中国国家の階級的変質過程(上)
岩堀 敏
中国共産党が直面した困難とは?
歴史を画する大革命が抱えた
矛盾を拡大する路線上の誤り
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中国共産党の一党独裁体制の下で世界第二位の経済大国となった中国は、二〇三〇年代にはGDPでナンバー1になることが確実視されており、政治的・軍事的にも世界全体にその力を及ぼそうとしている。第四インターナショナルの中でも、「台頭する中国」について「形成途上の帝国主義」とする討論も始まっている。いま、中国の力と矛盾を現実的・歴史的に゛とう捉えるかは最大のテーマの一つである。この論議を進めるにあたっての論稿が岩堀同志から寄せられた。(編集部)
序 ソ連邦と中国の資本主義復活過程の相違
一九一七年のロシア十月革命の後、二〇年代初めからスターリニズム官僚反革命が進行していった。一九二三年のドイツ革命の敗北は、ヨーロッパ革命の序曲となるべきロシア革命を孤立に追いやり、スターリニズム官僚反革命に重大な力を与えた。翌一九二四年の第五回大会は、コミンテルンにおけるスターリニズム官僚反革命の始まりを示した。それは、過渡的綱領とプロレタリア統一戦線戦術をはじめとする第三回大会路線の清算、「レーニン主義」なるものの登場とその名による各国共産党の一枚岩的「ボリシェヴィキ化」=スターリニズム化、そして一国で社会主義建設が可能とする「一国社会主義」に端的にあらわされている。
それに対して、十月革命を体現しようとするボリシェヴィキ=トロツキストは闘いぬいたが、ソ連邦内部では文字通り殲滅されてしまった。さらに一九二七年の第二次中国革命の敗北(後述)は、スターリニズム官僚反革命に最終的ともいえる力を与えた。
それでも、ファシストの侵入に対してソ連邦の人民は死力を尽くして「大祖国防衛戦争」=労働者国家防衛戦争を戦い、ファシズム解体の最大の力を発揮した。こうして、トロツキーの予測に反して、第二次世界大戦が終結したとき、スターリニズム国際ヘゲモニーはピークに達していた。
以来、堕落した労働者国家ソ連邦において官僚打倒の政治革命はついに成立することなく、一九九一年、ソ連邦は崩壊した。それは、資本主義の復活であるとともに、旧国家の崩壊であり、共産党の解体であった。
これに対して中国では、ソ連邦のような劇的な姿をとることなく、長い時間をかけて資本主義が復活していった。国家も共産党も崩壊しなかったばかりでなく、いっそう強大な力を発動し続けているようにみえる。
中国について考えるとき、多くの点で基礎的な概念につけられた言葉の混乱に突きあたる。たとえば、「右派」「左派」がそうである。少なくとも一九三八年(日本帝国主義の中国侵略開始の翌年)に延安で開かれた六期六中全会以降、毛沢東は革命戦争を政治と軍事を結びつけて戦いぬく中国共産党の意志力を体現する人物となった。毛沢東主義以外に、戦略・戦術・綱領は存在しなくなっていた。しかも今日にいたるまで、中国大陸において毛沢東主義に綱領的に対抗する左派は登場していない。そのため、「右派」であれ「左派」であれ、毛沢東主義を基準にするかぎり、ほとんどの場合、戦術的ないし人脈的な事象に便宜的につけられた「符牒」にすぎない。
「社会主義」もまた、多くの場合、「共産党一党支配」と同義で使われる。たとえば「社会主義市場経済」は、「共産党一党支配のもとでの市場経済」と読むほうが実態に近い。さらに「階級闘争」は、プロレタリアートを主体にした闘争ではなく、官僚的抑圧と同一視して使用される。今日、資本主義を指揮するようになった「共産党」は、その名がどうであれ、もはや共産主義者の党ではありえない。
以下、一九四九年の中華人民共和国の成立から最近にいたる長い過程を、国家と労働者階級の関係を中心にして概観し、そのなかから、今日の中国の現実をとらえていきたい。なお、本稿は『台頭する中国――その強靭性と脆弱性』(區龍宇ほか著、つげ書房新社)に負うところが大きいが、ここでは煩雑さを避けるため、それ以外も含めて出展を示した引用はしない。
1 建国初期の中華人民共和国
A 苦難のなかで勝利した第三次中国革命
一八三九年に始まるアヘン戦争以来、清朝支配下の中国は帝国主義に蚕食され続けることになった。
一九一一〜一二年の辛亥革命(第一次革命)は清朝を打倒したが、中国全土を統一するにはいたらなかった。さらに、ロシア十月革命の影響をうけて、一九一九年の五四運動に始まり一九二七年の上海労働者のゼネストと臨時革命政府樹立にいたる第二次革命は、蒋介石のクーデターによって文字通り血の海に沈められてしまった。
苦難を強いられた中国共産党は、長征のなかから農民を主体とする人民解放軍による抗日戦争、さらに国民党との内戦を経て、ついに一九四九年に国家権力を獲得した。こうして中国人民は、一世紀にわたって奪われていた独立し統一した近代国家の土台を獲得することができた。中国共産党は地主階級とブルジョアジーを消滅させ、国有企業のなかに新たな労働者階級をつくりだしていった。
この偉大な反帝国主義民族解放革命は、天皇制旧日本帝国主義支配下にあった東アジア諸国での民族解放革命=第二次アジア革命の最先端でもあった。だが、革命中国は、翌一九五〇年には強大なアメリカ帝国主義による第二次アジア革命封殺である朝鮮戦争に直面しなければならなかった。革命中国は、息つぎの間を与えられなかった。中国はもちこたえることができたが、朝鮮半島は南北に分断され、第二次アジア革命は中途挫折させられた。革命中国が国際関係において依拠できるのは、自己を「平和勢力」と規定する中途挫折したアジア革命、そして堕落した労働者国家ソ連邦だけであった。
B 東アジアにおける「現状維持的世界的二重権力関係」の成立と毛沢東主義
勝利した中国反帝国主義民族解放革命は、その指導部の意図にかかわらず、永続的に社会主義革命へと前進していく力学のもとにあった。そこでは、プロレタリア民主主義のもとで民衆のエネルギーを総動員し、消費生活を含む抜本的な復興に取り組まなければならなかった。そのためには、工業が農業生産を支援し、農業が都市生活を支えられるような工業発展の技術的・物質的支援が必要とされた。
アメリカ帝国主義と対決する中華人民共和国は、ソ連邦との結びつきを強めるしかなかった。ここにおいて、東アジアにおける「現状維持的世界的二重権力関係」という国際関係が成立することになった。中国国家の階級的性格は、深い人民的結びつきをもった反帝国主義民族解放革命とともに、この国際関係によって規定された。中国国家は、国内的階級関係というより、国際関係によってプロレタリア国家となった。
だがこれは、矛盾に満ちたものであった。
まず、第二次中国革命の悲劇的敗北は、共産党に対して国民党の内部で闘うことを頑強に強要し続けたモスクワの犯罪的役割なしにはありえなかった。この敗北から革命を救い出そうとする過程で毛沢東の共産党は再形成されていった。そこでは、モスクワを公然と批判することは絶対的に避けながら、中国共産党内部からモスクワの影響力(陳独秀に代表される国際左翼反対派と結びつく傾向はもとより)を徹底的に排除していった。
ついで、中華人民共和国が成立してからも、モスクワとの協力関係はプロレタリア国際主義にもとづくものではなく、「一国社会主義」と「一国社会主義」の関係を超えることはなかった。モスクワは北京を従属させようとたえず圧力をかけた。工業化にとって不可欠な技術的・物質的援助についても、モスクワはことあるごとに引き揚げると脅し、やがて一九五六年に中ソ論争が始まると全面的に引き揚げてしまった。
モスクワとの関係がこのような対立をはらむものであったとしても、中国共産党はスターリニズムから独立していたわけではない。民主主義革命と社会主義革命の機械的な二段階革命戦略においても、資本主義から社会主義への過渡期の戦略においても、革命過程におけるプロレタリア民主主義の決定的な役割についても、毛沢東の共産党は完全にスターリニズムの枠組みのもとにあった。
そればかりか、孤立のなかで強いられた「自力更生」を、みずからの「戦略」にまで固定化してしまった。さらには、「一国社会主義」さえ通り越して「一国共産主義」、つまり中国一国で共産主義に到達しようとする無謀な試みを実行するにいたる。まさにマルクスのいう「粗野な共産主義」へと傾斜していくのである。
こうして、スターリニズムは中国永続革命に対する強力なブレーキとして作用していく。
C 「新民主主義革命」と「社会主義革命」
ロシア十月革命が勝利したとき、爆発的な解放感をもたらした。多くの労働者は自発的に工場から資本家を叩き出し、労働者自主管理に入っていった。だが、中国ではそのようなことは起きなかった。中国共産党がなしとげようとしたのは、あくまでも「新民主主義革命」と名づけられた資本主義を消滅させないことを前提にした革命であった。たとえば、土地改革法にもとづいて土地改革が実施され、地主から土地を没収して三億人に及ぶ農民に分配した。だが、国民党時代の国営企業は引き継いだが、さらに国営企業を増強し、計画経済を推進するようなことはなされなかった。毛沢東の共産党にとって、「新民主主義革命」と「社会主義革命」は機械的に峻別される別ものだったのである。
一九五三年、毛沢東は「過渡期の総路線」を指示した。そのなかで、一九一九年の五四運動から一九四九年の権力獲得までを「新民主主義革命」とし、この年から一九六七年までを「資本主義から社会主義への過渡期」とした。ところが実際には、一九五六年に「社会主義化」を宣言した(それは、今日まで変更されていない)。「過渡期の総路線」は、言葉通りのものではなく、「社会主義建設の総路線」への移行の布石として、「新民主主義革命」は終り「社会主義革命」に移行することを宣言したと考えるべきであろう。
それは、革命の「段階」を恣意的にジグザグするばかりでなく、「社会主義」の内容そのものをあまりにも「粗野」なものにせざるをえなかった。これは、毛沢東の共産党が「ブルジョア的なもの」や「資本主義的なもの」を「撲滅」さえすれば、そこに「社会主義的なもの」が現われると考えていたのではなかろうか、とさえ思わされる。
D 「百花斉放、百家争鳴運動」と「大躍進運動」
実際、「社会主義化」が宣言された一九五六年には、「百花斉放、百家争鳴」運動が展開された。そのなかで共産党に対するさまざまな批判が噴出したため、翌年には「反右派」闘争へと転換された。これは、「人民戦争」の延長上のような、「統制された大衆動員」による「思想改造」運動という特色をもっている。その結果、数十万人に「反党、反社会主義右派」のレッテルが貼られ、その大部分は労働キャンプに送られ、軽くても降格、大幅減給がなされた。
また、この一九五六年には、九六%の農民が個人耕作をやめて合作社に加入し、八五%の工業・商業企業家が公私合営方式に改組され、九一%の手工業店が手工業合作社にとって替わった。
続いて一九五八年、中国共産党第八回大会第二回会議において「社会主義建設の総路線」が提起され、「大躍進運動」と「人民公社化運動」が開始されたが、それは惨憺たる結果をもたらした。「人民公社」という形をとった農民の強制集団化は、すでに地主の土地を没収したあとでは富農が一大勢力を築く危険はなく(細分化されすぎた土地が農業生産の効率性にとって障害になっていたとはいえ)、小さな「社会主義」をユートピア的に築く以上にはならなかった。実際、農業生産は極度に縮小し、自然災害ともあいまって大飢饉をもたらした。その規模は、一九五九年から六一年までの三年間に三千万人から五千万人が餓死したとされるほどである。また、「土法高炉」というごく小規模な溶鉱炉による製鉄がなされたが、それは膨大な資源を浪費しただけであった。
なお、一九五九年にもたれた共産党八期八中全会(廬山会議)において「大躍進」政策の失敗を認めた彭徳懐国防部長は解任され、後任に林彪がついた。また、同年ひらかれた第二期全人代で、国家主席は毛沢東から劉少奇に代わった。ただし、毛沢東は「大躍進」政策の失敗を認めたわけではない。そのため、「大躍進」政策は一九六一年まで続くことになる。
この時期、フルシチョフによるスターリン批判「秘密報告」、ならびにポーランドとハンガリーにおける反官僚大衆蜂起(一九五六年)に見られるように、スターリニズム国際ヘゲモニーは動揺し始めていた。
E 中国共産党の少数民族政策
一九四九年に成立した中華人民共和国は、清帝国の版図を引き継ぎ、中国人民による独立し統一した近代国家の土台を獲得することができた。だが中国共産党は、そこに暮らすウイグル人、チベット人などの少数民族に対して民族自決権を奪う政策を続けている。
一九三一年、中華ソビエト第一回全国大会がひらかれた。そこに中国共産党が提案し、採択された「中華ソビエト憲法大綱」には、次のように明記されている。「中国域内の少数民族の自治権を承認し、各弱小民族が中国から離脱し、自ら独立国家を建設する権利を認める。モンゴル、回、チベット、ミャオ、リ、朝鮮人など、およそ中国域内に居住するものは、中華ソビエト連邦への加盟あるいは離脱、あるいはみずからの自治区域を建設するという完全な自決権を有する」。
だが、この立場は、中国共産党が抗日戦争と内戦を有利に進めるにつれて後景に退いていく。たとえば、一九四七年に「内モンゴル自治政府」が成立するが、一九五〇年には、中国政府は「自治政府」ではなく「自治区政府」と名のるよう命じた。
また、一九五二年に公布された「民族区域自治実施要綱」では、各民族自治区は中国領土の不可分の一部であり、自治区の自治機関は中央政府の統一指導下の地方政権であると明言された。すなわち、少数民族は自決権を認められないばかりでなく、中央政府(共産党)によってあらかじめ決められた区域のなかでのみ、しかも中央政府の「指導」のもとでのみ「自治」が与えられているだけなのである。
このような民族抑圧政策は、ウイグル人、チベット人などの少数民族にとって耐えがたいものであるばかりでなく、中国に不断に危機をもたらす要因になり続けることになる。また、「中華民族」が存在するかのようにされ、「大中華ナショナリズム」の台頭する基盤がつくられていく。
2 文革と二つの天安門事件
A 「文化大革命」の開始と終息
一九六六年、「プロレタリア」とも「文化」とも「大革命」とも無関係な「プロレタリア文化大革命」が始まった。「造反有理」を掲げる紅衛兵運動の嵐が中国全土で吹き荒れ、ときに紅衛兵同士が衝突しあい、「内戦」ともいえる状況を呈した。
毛沢東によれば、文革は資本主義の道を歩む「走資派」を打倒するために開始された。当時、資本主義の影さえ見ることができなかった中国で、「走資派」は、毛沢東によってつくりだされた。実在しない「走資派」を「打倒」するとする文革は、国家と党の上に毛沢東という個人が皇帝のように居すわることなしにはありえなかった。毛沢東個人崇拝は、文革をつうじて頂点に達し、その終息とともに崩壊した。
一九七一年、「文化大革命」の推進者であり毛沢東の後継者とされていた林彪は、毛沢東から批判されることを恐れて航空機で国外逃亡をはかったとされている。その真相は闇のなかだが、いずれにせよこの航空機が墜落して林彪は死亡した。それ以降、毛沢東個人崇拝は急速に形骸化していき、江青らの「四人組」(毛沢東による命名)以外に毛沢東を支える官僚層は枯渇していった。
文革終息の動きは、まるで文革が「巨大な徒労」であったかのようにして始まった。一九七四年、中国共産党は、近く第四期全人代をひらく決定をしたとする通知を出し、「プロレタリア文化大革命が始まってもう八年経った。現在は安定が必要だ。全党、全軍は団結すべし」という毛沢東の意見を伝えた。
また翌年五月、毛沢東は政治局会議で、安定団結を掲げて「四人組」を批判した。七月には「寛大に処理し、活動に従事し、病気の者は治療しなければならない」と指示し、この前後から老幹部が出獄治療、あるいは活動に従事するようになった(国家主席であった劉少奇は、紅衛兵に重傷を負わされたにもかかわらず、治療することさえ許されることなく死亡した)。
ちなみに、「走資派」とされて一九六八年から軟禁状態におかれていたケ小平は、一九七三年に党活動に復帰し、一九七五年一月には毛沢東の提議で党副主席、国務院第一副総理、中央軍事委副主席、総参謀長になっている。
B 紅衛兵運動の背景と結末
国家権力獲得にいたる中国共産党と人民解放軍は、深い人民的結びつきをもっていた。だが、北京に入城したかれらは、ただちに特権的な地位についた。だれもがその「出身」によって「紅五類」(労働者、貧農・下層中農、革命軍人、革命幹部、革命烈士)と「黒五類」(地主、富農、反革命分子、右派分子、悪質分子)に機械的に分けられた。共産党は支配者であり、党員であるだけで抜きん出た地位に立つことになった。文革以前の一七年間の共産党の統治は、特権階層と人民の間に重大な矛盾を生み出し、「黒五類」出身の大部分の人々はさまざまな差別を受けた。
たがいに暴力的に対立しさえするさまざまな紅衛兵運動が登場した。エリート官僚の子弟を全面に押し立てた紅衛兵運動もあったし、紅衛兵の攻撃から工場を防衛する労働者の激烈な闘争もあった。どの紅衛兵運動も「自分たちは毛主席に支持されている」という前提で「造反」していた。そうでない傾向は、芽のうちに抹殺され、闇から闇へと葬られた。
とはいえ、あの巨大な爆発力は、一九四九年以降の官僚の特権と自らへの差別に対する社会的憤りが基盤になければ考えられない。さらには、工業化にともなって一億人に達しようとした労働者階級の存在が、中国における新たな社会環境を形成しつつあったこともそこに加わっている。文革をつうじて、一九四九年以降あった身分制度のような社会関係は、全面的に再編されていった。だが、人民から独立した特権層がなくなったわけではなく、そのなかから新たな特権官僚層の再編・再結晶化が始まった。共産党と行政官僚も、それぞれの部門の官僚(個人とその人脈)のもとにあり、人民解放軍もそれぞれの軍官僚(指揮官とその人脈)のもとにあり、たがいに合従連衡したり、つぶしあったりしてより高い権力を求めて闘争した。そして、そこで生き残ったり「名誉回復」されたりして特権官僚層の再編と結晶化が進んでいった。
また、文革の大混乱期にあっても、共産党・行政機関・人民解放軍の中央機構は崩壊しなかった。ニクソン訪中・日中国交回復(一九七二年)が文革期であったことからすれば、中央行政機関は機能していたこと、しかも当時の極端なまでに左翼的な言辞とは裏腹に、「ソ連社会帝国主義」と対決するために、また経済援助を求めて、日米帝国主義と融和する方向を探っていたことは明らかである。ここに、東アジアにおける「現状維持的世界的二重権力関係」は、帝国主義に有利な方向へと大きく揺らいでいく。
(つづく)
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