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    かけはし2014.年11月3日号

「陥落間際」どころか反転攻勢


クルディスタン

コバニ戦争の結果――これまでのところ

ISISの攻撃を撃退し続けている



 コバニ戦争は過去一カ月続いてきた(一〇月二一日現在:訳者)。九月一五日に始まった攻撃は、当初の計画に従えば、まず周辺の村々、次いで町の中心に対して、九月二〇日までには終わるはずだった。
 トルコ国家の将校たちもまた、この計画に沿って偶発事件をいくつか起こし、二〇日までにコバニの四〇万人がウルファにやって来るものと期待した。このようにしてトルコは、コバニに向けて、それが陥落した後にその砲火を開く最初の国になると思われた。
 この計画が崩れたとき、ある者たちはあらためて書き直された計画の中で、コバニのモスクで間近の祭事を祝うことなどを話していた。ある者たちはまた、決して具体化することのなかった予想シナリオの類の一面見出しを書き飛ばすことを抑えることができなかったほどに、この計画にのめり込んでいた。エルドアンはこの時期、自身をもはや抑えることができず、コバニは陥落の瀬戸際だなどと公言することで、彼の感情を赤裸々に漏らした。
 しかしながらコバニは決して陥落しなかった。それは抵抗した。そして今現在抵抗を続けている。この抵抗は今、クルド人たちと中東のみならず、全世界の主要なテーブル上の課題となっている。

YPGは有利な
市街戦を展開
ISISによる九月一五日の攻撃は、ISISがモスルを占領し、ラッカのシリア軍基地を攻略した後では、ある種予想された展開だった。YPG(シリアクルド人の政治勢力、クルド民族防衛グループ)は彼らがもつ手段の枠内でそれに対する準備を行った。攻撃が始まった時YPGは、コバニ周辺の村々から人びとを立ち退かせた。そのうちの何人かはコバニに連れてこられ、残りは、彼らの居住地に近いスルクに入るため国境を越えた。この何万人という人びとの立ち退き作戦は、成功だった。YPGは計画された攻撃の規模が分かっていた。そして大虐殺を防ぐためにこうした用心をしたのだ。
地理的諸条件とISISがもつ武器の圧倒的優位性は、YPGが防衛線を狭めなければならない、ということを意味した。そうやることでYPGは、自身をより良好に配置することができた。最後の段階は市街戦だった。それゆえ主要な準備はこれに向けられた。ISISはこれをある種の弱さと信じ、彼らが達成した砂漠での前進が今回に向けても成功を示すと考えた。これこそ、エルドアン、何人かの米軍高官、また評論家が「コバニは陥落間際」との主張を行った理由だ。
しかしながら、ISISとの本物の戦闘は町の縁で始まった。ISISは彼ら自身の通り道を開くために、一定の距離を置いて迫撃砲を撃ち込んだ。これが、町の外縁部にある居住域に彼らが入り込むことができた方法だ。かれらは、YPG/YPJの戦闘員による待ち伏せ攻撃の結果として、数百人の戦闘員を失った。四日間にわたってISISは、どのような意味でもまったく前進ができなかった。彼らの攻撃は多くが撃退された。
今やISISは、YPGの陣地に対する自動車爆弾の使用を試みている。これらの自動車は気付かれ一定の距離から破壊されてきた。しかしこれらの爆発が作り出した破壊の中で、ISISの戦闘員たちは僅かながらの前進をすることができている。しかしながら市街戦においては、町を知っている者が有利となる。そして現在の市街戦の中で、YPGはコバニを、ISISにとってのバミューダ―トライアングル(船が迷子になる魔海を指す:訳者)に変えてしまった。
戦闘の展開を変えているもう一つの要素は、頻度を増す有志連合の空爆だ。過去二、三日、空爆は非常に効果を発揮した。空爆はISISの重火器に向けられた。しかし彼らの補給路が有効に標的となっていなかったが故に、現時点ではまだ、彼らは補充を受けることができている。何人かのYPG司令官にしたがえば、有志連合が空爆を現在の頻度ではじめから行っていたならば、ISISは、コバニに達することさえできなかっただろう。このことは、有志連合が制御された戦力の逐次投入作戦にしたがっている、ということを意味している。
有志連合の空爆の目標座標は、コバニから提供され続けている。しかし、提供された座標すべてが今なお目標になっているわけではない。このことは言われる必要がある。このことは、「救済者」となりたいという有志連合の切望の一部として読まれつつある。
他方でISISは、空爆の効果を下げる目的で、市内あちこちに自身を拡散させようと試みつつある。地上での陣地が互いに混在するならば、空爆の遂行はもっと困難となるだろう。
YPGは、コバニでISISを生き長らえさせるつもりはないと語ることによって、あらゆる者たちを驚かせている。彼らは「コバニはモスルではない」と語っている。われわれは、彼らの土地で生きるためにそのいのちを犠牲にする何千という人びとについて語っている。これこそが、太陽が明日昇らないと言うと同じほどにISISのコバニ奪取があり得ない理由だ。

 

クルド人に開かれ
始めた国際的側面
コバニの抵抗は、報道において、国際社会と外交において、クルド人たちにとっての重大な成果に向け扉を開くことになった。以前にはクルド人のことなど聞いたことのなかった人びとが、今やコバニを知っている。この抵抗は、「クルド自由運動」と「女性解放運動」を世界に導き入れた。それはさらに、クルドの代表者たちのために、重要な外交の扉を開くことにもなった。多くの重要な諸会合が、世界の重要な諸勢力と共に開催された。これらの成果は、この地域における諸クルドの地位を打ち固めるだろう。

民族統一の気運が
固まりつつある
コバニの抵抗は、ハラバジャとシンジャルの虐殺がもたらしたことと同じ筋道で、クルド人の統一を大きく打ち固めることになった。それは、大きな精神的、政治的相乗効果をもたらした。この土台の上で、まずKCKの一代表団が南クルディスタンの諸政党との会合に出向き、次いで南の諸政党が各自の中で集まり、ロジャヴァの諸政党がそこに合流した。クルドの政治的人物すべては、民族統一の路線を取り入れるよう強いられた。なぜならば、この路線を取り入れない者たちはクルドの民衆によって地獄に落とされるだろう、ということが最終的に理解されたからだ。

再考をせまられ
るトルコ政府
ISISの攻撃が進行している中で、トルコはサリー・ムスリム(クルド民主統一党、PYDの指導者)をトルコに招待した。しかしながらこのイニシアチブは、遅延戦術以上には先に進まなかった。「われわれはあらゆる方法で君たちを支援するだろう。必要なら、われわれもまたISISに攻撃を加えるだろう。まず安心し給え」、おそらくはコバニでの抵抗の熱意を冷やす目的で、トルコはこの類の約束を行った。クルド人たちはこのことに気付いていた。そして彼らはトルコに向けた扉を閉ざさなかったとはいえ、彼ら自身の用心を怠らなかった。もっと印象的ですらあったことは、クルドに向けられたトルコの敵意、またそれがトルコ国家の諸政策をどれほど規定しているかが今や公然となった、という事実だ。
トルコの立場は諸クルド勢力を強いて、情勢をあらためて分析させた。この再分析はいわば政治行動としてだけではなく、クルド人すべての精神と魂の中に起きたものでもあった。「トルコ―クルド関係はどのように進むべきか? この敵意は一体なぜなのか?」は、今度々問いかけられている疑問のいくつかにすぎない。
おそらくトルコは、クルド人がそうする以前に、これらの問題を考え続ける必要がある。これらの問題への解答がはっきりさせられることになる一つの場は、疑いなくイムラリ島だ。そこでは、クルド民衆の指導者であるアブドゥッラー・オカラン(クルド労働者党の最高指導者)との間で何回もの会談が続いている。コバニに向けた、またその情勢に対するトルコの政策と操作は、イムラリ島での会談と対話の将来を決めるだろう。
結論としてわれわれは、戦争のど真ん中にいる。戦争においては天秤は度々傾き得る。しかしながら短期的には、ISISは徐々に、コバニの市街地から、またコバニ周辺の村々から取り除かれるだろう。この進展の結果として、われわれは、テル・アビヤドから西まで、シリリンから南まで、ジャラブラスとアザッツから西まで、ISISは取り除かれるだろうと言うことができる。この突撃は、この地域の未来を決めるだけではなく、あらゆるクルド人とクルディスタンの運命にも形を与えるだろう。
人道のためのこの闘争を支援している人びとは勝利するだろう。「偏らない」との想定の下に誤った方に身を置いた人びとは、暗黒勢力と共に溺死するだろう。歴史はこれを書きとどめ、われわれはこの歴史をしっかりと見ることになるだろう。(一〇月二一日)
▼筆者はクルド人ジャーナリストであると共にTV制作者。(「インターナショナルビューポイント」二〇一四年一〇月号)

コラム

初めての広島


 去る八月、連れ合いが突然「広島に行かない?」と提案した。翌月には秋の観光シーズンが始まる。ネットでの宿探しも空しく、甘かったと諦めかけた頃、一軒のビジネス旅館を見つけた。ホームページは英語。主に来日する外国人客を泊めているようだ。英語で申し込むと、英語で返信が来た。
 初日は宮島・厳島神社へ。広電は市内を出ると猛スピードで宮島口をめざす。本殿は干潮だが、大鳥居は海水に浸っていた。瀬戸内海の美しい風景をカメラに収め、大急ぎで市内・八丁堀へ戻る。そこで簡単な夕食を済ませ、宿に戻った。
 普通の一軒家そのものである。ところが一歩中に入れば、世界各国の客の写真が、びっしりと壁を埋めつくしている。まさに異文化交流。この触れ合いが、母親のように慕われる女将の自慢であり、生きがいでもある。
 土曜の夜なのに他の客がいない。四畳半の部屋は布団を敷くだけの空間。深夜に廊下を歩く足音で、とても眠れたものではなかった。
 素泊まりなので、翌朝は空腹のまま辞した。別れ際彼女は、昨日玄関前で撮った一枚の写真をくれた。私たちは何人目の被写体になったのか。これも貼り出されるのだろうか。撮影の腕は確かだ。
 宿のすぐ横を流れる天満川に沿って歩き、平和記念公園へ向かう。六九年前のあの日を思わせる快晴だ。道路脇の緑地に建つ碑をのぞきながら、広大な敷地に入る。平和資料館東館は奇しくも、この九月から改修中だ。館内喫茶店のありふれたモーニングセットが、五臓六腑にしみる。夏休みを過ぎても、館内はごった返していた。
 本館順路でまず目につくのが「被爆再現人形」である。瓦礫のなかをボロボロの服でさまよう母子のジオラマは、強烈なインパクトを来場者に与えている。資料館サイドは全面的改修に伴い、撤去する計画だという。3・11被災地でも、被害を受けた船や建物の保存について議論があった。現物がその場所に残っているからこそ、人々は記憶を呼び戻して、未来への教訓とする。撤去には断固反対である。
 テレビでしか見たことのない式典会場に立つ。感慨もひとしおである。そして原爆ドームへ。元安橋周辺では、女子高校生らが署名を集めている。橋の上からの眺望は、世界遺産にふさわしいものだ。
 爆心地を確認して本通りアーケードに入ると、大都市の喧噪が襲う。東京と変わらない店が軒を連ね、若者たちが闊歩し、飲食店には行列が伸びている。重く胸に刻んだ核の悲惨さ。被害者への深い情念。平和への祈りと不戦の誓いをかき消してしまうかのようだ。
 資料館の売店では、すでに絶版になった文献も多数売られていた。学習を重ねて、何度でも訪れたい「ヒロシマ」である。(隆)



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