戦地主が出てきたり、土地の収容のたびごとに地主の権利の話が出てくるのは『島ぐるみ』の闘争で、自分たちの先輩が一括売り払いをしなかったからだ。それに比べ辺野古を埋め立ててつくる基地はすべて国有地になる、その土地は沖縄の住民が二度と地主としての権利を行使できなくなる。だから一九五六年に島ぐるみで闘った人たちの成果をブチ壊すことと同じだ」。
翁長さんは、こうしたことを何度も話していました。
そのことを僕たちは非常に強い印象を持って聞きました。これは本当に辺野古の埋め立てを止めようとしていると思い、仲井真県政を退陣させる候補として翁長さんをかつぐことはいいんじゃないかと思ったんです。九月に辺野古浜で集まった五〇〇〇人集会にも翁長さんが現場に来てるんですね。これはもう仲井真県政に対決して辺野古を止めるんだという意思表示を、浜の闘いの現場でやるというところにまできている。この段階でわれわれも、もう翁長勝利で仲井真を引きずり降ろそうということを異和感なく確認することができたと思います。少なくともゲート前の雰囲気はそうだったですね。安次富浩さん(ヘリ基地反対協)や山城博治さん(沖縄平和運動センター)も、そういう気持ちを語っていたと思います。
それは私たち、米軍基地はすべて反対で安保条約やめちまえという立場の人たちだけでは、いま世論調査でいうと八割の人たちが辺野古野埋め立てに反対、普天間の代替を辺野古に持っていくのに反対という八割の世論をまとめあげるには、われわれだけで独自候補を立てて闘うことは可能性としてはありえない。八割反対という結果を選挙結果に反映させる候補として翁長さんを当選させ、仲井真を退陣させることがほぼ全体の合意になったんです。
その過程で、「翁長は『辺野古撤回』とは言ってない」という喜納昌吉のような声も聞こえてきましたが、自分が感じるかぎり辺野古の現場でそういう意見を言う人は、誰ひとりいませんでした。喜納昌吉は確かに「撤回」と言って選挙に出たわけですが、もともと民主党の「風」に乗って比例で当選しただけの人がもう一度議員になりたいから出てるだけではないか、大田元知事がそれを推しているのは何を考えているんだというのが現場の感じでしたね。喜納昌吉はそれまで一度も辺野古に来たことはないわけですから。そうした過程で、翁長さんを支持して一一月の選挙を闘うことが全体の気持ちの中に大きく入っていきました。出馬を前にして辺野古の現場に翁長さんが来たことは大きかった。

地元企業グループの動き


もう一つ経済界の中に翁長さん支持に回った企業グループがあり、選挙動員も前回までは仲井真の企業動員で動いたのですが、「金秀グループ」(沖縄の大きな企業グループ、土木・建設、鉄鋼、スーパーなど)の人たちは選挙運動に会社から出てくるんですよ。僕なんか異和感があるんですが、金秀ビルの入り口で受付をして出てきます。企業の出勤時間に横断歩道のところで並んでのぼりを立て、チラシを配るんですが、僕たちは半分くらいで金秀の社員が残りの半分でした。
それから「かりゆしグループ」(ホテルチェーン)や沖ハムなど、社長が率先して辺野古埋め立てに反対している企業なんかもそうですね。新聞広告も出しましたし「かりゆし」の平良朝敬社長は何度も集会にも来ていました。辺野古の基地をつくらないためには自分たちは何でもやる、と言っていました。
米軍基地があるよりもなくなった方が良くなる、というのがそうした企業グループの一貫した立場でしたね。その背景として北谷(ちゃたん)の返還地が、経済的にはすごく発展して多くの観光客が訪れる場所(アメリカン・ビレッジ)になり、那覇市での返還地である新都心は本土の小都市であるような賑わいを見せている。「かりゆし」の平良さんが言っていたのは、二〇〇一年の「九・一一」で沖縄の米軍基地はアメリカの戦争と連動していて、アメリカがテロの対象になれば沖縄の基地も同じレベルの警戒態勢に入る、その時修学旅行のキャンセルが相次いだ。「やっぱり観光は平和じゃなきゃできないんですよ」ということでした。今の米軍基地がどうこうと言う前に、新しくこれ以上米軍基地を作るのは絶対に止めなきゃいけない、ということを集会に来て何度も言ってました。
今まで仲井真を支えてきた経済グループの人たちまで、翁長さんといっしょに「辺野古に新しい基地を作らせない。普天間の返還の条件としての辺野古はおかしいんだ。普天間の代替地をなぜ沖縄が考えてやらなきゃいけないのか。もともと普天間は老朽化しているのだから撤去すべきで、われわれが危険だと言っていた時には応じなかったのに今頃になって日本政府は、危険だから辺野古に持っていかなければ固定化されると言っている」という話が何度も出てくるんですね。そういう要素があって、知事選で結果が出たわけです。
最終局面では、市町村長では仲井真支持が多かったのですが、市町村長の最終アンケートの中では「態度保留」の人たちが出てきました。国頭村とか東村でも、高江ヘリパッドの工事に対して防衛局のトラックが入って集落前を通るのだったら体を張って止める、と東村長が言うとか、翁長さんが勝つのではないかという状況の中で、仲井真を支持してきた首長が態度を保留するとか。仲井真側の企業動員が非常に落ちていたということも後で知りました。新聞記者たちが選挙後に、「内情」としてそんな記事を書いていました。
それから下地が出たことで、建設業界のトップは下地のお父さんですから、仲井真支持で積極的に動けなくなったということが新聞記者の後日談として出ていましたね。一〇万票という票差を考えれば、新聞記者の語る通りだったと思います。仲井真にとっては、動いてくれると思っていた人が動かなかった。(つづく)



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