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    かけはし2014.年11月24日号

軍事法廷、加害者に懲役45年宣告


加害者弁護人も「アマチュア的な求刑」

軍検察は死亡時刻・原因を立証できず

  4月6日に京畿道漣川の陸軍第28師団で先任兵らによる新参兵に対する暴行死事件が起きた。だが事件の真相は隠ぺいされ、4カ月が経過した7月30日になって市民団体によってその実態が明らかにされた。(「かけはし」編集部)

法廷を覆ったオモニの泣き声


10月30日、京畿道龍仁・陸軍3軍司令部普通軍事法廷(裁判長ムン・ソンチョル准将)。軍判事が加害者たちの量刑理由を口早に読みあげた。「殴打」「過酷行為」などの言葉が何度も登場し、「暴行」「死亡」などの単語がその後に続く。故ユン某1等兵の遺家族はこれまで必死に抑えてきた鬱憤を爆発させる。40の歳でやっと得た大事な息子を失ったオモニ(母)のむせび泣きが法廷を覆った。


休暇中の兵士に暴行は無理 


この日、軍事法廷は故ユン1等兵暴行死亡事件の加害者たちに対して「殺人罪」を認定しなかった。殺人の「未必的故意」を認定するには合理的疑いを排除できないという理由からだった。被告人たちの「性的醜行」の容疑も、事件を隠ぺい・縮小しようとしていた状況についても、具体的な言及はなかった。裁判部は過酷行為を主導してユン1等兵を死に至らしめた容疑(殺人など)で拘束起訴されたイ某兵長(23)に懲役30年、イ某(21)・チ某(21)両上等兵に懲役25年をそれぞれ宣告した。暴行を手助けした医務班医務支援官ユ某下士官(23)には懲役15年を、先任兵の指示に従って暴行に加担したイ某1等兵(21)には懲役3カ月、執行猶予6カ月を宣告した。裁判部は「殺人罪」の代わりに「殺人罪に次ぐ」重刑だという言葉をもってした。
判決直後、軍検察は「裁判部が事実を誤認し、量刑を不当に行った」とし、「控訴する」と語った。けれども傷害致死罪で懲役45年を宣告したのは極めて異例のことだ。現行法を見ると懲役刑の上限ラインは30年だ。さまざまな犯罪をしでかして刑を加重する場合、50年まで可能ではあるものの、大法院(最高裁)の判例を見ると傷害致死罪の最高刑量は懲役15年だ。殺人罪が適用されない限り2審、3審で加害者らの刑量が低くなり得る、ということだ。
被告人側の弁護人はこの日の法廷を後にする際、「今回の裁判は、なぜ軍事法廷制度を改革しなければならないかを見せつけている」と皮肉った。また「軍判事の量刑理由も納得できないけれども、本当の問題は『軍検察』のアマチュア的な求刑にある」と批判した。被害者の弁護人でもない、ほかならぬ加害者弁護人の嘆きだった。ユン1等兵事件を通じて見た軍事法体系の現在の姿はどうだろうか。
「休暇中の兵士が暴行した、というのですか」。
10月24日の公判で軍判事が軍検察に質問した。どうして休暇中の兵士がユン1等兵を殴ることができるのか、として公訴事実を確認したのだ。このような指摘に軍検察は、しばらくの間、言葉を発することができなかった。山のようにうず高く積まれた陳述書を数分間ひっくり返してみた後、「修正します」とだけ答えた。このような軍検察の態度に傍聴席からは、からかいの声が相次いだ。1審の宣告を前にして被告人らの罪名を審理することのできる最後の日だった。
検察は犯罪事実を立証しなければならない。いつ、どこで、誰によってユン1等兵が死亡したのかを正確に明示しなければならない。けれども軍検察は死亡時刻、死亡原因について語ることができなかった。1カ月が経過しても、5日以上も続いた過酷行為があったにもかかわらず、そして性的醜行があったという目撃者の証言があったにもかかわらず、どれひとつとして明瞭に立証することができなかった。軍検察のお粗末さは裁判過程の至る所で顔を出した。

頭に防弾ヘルメット被せて暴行?


10月24日、ユ下士が証人席に座った。ユ下士は暴行事件の主導者であるイ兵長を「ヒョン(兄貴)」と呼んでいた幹部だ。軍判事はユ下士の陳述内容が「全く理解ができない」と指摘した。特に「拡声器を持った手でユン1等兵の頭を殴った」という部分について、繰り返し確認した。これに対しユ下士は「手に拡声器を持っていたが、拡声器ではない方の手でユン1等兵の頭を殴った」と陳述した。陸軍28師団憲兵隊の調査で語った内容をそのまま繰り返しただけだった。
当初、ユン1等兵の暴行死事件は「窒息死」と結論づけられ、闇に葬られるところだった。軍人権センターの暴露によって世の中に知られるようになった。結審公判を前にして公正性の問題が台頭するとともに、事件発生の部隊である陸軍28師団から3軍司令部に移管された。軍検察は、常識的には納得できないユ下士の陳述に反論しなかった。事件発生から数カ月が過ぎた時点でも、陸軍28師団憲兵隊の記録を中心にして公訴事実を維持するだけだった。追加の検証も、何らかの措置もなかった。ユン下士は、軍隊生活の教訓を与えるための目的でユン1等兵の頭を殴ったと陳述した。ただ、そのまま殴ればひどくケガするかと思ってユン1等兵の頭に防弾ヘルメットを被せて、机のスタンドで殴ったと言った。このような陳述は、それまでの陳述とは真っ向から違った。加害者であり、かつ目撃者でもある他の被告人らの陳述内容とも食い違う。ところが、陳述が食い違っている状況で軍検察はユ下士にこのような内容を追及しなかった。公訴事実ばかりを確認しただけだ。
被告人たちの陳述を総合してみると、自隊への配置を受けた後、35日間ユン1等兵は持続的に暴力にさらされていた。新兵配置を受けて、担当職務のない2週間、目の前でイ兵長の主導下で同期のイ1等兵が暴行されるのをただ目撃しなければならなかった。イ兵長はユン1等兵が見ている前でイ1等兵の口に歯みがき粉1本分を注ぎ込んだ。水拷問も続けられた。ユン1等兵にも同じ暴力が加えられた。
イ兵長の暴力は用意周到になされた。1人が殴れば別の1人が見張りをし、戻って来るとユン1等兵を殴った。先任兵たちはユン1等兵が殴られて倒れると「樹液」を注入して正気づかせた。ユン1等兵が我に返ると再び殴った。ユン1等兵が亡くなる5日前の4月1日には眠らせずに騎馬の姿勢を強いた。被告人たちはユン1等兵に絶えず、騎馬の姿勢をさせた。死亡する2日前にも食事を取らせず騎馬姿勢をさせた。持続的な過酷行為に連なった暴行。ユン1等兵は死亡直前に小便をもらした。息もあえぎあえぎだった。加害者の中の1人であるイ上等兵が口に水を入れたけれどもユン1等兵は飲みこむことができなかった。
倒れたユン1等兵にイ兵長は「仮病を使うな」と言って胸を殴った。2度の足蹴り。それが決定打だった。イ兵長は法廷で、事件当日「なぜ足蹴りをしたのか」という軍判事の質問に「ユン1等兵が単純に殴られるのが嫌で『仮病』を使っていると思った」と語った。事件発生翌日の4月7日、被告人らはユン1等兵の机を漁り、個人の物品を焼却処分した。事件隠ぺいや証拠でっちあげの意図があったことを示唆する状況だ。

事件発生後、物品を焼却処分

10月30日、裁判部は被告人らが遅ればせながらも反省する兆しを示し、量刑に参照すると語った。主犯であるイ兵長は、ユン1等兵が軍生活をキチンとせず、行動や答弁がノロマだったとして責任を転嫁していた。ユン1等兵の同期兵であるイ1等兵を除いた5人の被告人らは、自分たちに不利な陳述内容は知らぬ存ぜぬで一貫した。これに対し、わが軍司法当局は誠意のない起訴と形式的な処罰を下した。200余日前に亡くなったユン1等兵は、今なお安らかに眠ることができずにいる。(「ハンギョレ21」第1035号、14年11月10日付、チョン・ヒョンファン〈ディフェンス21プラス〉記者)


コラム 

柿とカラス

 立冬の一一月七日朝、外がざわついているので窓を開けた。なんとわが家の自転車の籠に柿が詰まっているのが見えた。要領を得ないまま外に出ると「朝から騒がしくしてすいません。すぐに終わります」と真向いのおやじさんが二階のベランダから声を掛けてきた。見ると尖端にハサミが着いたテレフォンショッピングで見掛ける竿で柿の収穫中。自転車の柿はお裾分けらしい。「一番上までは届かないので『木守柿』のつもりで残します」……「残してもカラスの餌ではなんともうらめしい限りですが」。見上げると二本の柿の木の天辺にはそれぞれ五個近い柿が残っており朝日に輝いている。
 横浜では四〜五年前から生ゴミ置場をパイプと網で厳重に囲うように市が強力に行政指導をしている。この結果、餌場を取り上げられたカラスがあろうことか「木守柿」を狙い始めたのだ。これまで年明けから寒の入りにかけて木に残った柿を求めてメジロやシジュウカラなどの小鳥たちが姿を見せていたが、近頃は小鳥を追い出すように煩(うるさ)いヒヨドリやムクドリが飛来し、最後には大威張りでカラスが来襲するというパターンができあがっている。
 やがて柿の実がなくなると次は四〜五軒先の庭にある三本のみかんの木に移動する。この時もまず小鳥たち、ヒヨドリ、カラスの順番だ。木の持ち主は今では正月からみかんを収穫し始めている。「完熟していなものもあり、熟したものから順序に二月末までかかって採るのが一番ですよ」と嘆く。
 七〇年代以降カラスは生ゴミをあさって繁華街から住宅地へと勢力を拡大し、あっという間に都市部を席巻した。八〇年代に入ると清掃車とカラスの追い掛けっこの写真が「今時の都会」という形でマスメディアを賑わした。しかし今、生ゴミから排除されつつあるカラスは人間が小鳥たちが啄むように残した「木守柿」にまで触手を伸ばし始めたのだ。私が目にしている光景は決して特異ではなく、すでに首都圏では一般化しているのではないだろうか。カラスの「生命力の強さ」が垣間見える気がする。
 しかし今回、死語に近いと思っていた「木守柿」という言葉に久し振りに出合った。私は「きもりがき」と覚えていたが、真向いのおやじさんは「こもりがき」と言っていた。地方によっては「きまもりがき」と使う所もあるという。自然の恵みに対する感謝が風習として全国各地に残ってきたことが理解できる。
 雪国で育った私にとって「木守柿」は雪の中ですでに葉を落として寒々と柿の実を残している「初冬」の風景だが、首都圏では紅葉と一体化した「晩秋」の絵らしい。どちらにしろ、懐かしい響きを持つ「木守柿」の風景にわが物顔のカラスは似合わない。     (武)

 


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